蕎麦の散歩道

美味しい蕎麦と、楽しい食の道を歩む。

美登里 浅草橋  1万円の蕎麦

2007-01-31 20:53:22 | 神田・浅草・神保町・猿楽町周辺・新宿区

自家栽培の蕎麦はまだあるだろうか。
昨年は不作だったから、1月一杯で終わったような気がしていた。
今年は豊作のようなことを聞いていたから2月くらいまであるのではないか。美登里は野菜は全て自家栽培なのだが、蕎麦も自家栽培です。ただし、年初めの2ヶ月位夜だけにその自家栽培の蕎麦を出している。

(手前はにんにく黒酢漬け7年もの。特別ありがたい気がする)

「まだ蕎麦残ってますか?」店に入ったのが8時10分くらいなので念のために聞いておいた。
いつもの1000円の野菜セットに金目の開きを頼んだ。豚の角煮も頼んだら多すぎるかもしれないといわれてそれだけにした。
ここは野菜だけでお腹一杯になる。珍しいものが出てきた、にんにくの黒酢漬け、7年物だそうだ。
「コレはかなりのものだね」カウンターに来ている一人客も僕と同じようなペースで同じものが出てきている。
「効きそうで、いいかもしれない」単純に僕が喜ぶ。


(菜の花がここにもあった。ブロッコリーの胡麻ソースが美味しい)


(ことこと時間を掛けて煮たカブ)


(肉ジャガです。素朴な味付けです)


(生野菜をポリポリ、体が生き返るようです)

 家庭料理らしいやさしい味付けのものが出てくる。ジャガイモの煮付け、カブの煮物、菜の花のおひたし、ほうれん草のおひたし、隣りの方が感動している。


(皮目がカリカリして香ばしい。かなり大きい金目でした)

僕は金目鯛をつつきながらながら日本酒のぬる燗をやりだした。ここは茨城の農園なので酒も同じ茨城の1人娘です。その特別純米が美味しかったですね。

目の前に蕎麦があった。今年の自家栽培の蕎麦はどうなのでしょうか。
「今年と去年のものは全く違いますね」箸で二口ほど食べて、僕が言う。
「穀物の味がするよね」隣りの方が言う。
「草の香りがして、美味しいですよ」僕がご主人を見た。
「今年のは常陸秋蕎麦の種なんです」
昨年は常陸秋蕎麦の種の調達が遅れてしまい、別な品種のものだっだそうです。 多分出来具合に自信があるのでしょう。でも、このご主人はそれ以上のことは言わないのです。


(常陸秋蕎麦の種から生まれた、草の香りがする蕎麦)

蕎麦の自家栽培なんかやるものじゃない、ある人が言っていたがそれは大変な手間が必要になる。その労力が必ずしも報われるものでもない。
「一枚、1万円ほど欲しいでしょう」隣の客が言う。
「手間を考えたらね」ご主人が笑う。
茨城までの往復回数、手入れ、刈り取り、天日干し、そんなことを想像して、お金に換算したらそうなるかもしれないと、思った。
僕は、一筋も残さず頂きました。
他のお店でもこうして残さず食べなくてはいけない思いました。30日・火曜

美登里 台東区浅草橋4-4-6 ℡03-3851-5141    11:30~14:0017:00~21:00 定休日 土・日・祝      美登里の前回の記事 

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あちらこちらに、春の足音

2007-01-28 22:42:43 | 今週のひと品

春の魚が奈津に届いていました。「のれそれ」です。穴子の稚魚。
これは、山葵しょうゆか酢味噌がよいのですが、奈津の酢味噌は程よく山葵が入っていて美味しいのです。
これは四国の土佐湾で獲れる春の先物です。どうして「のれそれ」と言う名前になったのかは現地でも不明だそうです。
2月あたりのものになってくると常磐物も出てきてもっと甘みのあるいい味になります。
のれそれをこのように食べられるのはこれもひとえに輸送と冷蔵技術の進歩です。


<4,5cmくらいの穴子の稚魚、透明な体です)

のれそれを出すようになったのは、奈津でもこの14,5年ではないでしょうか。もちろんその前から料亭ではあったのですが、それは高価で、我々の口には入りませんでした。
近年食材に関しては豊富になり、安く食べられようになりました。先日は松翁で牡蠣が美味かったのですが、奈津のご亭主が、ここ1週間どういうわけか牡蠣の美味しいのが出てきたそうです。
それは、時期なのか、養殖元がノロウイルス騒動が収まってよい生育のものを出してきたのか、良くわからないそうです。
確かに牡蠣の含んだ水が甘みを増したように思いました。


(生きた海老を手でちぎって食べます。頭は後で焼いてくれる)

お刺身は、春の魚のカサゴ、今が旬の同じカサゴ科のソイを頂きました。カサゴは刺身にすると白身の弾力、口に入った時の甘みが特別なものです。
鯛の豊かさとカレイの噛み心地とヒラメの甘みがひとつになっているような気がします。
高級魚の代表で滅多に食べられないのでありがたい気がしました。ソイはそのカサゴと兄弟のような味です。やや甘みがカサゴより少ないかもしれないです。
このソイも春の魚とする人もいます。残念ながら今回はお刺身の写真がありません。26日・金曜

奈津 銀座1-20-7 03-3564-2347      
        定休日 土・日・水(築地の定休日)           
        11:30~14:00 夜6:00より11:00  前回の記事

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蕎麦屋裏稼業②  天啓が舞い降りる

2007-01-27 22:39:13 | 小説・布屋太兵衛 蕎麦屋裏家業
寛永元年、江戸の麻布永坂が騒がしい。
開店3日目でもう町衆が評判の蕎麦屋「高遠布屋」の前に並ぶ。この布屋の坂上は高台で町人たちが江戸の町を見る憩いの場である。
大名屋敷が多く二十ほどの坂があって見晴らしがよい。今で言えばピクニックで晴れた日には富士も見えたのだ。その見物人の懐目当てのお菓子屋、饂飩屋も多い。

現在の麻布には仙台藩ゆかりの仙台坂下、鳥居藩の鳥居坂などの地名が残っていて、往時も一帯が高級住宅地だったことを窺わせる。
一定の名誉ができると高台に住みたくなるのは今も昔も変わらない。
閑静な一帯でこのあたりは商売の鑑札がうるさい。が、幸いな事に保科家も麻布台にあり、太兵は労せずその縁のある土地を借り受けた。太兵32歳、力がみなぎっている頃である。


(柏竹やぶの塀壁。保科家の威光で布屋も塀が許された)

店は小上がり主体でその小上がりの仕切りに廊下走りがあっては配膳をしやすくしてある。
4人座卓、6人座卓がそれぞれ3卓、真ん中は流木削り繋ぎ板の座卓で20人ほど座れるようにしてある。
厨房に近いところには奥の間を作ってあってこれは8人ほど入れるお座敷が2部屋ある。蕎麦屋にはこうした座敷は初めて布屋が設けて、これは酒席用の部屋にしてある。
お昼の忙しい時間はもちろんこの部屋も使うようにしてある。庶民的な蕎麦屋をやや贅沢な雰囲気にしたわけである。贅沢ではあったけれど値段は他処と同じようにした。


(蕎麦前に懐石の料理を取り入れた。写真は懐食みちば)

もちろんそれには日本橋の伝のある卸問屋から安く入れるようにした。厨房に入っているのは職人が3名で料理方、釜前、手伝い方の男衆。太兵が江戸の蕎麦屋では初めて作業分担をした。
店番も女中衆に外番、中番と新しい名をつけてそれぞれに責任を持たせた。
まだ独り者の太兵の女将代わりに奥向きと客室を繋ぐ役や活け花担当などしてくれて、店内の空気を和ませる役割の花番という担当を置いた。
今で言うフロアチーフで店内への料理順や料理の遅れ、苦情なども処理した。花番は高尾という女であった。26歳、遊女上がり、これは委細があって太兵が身受けしたのだがなかなかの才女であった。

当時の26歳は大年増であったが花番に恥じない匂うような色気があって、女好きの客は一瞬たじろぐような美形である。
太兵は無関心のようであったが彼の女房になるのではないかとの噂がある。
「こちとらまだかい!」外で待つ者からも声が掛かる。
評判の蕎麦は2種類である。まだ見たことの無い蕎麦が江戸っ子の噂になった。
太兵は長年の蕎麦粉の分別でわかったのだが粉の混ぜ具合で色も硬さも味も違う事を発見していた。
それまでは蕎麦の実を殻ごと挽いたものをそっくり使っていたから蕎麦も一種類しかできなかった。
ある日大きな石臼で大きくしてユックリ回すと最初の粉は蕎麦粒の芯が砕けて真っ白な粉が出るとわかった。
それは偶然だったのだが努力する太兵に天啓が舞い降りたのだろう。
その粉を繋げないかと試行錯誤したが、水ではなく湯で捏ねてみると透明な白い蕎麦になった。この蕎麦はこしもあって香りは余り無いが綺麗な蕎麦に仕上がった。
まだどこにもない蕎麦だった。この蕎麦を紬反物の等級を示す更級蕎麦とした。
この蕎麦が後に更科そばとなるが、このときにはまだその名前はない。この蕎麦に違う食材や色だし素材を混ぜ合わせ変わり蕎麦に改良するのは1年後になる。


(布屋は変わり蕎麦で名を上げていく。写真は本むら庵)

太兵の祖父は元は信州高遠の反物屋だったが、保科家が信州から会津藩に移封されたのと同時に慕って一緒に転配した。
太兵は会津生まれで故郷が信州というわけである。
保科正之は信州で蕎麦の美味しさに魅せられて信州蕎麦の種を持ち込み会津に蕎麦を移植した。
その時信州の紬職人始め信州の工藝職人も数多く連れてきた。正之は産業・工藝振興にはかなり熱心な殿様であった。
会津藩はやがて産業も発展し国力も強くなり、会津の財政は石高以上に豊かだといわれた。
表石高は23万石だが実際には50万石を超えており徳川御二家(尾張、紀州)に匹敵し、軍事力は当時幕政に大きな影響を及ぼした。
家光も死に際に会津藩の謀反だけは心配だったようで、正之の手をとって次期将軍の補佐を頼んだ。
正之の母は秀忠の愛人で、悋気深い正室の目に触れるのをひた隠しにされて保科家で育てられた。
父秀忠に会ったのはその正室亡き後で間を取り持ったのは家光であった。
以後家光とは信頼関係が深くなるのだが、何よりも外様大名などから正之は人望があった。産業振興や国興しのアドバイスも適確で、問題があった時の将軍へのとりなしは正之が受け持った。
外様にとっては藩取り潰しの危機感が常にあってその情報源は正之そのものであったからだ。
家光も自分が亡き後正之がその外様達と組んで、天下を取ろうとすればできると考えていたから、自分の子の後ろ盾にしたのだ。
正之は家光に心服していたようで後継将軍を副将軍としてよく補佐した。江戸の町の火災防止策など町民生活にも意を尽くしたが、武士道などのゆがみも是正した。
それまでの切腹習慣の禁止、特に後追いの殉死については固く禁止した。
戦国時代ならいざ知らず、安易な切腹の禁止などは下級武士は密かに快哉を叫んだであろう。
正之は幕政への忠誠を誓い、以後徳川守衛を藩是とした。このことが会津藩の足かせともなって江戸末期の官軍への徹底抗戦の悲劇となる。

必然的に保科に繋がるものはこの正之の思いに熱い。これは太兵も同じで、蕎麦屋であろうが正しい政道への思いは強いのだ。

この時代町方の職人たちには武家よりも自分らが江戸を作ってきたとの心意気が強く流れていた。
その代表が将軍吉宗が創出した火消し衆、目明し衆、そして保科家が後援した江戸蕎麦稼業衆である。
その代表格三人がふとした切っ掛けで「布屋」の座敷で兄弟分の盃を交わす事になる。  蕎麦屋裏稼業②

蕎麦屋裏稼業①

*この物語は史実を元に作者が創作したフィクションです。
   団 体・組織についても架空の場合があります。
   なお、資料は数が多く回毎に提示できませんので、
   最終回に掲載させて頂きます。 
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松翁 猿楽町  贅沢な春の馳走

2007-01-26 15:04:30 | 神田・浅草・神保町・猿楽町周辺・新宿区

6時前にお店に入るとすでに満席です。
このところ忙しいしおんさんを交えて今日は5人でオフ会。6時に予約を入れてあった席が空くまで待つことになる。
席を勘定すると30席はあります。御茶ノ水や水道橋から多少歩きます。奥まった場所にあって、ただ辺りにはぽつぽつと風情のあるお店があります。



一番近い駅は神保町ですから書店の町です。書店の町はどこもそうですが、隠れ家のようなよいお店があるものです。ひっそりした小料理屋があり、新潟のへぎ蕎麦の店があったり、昔ながらの居酒屋、モダンな造りの創作料理屋など色んな飲食店があります。

花まきさん、酔流亭が着く頃に若い団体10名がけんちん蕎麦を食べ終わってようやく僕らの席が確保できた。 20代前半の女性軍およそ8名全員がけんちん蕎麦でした。
なんとも美味しそうに食べていた。メニューを見ると単品でもけんちん汁がある。これは要チェックでした。
小マメさん、しおんさんが追っかけ参加する。しおんさんが居るから酒の勉強ができそうだ。酒の銘柄も20種ある。多分その銘柄のほとんどをしおんさんは知っているだろう。
僕はビールの後は開運で始まった。


(穴子の煮こごり。前菜としては最高のものを選びました)

最初の肴は穴子の煮こごりです。複雑なよい味です。出し味も微妙、しっかり穴子の味を確保しながら舌には酒やよい味醂の風味を感じさせます。
もうこの穴子の煮こごりで大きく期待が膨らみました。鰹のだしの風味や鰹の煮切り出した甘みを舌に感じた時点でご亭主の持つ蕎麦へのこだわり、料理に注ぐ情熱がわかりました。
少し不遜な言い方かもしれませんがそう感じました。



(ふろふき大根。湯掻きのものを注文で味付け丁寧な仕事)

大根も素材の選定、味噌の甘み辛みがよく柚子が効いていました。牡蠣は広田湾のものです。牡蠣の殻の深さもよいものを選んであります。広田湾の清涼な潮の海水を牡蠣が体で浄化して甘水に変えてあります。


(広田産の深みのある殻で甘水が底に溜まっています)

花まきさんがその水を最後まで愛おしそうに飲み干していました。そんな牡蠣はめったに無いのでもちろん僕も小マメさんもそうしました。
冬の海のご馳走から、春の山海のご馳走がテーブル運ばれました。菜の花、ぜんまい、ふきのとう、行者にんにくの天ぷらなどです。


(春の天ぷらはもう菜の花、ぜんまい、ふきのとうなどが出る)

間に白子の天ぷらを挟んで、最後が白魚の天ぷらです。これは嬉しい初春の馳走になりました。ここだけはまるでもう春が来ているようです。


(立派なホッキ貝です。褄にも気を配った丁寧なお造りです)

酒はかなり行きました。
初亀まではおぼえているのですが後は余り記憶はありません。酒はこれは酔流亭のブログに任せます。
最初にチェックしたけんちん汁を頼みました。
「ここは、けんちんが美味いのよ」花まきさんの声に助けられてかなりお腹が一杯でしたけど、職人さんに声を掛けました。


(白魚の天ぷら、ふきのとう、行者にんにくもある)

直ぐに職人さんが厨房から戻って今日は終わったとの返事。
「さてはあの女性軍がけんちん汁を食べつくしたか」
残念な声を漏らした。仕方なくこれは次のお楽しみにしました。


(伊予柑切りともりの二色そば。これはなかなかのものでした)

〆は皆さん2色もりのオーダー。並そば(もり)と伊予柑切りです。伊予柑の変わり蕎麦も珍しいです。愛媛のブランド柑橘類で12月後半から収穫が始まり爽やかな香りを放ちます。
蕎麦は期待以上の美味しさでした。こしが微妙、香りよく、歯にも少し弾いて喉越しも良かったです。
つゆは辛口と薄口があって、薄口は関西の白醤油仕上げです。僕は辛口で頂きましたが伊予柑の微妙な香りを聞くには薄口の方がよいかなと思いました。

つゆは鰹の出汁が効いていました。僕は鰹の出汁はもっと抑え気味なほうが好きなのですが、鰹の効いたつゆが好きな人は堪らないでしょう。
8時でもう閉店です。蕎麦売れきれ仕舞いになった。客がよく入る店です。
なんだか僕らも息つく暇も無く食べて飲んでいたような気がした。

帰り皆さん大満足です。松翁は来たかった蕎麦屋のひとつでなかなか機会がありませんでした。
この店の前の店舗時代に池波正太郎が通ったというのもわかりました。
山の上ホテルで執筆に飽きると季節の旬ものを食べて、二色蕎麦を手繰っていたのでしょう。
少しそんな景色が浮かびました。
手打蕎麦切 松翁 東京都千代田区猿楽町2-1-7    
    03-3291-3529 定休日/日・祝

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布屋太兵衛  蕎麦屋裏家業①  高遠の看板

2007-01-23 15:19:53 | 小説・布屋太兵衛 蕎麦屋裏家業

布屋太兵は江戸の町を歩きながら、店舗の候補を物色していた。
後年呼び名が太兵衛になるがこの頃はまだ太兵と名乗っていた。蕎麦屋を開業する場所を選んでいた。布屋の3店舗目の店である。

今度の店は、少し江戸の町も外れのほうである。それは少し込み入った事情があった。 最初の店を開業して丁度3年、嵐のような日々が過ぎ去ったと感じていた。
本店を保科家から援助を受けて永坂に開店したのは寛政元年だった。
この年号が改まる2年前将軍が家斉となり、執政は松平定信、市中平穏ならず時で長谷川平蔵が火付盗賊改方に就任していた。

江戸は丁度饂飩屋から蕎麦屋が独立している端境期であり、蕎麦屋が増えていた。路面店はすでに饂飩・蕎麦屋で五百店はあり、夜鷹蕎麦や風鈴蕎麦などの天秤で担ぐ棒振り饂飩・蕎麦屋も多くなっていた。
本当ならもっと早く開店できたのだが、やるのなら必ず成功したいと考えていたから、保科家の矢の様な催促にも充分な準備をしたのだ。
この一年は新しい蕎麦屋ができるたびに下働きの者と見に行って店の雰囲気、蕎麦の出来具合を調べた。特に天ぷらや酒のあてなどは入念に味見した。今でいうマーケティング調査である。これは勝てると踏んだときにそこからは早かった。

蕎麦は信州で習った。その蕎麦打ち技術を改良して独自に工夫をした。石臼の目立ても研究した。
蕎麦が石臼にすられた時に粉の通り道を作るのだが、その溝を目立てと言う。その目立ての溝の掘り方や数や並べ方によって粉の粒子が変わってくる事を見つけた。
きめの細かいしっとりした粉になった。手で粉を握ると粉がキュッとなるようだった。


(麻布永坂更科の看板)

できた!と叫びたくなった。これで応援してくださるお殿様の名前を落とすことも無いだろうと思った。
開店して三日で客が数珠ならびになった。
江戸っ子の口伝は早い。昨日は瓦版にも布屋の名前が載った。
蕎麦が美味いとの評判が立ったが、その後ろ盾に保科家がいることに江戸っ子の熱が上がった。

保科の祖は正之、二代将軍家忠の愛人の子で幼少の頃信州高遠保科家に養子に入った。
この愛人と側室の差が正之の生涯に大きな影響を与えたのだが、そのことは後の徳川政権にも大きな損失だったかもしれない。
正之は成人後に会津に移封になる。名将の誉れは高かったが、家系としては将軍職の後継系列から外れていた。
ただし、異母兄の家光とは馬があったらしく家光はたびたび、幕政に進言を求めたという。

家光は遺訓に家光の嫡子家綱の後見役として、正之を選んだ。この時に将軍家綱をよく補佐し、その見識を政道に生かしたと言う。
天下の副将軍役として後世に名が響いていた。
徳川将軍の横にいてこれを助けた実質副将軍役は資料的にも保科正之以外にいない。
綱吉の時代、その悪政の数々に江戸庶民は正之亡き後、譜代大藩の親藩にそれを期待したがほとんど機能しなかったという。
天下の副将軍の後世の評価はそのことがあべこべになって伝えられている。

水戸の徳川御三家入りも明治に入ってから作り上げた系列編纂で、水戸藩の創作であるとの噂が取りざたされている。
歴史編纂は施政者に都合よく作るのは通例で秀吉もそうだし徳川幕府もそうだった。それは明治政府成立に貢献した勤皇派水戸藩への配慮であったとも言われている。

保科正之は愛人の子で数奇な運命を辿り、徳川血縁の松平家を返上し、その気骨ぶりが江戸っ子には粋に感じたのだ。家綱に進言し、上野広小路を設置し、芝と浅草に新堀を開削、神田川の拡張などに取り組み、江戸の防災に貢献した。
江戸の幹線道路整備なども正之の仕事で江戸っ子に馴染みのある殿様なのである。

会津藩保科家系に対しては幕府要職待望論がずっと江戸っ子の胸の中に流れていて、現将軍家斉に不安があったからなおさらであった。後、保科家は正之亡き後松平家になるが江戸っ子には保科の名で通る。
吉宗以降、ろくな将軍様がいない、そんな鬱積が江戸市中に渦巻いていた。
時は松平定信が推し進める寛政の改革の真っ只中で、これが散々の評判の悪さでこの狭っ苦しい世の中に飽きが来ていた。


(麻布・たじまのおろし蕎麦。会津の高遠蕎麦はおろしのぶっかけ)

保科正之は熱心な蕎麦食信者で会津移封に際しても蕎麦を信州高遠から会津に移植した。今も会津に大根汁で食べる高遠蕎麦と言うのがある。それは保科家の遺産である。
江戸では高遠の殿様といえば保科家の通り名ではあった。
その高遠蕎麦の看板を上げた噂の男の顔も見たかったのだろう。
新開店の屋号は信州蕎麦「高遠布屋」であった。更科の看板が上がるのはもっと後のことになる。 蕎麦屋裏家業①

 *この物語は史実を元に作者が創作したフィクションです。団体・組織に
   ついても架空の場合があります。なお、資料は数が多く回毎に提示で
  きませんので、最終回に掲載させて頂きます。 

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ビールが欲しいランチ

2007-01-21 10:00:18 | 今週のひと品

竹やぶのメニューを見るのは楽しい。悪戯書きをする子供のような心が躍っている。
そのメニュー書きが厚くなって内容も大きく変わっていた。メニューが大きく変わる時はお店に何か動きがある時ですが、それは客には窺い知れないものです。
酒の肴が沢山用意されていました。これまでの懐石コースの料理が単品でも食べる事ができ、お昼からでもいただけるようになっていました。


(大きな身の厚い鰊。かけそばに好きなだけ身をほぐして入れる)

食べたかった鰊蕎麦を二人とも注文した。鰊は本店柏のと同じものです。昨年はそこで酒の肴で頂きました。ビールがあれば半分ほど身をほぐして頂いて、後の半分は蕎麦に入れるのが本道でしょうが、今日はそれができません。
この日はまず少し身を頂いて、半分蕎麦に入れました。竹やぶの鰊は厚みがあってたっぷりしたやわらかい煮立てが持ち味です。本当ならかけをもう一杯頂いて、残りの半分を追加のかけ蕎麦に入れたいところです。


(蕎麦寿司は太巻き。2人で分けて食べるのには丁度いい量)

この日は、これまでメニューに無かった蕎麦寿司を見つけました。これ幸いと鰊をおかずに二人で食べる事にしました。寿司は青菜漬けを巻き込んでありました。次はお昼過ぎに肴目当てに来てみようと思います。

竹やぶ港区六本木6-12-2 六本木ヒルズレジデンスB 3F 03-5786-7500



(牛肉のスープに春雨が入っています。ランチ用のソーロンメン)

もう一品は草思庵のランチメニューでソーロンメンです。これで確かランチは4品目ですがこれも当たりました。お得意の牛肉スープは品があってやや辛味をつけてあります。これに韓国春雨が入っています。
春雨はデンプンで作るのですが、日本はジャガイモ、中国は青豆、韓国はサツマイモがそれぞれ原料です。


韓国春雨は日本のものよりややこしが強い気がしました。これは、もう少し量が欲しい気がした。ご飯もついてきていつもの前菜で頂く。この前菜もビールの当てになるのですが。

李朝懐石・草思庵 港区西麻布3-24-5 03-3478-2206・無休

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木香 東小松川  蕎麦嫌いの、蕎麦の夢

2007-01-20 11:07:20 | 江戸川・江東・葛飾・新宿・大田区・足立区
蕎麦屋酒の楽しさに酔う夜になった。
木香の夜はご亭主1人で営業されているから、他のお客がいるときはお話ができない。
この日は結構長くお話ができた。開店されてから7年目、僕は近所なのでポツリ、ポツリとお伺いしている。
僕はご亭主の優しい人柄が好きなのと、娘がこの辺りのお蕎麦屋さんで一番好きだというのでこのところ訪問回数が多くなっている。


(縁起物の猪口、通しはなめこの蕎麦の実和え)

蕎麦のオイル焼きと魚の焼き物を頼む。客は僕が1人、お相手をして下さる。長い間来ているがもちろん僕が多少の蕎麦好き程度の客であるくらいしかご亭主は思っていないし、その程度のお話しかこれまでしていない。
脱サラの蕎麦屋だが、それも蕎麦嫌いだったそうです。40代の頃、友人と地方に出かけて蕎麦を食べてこれまでの蕎麦の認識を改めたそうです。
それから手打ち蕎麦にのめりこんだ。それまで蕎麦らしい蕎麦は食べていなかったが、ついに蕎麦の学校まで通った。
嫌いなものがいきなり好きになると、それまでの反動で狂ったようになるのはよくあることなのかも知れない。
それは友人の話でも聞くし、僕もそうだった。42歳まで僕はゴルフを軽蔑していたところがあって、それがある切っ掛けでゴルフを始めて狂ったようになってしまいました。それが今日までに至っているのですが。


(蕎麦のオイル焼き。年代もの6人掛けの一枚板のテーブルに座る)

ご亭主はついに脱サラで蕎麦屋を開業したいと思うようになるのですが、天ぷらだけは思うようにならず、天ぷらの見習いを3ヶ月ほどする。
ここの天ぷらは素材によって衣を調整したいい天ぷらを出してくれます。その修業の成果をご自分なりに工夫しながらやってこられたのでしょう。
蕎麦屋のいいところは、との質問に、
「お客さんが素晴らしいのです」と嬉しそうに答える。
丸6年で得たものは自分の店に遠くから来てくれるお客さんがすべてよい方ばっかりでそれが蕎麦屋の無上の喜びだと話す。
それは蕎麦屋を始めてみて経験したことで、蕎麦好きの客は普通の飲食に来る客とは異質なものがあるのではないか。
求めるものが高いものがあって、それがこちらにも伝わってくる。そんなようなことをゆっくりと僕に言われた。
「また、新しいことができそうなのです」
ここしばらく蕎麦の新しい試みを考えていたようでそれが今年できるようだ。
「それはいつ頃でしょう?」
「さぁ、いつでしょうか」
具体的にはそれがどんなものであるのか質問もしたかったが、それはできた時の楽しみにしておこうと思った。
それをもし僕が聞いてもご亭主は笑って胸にしまっておくだろうと思った。


(太打ち十割の強いこしの温蕎麦。つゆがよく絡む)

蕎麦屋が蕎麦の夢を語るときは輝いている。目も体からも夢のオーラーが出ている気がする。
山葵いもを海苔に包んで僕が食べている。湯津上屋でおぼえた食べ方をお願いしたら嫌な顔ひとつせずに用意してくれた。
何年も通ってきていて初めて僕も自分の経歴など少し話した。余り隠しておくのもルール違反かなと思った。
やはり、驚かれたが直ぐにまた蕎麦の話になった。2人の蕎麦好きがそこにいる。そんな夜になった。


(葱大盛の煮込みとヒレ酒。江戸常はいまだ90円の焼き鳥を出す。)

それからしばらくしてお客が入ってきたので僕は外に出た。
もう一杯呑みたい気分だった。帰り道に江戸常がある。そこのヒレ酒を飲もうと思った。19日・金曜。

生粉打ち蕎麦 木香 江戸川区東小松川2-25-7 ℡03-3652-1086
          11:30~14:00/17:30~21:00 11:30~15:00/17:30~21:00/土・日
                       定休日 月
          江戸常は木香から徒歩3分
木香の前回の記事。
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黒牛屋 六本木 焼き肉屋の茶漬け

2007-01-19 10:27:33 | 焼肉・焼き鳥

千枚は苦手なんだな、とやはり前回の僕と同じ言葉がでた。
接待でお2人お招きしたのだが、そのうちの年配の方の箸が止まる。僕のほうは食べるだけ食べて残してくださいと、口に放り込む。


(左からランプ肉のたたき、レバ刺し、千枚)

ここの千枚は切りを細かくして味付けをしてある。千枚独特の生っぽさや、ゴムのような食感がない。
「これなら、食べれるな」ということになった。
肉はロース肉、カルビ肉、ハラミなどの上肉がミニステーキのように盛られて来る。タレは3種類、オリジナル甘辛、ポン酢、にんにく玉ねぎがある。これに自分で本山葵を摩り下ろしたり、岩塩などで楽しむ。一番上手いのが本山葵を摩り下ろして、レアに焼いた肉に乗せて食べるやり方。これはハラミ関係がうまい。カルビやロース肉は岩塩が美味しい。


(ミニステーキのように盛られてくる。脂身が少ない肉です)

この辺りは丁度しゃぶしゃぶ瀬里奈の裏手下にあって、店の下向かいに墓地がある。
一昔前まではこの辺りに店など開店する人はいなかった。瀬里奈からここに来る時には急勾配の階段があって、その階段の横にこの辺りでは唯一その頃にアパートがあった。もう30年ほど前だがそこに1年ほど住んでいたことがある。
便利だからと言われたのだが、困ったのは食事だった。信じられないでしょうが、その頃の六本木は食事などするようなところは無かった。
もちろん、ディナー向きのレストランはあったが、まだ安給料だったから定食屋が欲しいのです。
この日もこの辺りに住んでいた話をしたら羨ましいと言われたが、それは今の六本木だからそう思えるのです。

その頃の瀬里奈は食事は一人1万円強くらい、当時初任給5万円の時代でした。月に一度デートで行くのが楽しみでした。
何回もいけないからその時に支配人にお願いしてワインを3本安く分けて貰うのです。階段横のアパートに住んでいて顔馴染みだったからです。
が、今そのアパートは貸しテナントオフィスになっている。その頃から肉の値段はそんなに変わっていないのですね。


(ホルモンは噛み切れがよく、甘みがあります)

この焼き肉の黒牛屋も感動的なくらい安いと思います。この日は前回に出なかったホルモンが並んだ。千枚や、蜂の巣、ミノなど見るからに美味しそうでした。特にミノは普通の焼き肉屋さんのミノの噛み回数の半分で済みました。それだけ甘みがあって美味しいという事です。ミノはゴムのように口の中にいつまでもあるから閉口してしまうのですが、このミノは歯でストーンと切れてしまうから嬉しい。


(スッキリしただし汁。肉味噌がアクセントになってよい味わい)

〆は茶漬けでした。テールでとった薄味のだし汁。少し肉味噌が入っていた。やわらかな味で
これはありがたいです。冷麺もよいけれどこの趣向は客を見ていてくれる店主ならではでしょう。
帰りは六本木交差点の角にあるビアバーでベルギーの白ビールのよい香りを味わった。
これで胃の中にある脂が洗い落ちる気がするが、気分の問題だろうか。

黒牛屋
 港区六本木3-8-9 03-3478-2020            
      PM6:00~AM5:00
黒牛屋の前回の記事

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温蕎麦の系譜⑥ 江戸っ子のDNAが生きている

2007-01-18 11:31:50 | 温蕎麦の系譜

信州は蕎麦の産地ですから江戸初期から切り蕎麦の技術があったはずでしょうが、当時は今の時代と違って転職や商売替えは自由が利かなかったわけです。
どんなに農村の人が蕎麦打ち技術に優れていたとしてもなかなか蕎麦屋に転向するというわけにはいかなかったのでしょう。

そこで、信州ゆかりの、保科家の庇護の下に地産振興策として反物屋からの蕎麦屋転職を認める事になります。
信州布屋太兵衛が創業した記録は寛政元年の頃だといわれていますが、これは江戸も末期に近いから大坂蕎麦に比べて遅い開業です。
この頃までには砂糖の生産がすでに始まり、今の味醂に近い蜜醂酒が出回っていて、もり蕎麦のつゆが出来上がる前提が揃っていました。
おりしも料理屋、惣菜屋、お菓子屋も町々に溢れ食文化が華やかな時代を迎えていました。


(鴨つくね蕎麦・船堀「木香」鴨料理を蕎麦が取り入れていく)

布屋は保科家からの「科」を貰って布の階級を示す「更」をつけて更科を名のりました。今で言えばブランドの印としたから相当な大きな席数の、またメニューも沢山盛り込んだ蕎麦屋を開店したのでしょう。
信州で鍛えた技術で生まれる香り豊かな蕎麦と保科家の台所番から教授を受けた蕎麦料理に客が列をなしたのではないでしょうか。

彼は他の蕎麦屋を丹念に調査をして差別化を図っていきました。今から考えても彼は優れた蕎麦プロデューサーであり冒険者であったわけでしょう。
江戸の人達が何が欲しいのかをしっかり見ていたと思います。
その典型例が更科そばです。当時は蕎麦の挽きぐるみで今で言えば田舎蕎麦に近い蕎麦でした。それを真っ白な更科そばを初めて出したのですから、珍しがり屋の江戸っ子が手を叩いて喜んだはずです。


(3色蕎麦・芝大門「布屋」江戸っ子を目で楽しませる蕎麦)

この更科の名前の蕎麦屋があっという間に江戸市中に氾濫しました。布屋の「更科」がブランドになるにつけ全く関係の無いところまで更科と名乗って開店創業したと思われます。
当時は商標権などは無くなんとなく世間の目がチェック機能ですから商標使用は野放しです。元親の布屋は鷹揚だったのか、それとも自分から積極的に蕎麦普及に力を尽くし更科の名を広めていったのでしょうか。

そうに違いありません。教えを乞うものには手ずから秘訣を授けたに違いありません。優秀な弟子も何人も輩出したのではないでしょうか。
そうでなければ今の時代に布屋の名は残っていなかったではないか。
ちなみに今も布屋の名を号するのは、麻布十番の永坂更科と更科堀井、芝大門の布屋ですが、永坂と堀井には商標権譲渡などの権利関係があったそうです。

更科そばはやがて他の食材を練りこむ変わり蕎麦として進化していきます。この更科を名のる老舗では12ヶ月の変わり蕎麦、季節蕎麦が今でも名物になっています。この更科系が江戸で営業した頃の、ある蕎麦屋のメニューが残っています。
そば・・代十六文、鴨南蛮・・代三十六文、その他にあられ、花巻、卵とじ、あんかけ、しっぽく、おかめ、天ぷらなど、どうでしょう、今の蕎麦屋のメニューに近いではありませんか。


(掻き揚げ蒸篭・更科堀井。天ぷらは蕎麦との相性がよい)

おかめそばは、当時のおかめは美人顔の意味でその顔形を蕎麦の上になぞったものです。蕎麦はいよいよ江戸っ子の主食のような全盛を迎えるようになります。大坂饂飩屋が江戸蕎麦屋に変わる。これは饂飩からの温蕎麦のメニューを巧みに蕎麦にアレンジしたものでしょう。

寺院蕎麦や懐石蕎麦が根を下ろしました。これは料理と蕎麦が上手く融合したのでしょう。更に信州の蕎麦上手が蕎麦ブームを加速させました。
更科そばの開発や新しい蕎麦料理を持ち込んだのです。


(白和え蕎麦・大島「銀杏」懐石でも蕎麦の新趣向があったはずです)

この頃には藪の名はまだ出てきません。藪は明治に入ってからの創業になります。
家光の後の家綱の代の頃に蕎麦きり商いが出始め、倹約令を発した吉宗の代に江戸では饂飩屋と蕎麦屋が逆転し始めました。
幕末近くには江戸の町に約3800店の蕎麦屋があったそうです。今全国でも饂飩・蕎麦業が約4万店ですから、考えられないくらいの店舗の多さです。そのくらい江戸の食文化には蕎麦の占める役割が大きかったのです。
そのときの蕎麦の生産量から分析しますと江戸では年間1人80食蕎麦を食べていたと計算できる資料も残っているそうです。

その江戸っ子のDNAがまだ色濃く東京に残っています。
蕎麦の夢はこれからまた始まります。 温蕎麦の系譜・終わり

 

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温蕎麦の系譜⑤  蕎麦大食いチャンピオン大会

2007-01-15 09:33:41 | 温蕎麦の系譜
江戸時代に作られた蕎麦屋のお品書きが今も残っています。
初期の頃は「つゆ汁」「ひやかけ」「ぶっかけ」の三種類だったようです。
ひやかけは気の短い江戸っ子がつゆを薄めてさっと食べられたから、評判になったようです。
江戸っ子の気の短さは江戸の蕎麦落語にもよく出てきます。ぶっかけは、今のかけのことでそこに色んな種物が入って温かい蕎麦椀ものになっていきました。


(かけそば・六本木竹やぶ。蕎麦の出始めはかけそばが主流であった)

もちろんこれは庶民派の蕎麦屋で、蕎麦は色んな経路から分派別に発展してきたようです。
ひとつは大阪から下ってきた饂飩屋の系列です。江戸の初期は醤油が関東では生産するノウハウがなくてもっぱら上方から来るものを使っていました。
上方では醤油の起源は古く湯浅で天正時代に作られたと書いてありますから、およそ織田信長の時代です。その醤油も元は味噌から生まれてきたものです。味噌は径山寺(きんざんじ)味噌の製法から、味噌づくりが開始されたとされ、紀州の湯浅でこの味噌からしみだす汁がとてもおいしいことに気づき、色々な工夫をするうちに今でいう「たまりしょうゆ」になったといわれています。


氷見饂飩。饂飩も初期には生醤油をだしで伸ばして食したのだろう)

当時は饂飩にその生醤油をかけるか、熱々醤油汁でいただくものが主流で、饂飩に種物を入れて今のような形になったのは家光の代くらいであろうといわれています。
その頃、大阪から砂場饂飩が江戸に進出してきています。大阪から砂場の店が開店しても江戸では饂飩にまだまだ人気が集まっていたわけです。

切り蕎麦は細々と饂飩のついでに売られていました。饂飩は小麦の甘みはあるもののどちらかといえば種物などを入れて味わう方が美味しかったから椀物が発達して来ました。この砂場も各地に支店ができたのは現在の蕎麦砂場の数の多さを見れば想像が働きます。
当時はあっという間に砂場饂飩が江戸に広がったのでしょう。ちなみに今の虎ノ門砂場も屋号は「大坂屋」で、今も都心にある砂場はその系列の分派だと思います。


(赤坂砂場のおかめそば。江戸時代におかめ美人の顔をなぞった人気メニュー)

時代が進んで、いつの日か蕎麦が商売になり始めたときに饂飩と蕎麦が逆転し、砂場蕎麦として名を上げてげていく事になりますが、これは幕末の前くらいになるなるでしょう。
一方蕎麦はお寺などの精進料理や茶道などの懐石料理からも存在を示し始めました。
お寺は現代とは違って当時は農家との結びつきが強く食料などの寄進も相当なものがあったようです。
現世と浄土を繋ぐ唯一の場所がお寺で、その信仰心は我々には考えが及ばないほど強いものでした。自分等の食料を削っても寺に寄進するのは当たり前のことでした。

江戸時代までは寺院は学問と文化の集積する場所で食文化もやはりここで発達していきました。
蕎麦もお寺で独自に料理としての工夫を重ねられていったのでしょう。特に切り蕎麦は精進料理や懐石と結びついて貴重なもてなし料理の一つになっていきました。
蕎麦が大晦日や年越しの縁起物、お目出度いものになっていくのはこうした寺院の食の所以があったものと思われます。
12月寺院の煤払い行事には必ず蕎麦が振舞われたといいます。蕎麦が町家とは違った意味で庶民の間に浸透する役割を担ったわけです。
蕎麦屋に○○庵の屋号が多いのもこの寺や茶道懐石に起因しているのです。この流れで行くと、砂場が大阪饂飩の流れ、庵が寺系列だとしますと、更科は信州の反物屋の転職の流れです。


(神田まつやのちから蕎麦。江戸の初期の頃はちから饂飩で人気)

この更科の系列が江戸の蕎麦好きに火をつけたのです。蕎麦が江戸っ子のお気に入りになったのは、その気軽な食事形態が受けたのでしょうが、上方の饂飩への対抗心もあったようです。
この頃の蕎麦の人気ぶりは江戸落語からもわかります。「時そば」「そば清」「蕎麦の殿様」他色々ありますが、中でも「そば清」は蕎麦の大食いチャンピオン大会の話です。
こんな話が本当にあったとすれば食文化が現代の我々に近い成熟時代を迎えていたのでしょう。
その象徴が江戸では蕎麦であったと思えます。温蕎麦の系譜⑤

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湯津上屋 銀座  懲りない男

2007-01-14 12:03:12 | 銀座・新橋・芝・築地・港区・中央区・墨田

女将さん、ご亭主が新年の挨拶で迎えてくれた。我々が夕方の口開けかもしれない。
大晦日の話をしながら席に着く。やはり大晦日は賑わったようだ。この日はオーダーは僕です。いずれにしても同じようなものになるが、ここの肴はみんなよい仕事がしてあって好きです。



ビールを呑んでいるとあっと言う間に満席になった。
前回からの引き続きで箱海苔と山葵芋の組み合わせ。山葵芋を海苔で包んで頂く。
蕎麦豆腐、醤油漬け、蕎麦寿司、出し巻きと頼んで、この日は鴨焼きにした。鴨と葱が程よく焼き上げてある。
鴨肉焼きと葱焼きとは別に、変わった物が添えてある。
肉から離した脂身を切り刻んで、カリカリに焼くと米粒よりやや大きいくらいの脂身片ができる。
それが7,8粒添えられている。この脂身のカリカリがお酒の楽しみになります。

鴨肉の脂は不飽和脂肪酸でこれは善玉脂肪だから安心して食べる。蕎麦屋には体によいものがたくさんあると勝手に思っています。
江戸時代に蕎麦が爆発的に普及した陰には米食に頼り過ぎる事から起きたかっけ予防策だとも言われている。
蕎麦職人にかっけが少ないと言う話が伝わって、蕎麦食が普及したそうです。かっけなどと言うのは我々が小さい頃に聞いた病気で今では希にしかないと言う。
主にビタミンB1が不足して起きる。そのビタミンB1の吸収を助ける栄養素が葱に含まれているのだから、蕎麦に葱を添えるのを考えた人は偉いですね。

このような食べ物同士の相性は結構あるのではないかと思いますが、きっと鴨と葱も美味しさとは別に栄養学的にもあるのではないか、これも勝手に考えている。
そのような話をしながら蕎麦屋酒が、いかに正当性があるかを自分らで納得しながら呑むことになるから酒が進む。
蕎麦はこの日は蒸篭でした。ふくよかな落ち着きのある蕎麦でした。
お正月によい蕎麦屋酒でほろ酔いです。そのまま帰ればよいのですが。



帰りはやはり屋台バーで赤ワインです。この日はいけません。
なんと調子に乗りすぎて2人ともグラスに4杯も飲みました。お正月のよい気分とよい蕎麦を食べたせいです。
「もう、君とは飲まない」

飲み過ぎた彼は横浜までタクシーで帰るしかなくなったのです。彼もどちらかと言うと歯止めの利かないタイプです。
時計はまだ10時前です。僕のほうはこれからバーに行ってビールで酔い覚ましをしたかった。
きっと翌日は二日酔いの朝になっているだろう。
来週もまだ挨拶しなければいけない蕎麦屋があるから忙しいかもしれない。
そんな口実が頭に閃いていた。僕も懲りない男だ。12日・金曜

湯津上屋 
電話 03-3567-0838


湯津上屋の前回の記事。

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築地・かとう ランチで、魚の目利きの勉強。

2007-01-13 17:34:16 | ランチ

挨拶回りで築地の方に行く。少し待ち合わせより早く行って、築地場内と場外を一巡りした。
11時30分過ぎだから魚の仲買も店は仕舞いだから主に食べ物屋を見て歩いたが、意外と人が少ない。
場内の人気寿司店は人だかりは相変わらずだがその他の寿司店が入っていない。

「高橋」はアンコウが今日はないから人並びがない。現金なものだ。「天房」の天丼にしようかと思ったがやはり「かとう」にした。
すしの3点盛りと何にしようかと考えた。(3点盛りはメニューにありませんが、刺身を指名して3点で1人前でと、オーダーしてください)鱈豆腐、牡蠣豆腐、西京と迷ったが、お隣の人のカキフライを見てそれにした。
鱈は1月下旬が能登の本鱈が出始めだから、次回は鱈豆腐にする。12時近くになって客が一挙に押し寄せた。しばらくすると待ちの客が並んできた。


(左がヒラメ、手前に縁側がある。右上が尾長、下がいさき)

太切りの刺身3点は尾長鯛、ヒラメ、いさき。尾長鯛はなかなかお目にかかれない高級魚でフランス料理などではポワレやムニエルなどにされます。温暖なところで水揚げがあり、八丈島辺りの尾長が有名で正式には浜鯛といいます。
その尾長鯛が厚切りできました。尾長鯛は本鯛とは食感も味も全く別物です。ひらめとカレイとすずきを足して3で割ったような味わいです。
ヒラメは多分5年もの以上です。嬉しい事に縁側が二切れ付いて来ていて、その縁側の大きさと厚みからそのくらいのヒラメではないかと思いました。
我々が普通食することができるのは、3年もの位のしかも養殖です。3年もので養殖だと卸で3千円、天然で7千円はしますから年数が上がるとこれは卸でもかなり高価になります。
ヒラメはカレイなどと違って短命ですから5年もの以上はかなりな貴重品です。かとうさんに来ていると日によって魚の仕入れが違うし、旬ものが並ぶ。よい魚が刺しみになっているから食べながら目利きの勉強になる。



牡蠣フライは広田湾の大粒のものを揚げてあります。今日は挨拶周りが控えていますからビールが飲めません。背中のビールの注文の声を聞いても必死に我慢しました。
かとう 築地市場内

次ぎはオフィスの近くのお蕎麦屋さん、「たじま」のランチです。夜に訪問したいと思っているが機会がなかなか無い。いたわさの切り方が上手だ。


丁寧な仕事をしています。掻揚げがこれも揚げがしっかりしていて油切れがよい。十番の更科堀井の掻揚げは絶妙だが負けず劣らずでは無いでしょうか。ますます夜の訪問が楽しみになりました。蕎麦は写真を撮り忘れてしまいました。前回の感想を参照ください。



ご主人は30代半ばでしょうか。蕎麦屋修業を3店、それも有名、人気店です。和食お惣菜店も経験されていますから野菜の小鉢なども置いてあるのでしょう。

たじま
 港区西麻布3-8-6 03-3445-6617       
             11:30~14:30 17:30~21:30(祝20:30) 定休・日



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奈津 銀座  ひま汁の美味しさ

2007-01-12 14:53:27 | 和食

新年の挨拶に来たのだが、久しぶりでした。
この日は接待でも、オフ会でもないのでこれも久しぶりにカウンターの包丁捌きが見えるところに座った。
ご主人は包丁を走らせながらも会話が結構できる人で、横に座ると楽しいのだ。
お互い近況の事やら共通の知人の話になる。時々女将さんも加わって伊豆の山奥に別荘を買った話になった。もう引退した時の事も考えておられるのだ。
そんなことを聞くとびっくりしてしまう。


(あんきもは蒸かしがよいのだろう、舌がとろける)

「来れる時に来ないと、ある日突然お店消えてるかもしれないわよ」
女将さんが僕を脅かす。こんなにたっぷりよい魚を安く出すお店がなくなると、それは困る。
「70歳くらいまでは平気でしょう」と僕があんきもを頂きながら言う。
「こんな綺麗で美味しいあんきもがなくなるのは日本の損失だから」
「おだててもダメだから」64歳のご主人がそれを聞いてにたりと笑う。


(広田湾の牡蠣。身が大きく、潮の甘みがある)

広田湾の牡蠣が出てきた。久しぶりの生牡蠣です。ここの生牡蠣なら安心して食べれるしここで食べたとしても家族も文句は言わない。
牡蠣が海水を飲んで自分の体で巡回させて甘水にしてくれている。穏やかな潮の香りがする。カウンターだから1人前の盛り付けにしてもらう。いつもながら種類が多い。



・・皿の上左から下はしま鯵その上フッコ、横は鯛、その横に本鮪とろ、
  下左からヒラメ、かんぱち、カレイ、カワハギ、穴子・・

年齢は水商売の大きな壁になる。元々大相撲で幕下まで行った人だから体力がある。
開店当初の評判になった頃はお昼200人の定食が出たという。それを夫婦2人でこなした。
夜はほとんど予約で2回転の盛況が続いた。今はそんなことをしたら体がパンクする。
開店以来取材も断ってきた。かなり熱心な雑誌社、そこはグルメ本で高名なところだが、何回も通ってきたが丁寧にお断りしたと言う。

「夢ハさんも、わかるでしょう?」
僕も体力で蕎麦屋を諦めた口だ。それには余り反論ができない。
大相撲を廃業して、女将さんと小さな娘さんを残して大阪に単身で料理屋に修業に入った。さらりと世間話のようにかってその事を聞いたが、それは大変な苦労だったのだろう。
ここに店を開いて今年で24年。推察すると40歳の店舗だ。相撲をやめてから10年以上は修業期間だ。
僕も飲み屋の倅だからそんな話はよく聞いたが成功する人は皆無に近い。それほど水商売は難しい。
成功しかけてもギャンブルと酒と女の誘惑でほとんどが身を持ち崩す。

料理屋、寿司屋はそれほど現金が懐に入ってくるという事です。銀座で20年も同じ商売を継続した事に敬服するし、夫婦の気持ちが一緒でないとそれは無理な事でもある。
市場でよい魚を仕入れるまでに相当な年季が必要だという。
脱サラで蕎麦屋を開店した僕には想像できない荒々しい商いかもしれない。


(白味噌のあら汁。上はかんぱち、右下にカワハギのアラが隠れている)

「これは、ヒマ汁」魚のアラ汁を作ってくれる。亭主が手すきか暇なときにしか作れない。
丁度客達に料理をおおかた作り終えて手が空いたのだ。かんぱちとカワハギのアラとが白味噌をベースにした合わせ味噌で仕上げてある。
アラの骨に付いている身をほじくると甘みがあってほくほくして美味しい。旬魚のふっこ、ほうぼう、5年もののヒラメ、生で食べる穴子をこんなにも手軽な値段で食べさせるところも無いだろう。
いまや中国が魚の主要消費国で日本と奪い合いだそうだ。だから魚の値は高くなる一方で、よいものが中国に流れていくのだという。
さて、あと何年奈津の魚を食べられるのか、これはせっせと通わなくてはいけない。

奈津 銀座1-20-7 03-3564-2347 
     定休日 土・日・水(築地の定休日)      
     11:30~14:00 夜6:00より11:00      
前回の記事

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淺川 前橋  満天の星

2007-01-11 19:36:12 | 近郊・神奈川・千葉・埼玉・茨城・長野他

9日は前橋のお祭りでした。年に一回ほとんどの市民がこぞって露天の通りを歩きながら冬の大祭だるま(fukuさんのブログ参照)市に参加するのだといいます。
例年6日、7日が高崎の小林山で開催され、9日の前橋は本町通りで日本一の露店が並ぶそうです。群馬テレビも中継に入るそうですから大変なものなのでしょう、いい日にきました。

今日は淺川に取材が入り、僕も立ち会うのでお酒を飲めないのです。考えてみると2年前に来たとき以外は酒ばかり飲んでいて蕎麦だけと言う日は久しぶりです。


ちょっと変わったものを出してくれました。地鶏の皮脂からスープをとったものです。あっさりしていてお酒の合間などにはいいのかもしれませんが、今日は残念な事です。


(満天と名のついた蒸篭。香りが高く透明感があります。つゆも満天を引き立てる清涼感)

お蕎麦は蒸篭で満天と地鶏南ばんそばにしました。満天は空に星が飛ぶ文字通り満天です。これは浅川さんが考えた素晴らしいネーミングだと思い、新店にはその名で行こうと僕がけしかけたのです。これは蕎麦にその相がはっきり出ているから蕎麦と名前がピッタリしたものになっていると思います。


この日は満天の接写をしたのですが、この星はそば殻や甘皮を微細にすりおろしたものですから、甘くて香りが豊かで鼻を通り抜けます。
星も一定の大きさではなくて、色もまちまちで蕎麦の丸ごとを挽いているからです。

温汁のお蕎麦は淺川では初めてです。鶏を柔らかく煮て葱も焼くのではなく煮温めてあります。汁の色は僕がこれまで関東のお蕎麦屋さんの温汁を頂いた中で一番薄味です。汁は旨みがあって醤油の甘味を良く生かしてあります。


(地鶏南ばん蕎麦。鶏も葱も柔らかい煮含め。汁は薄味で旨みがあります)

出汁は鰹をはじめ3種くらいの節は入っています。鰹だけだと甘汁はこのようにたっぷり舌に絡む旨みにはなりません。
正月からお客さんは落ち着いたと聞いていたのですが、そんなことは無かったです。やはり開店以来の好況が続いていました。

この日の夜は臨時休業で久しぶりに彼と飲むことになりました。こちらのほうでは大変有名な磯料理のお店に案内してくれました。十四代などの高い酒がたくさんありました。
僕はどちらかというと酒は名前の高いものよりも好みで選ぶほうだからあまり高いものには行きません。
銘酒が並ぶお店で、ぬる燗でいただきました。(この居酒屋さんのご案内は後日に)



(写真は前菜。イカの塩辛はあわせ味噌で調合。酒飲みの気持ちを汲んだお通し)

帰りはその日本一だという露店を見ながら駅まで30分ほど歩きました。前橋の人が全員この通りに集まったのか、と思う人混みでした。風は寒いでしたけど、お祭りの温かい空気が心地よい日でした。


市内を走る川には飾り電球が美しく枝の間をうねっています。
前橋に満天の星が飛んでいました。9日・火曜

 浅川 群馬県前橋市日吉町3-41-12 027-231-7294      
昼 11:15~14:30
夜 17:30~20:00定休・木曜
淺川の前回の記事。

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温蕎麦の系譜④ 天下御免の蕎麦屋酒

2007-01-11 08:06:34 | 温蕎麦の系譜
日本に砂糖が公的に輸入されたのは丁度関が原夏の陣豊臣崩壊の時だから、家康が引退で秀忠が将軍の頃です。
もちろん日本は四方海だから明国やポルトガル辺りから砂糖は入って来ていたに違いない。
何しろ、あの信長が金平糖に感動してその製造を命じたと言うからそれまでに相当量は入ってきていたと推理できる。しかし、それは高貴な人への献上物になっていたんでしょうから庶民の口に入るのはせいぜい芋や小麦のすりおろしの甘みだったのでしょう。

饂飩や蕎麦が美味しくなっていくには醤油もそうですが砂糖が欠かせないものです。
日本食の発展は味噌、醤油、砂糖が根本を作ってきたのですが、その日本食の発展のムーブメントのベースは戦国時代だったでしょう。戦いに行くには食料が必要でその携帯保存食の開発やインスタント食は必須ものだった。
いつの時代にも長期遠征の食料確保は軍事戦略の基幹です。


(写真は浅草美登里の味噌焼きおにぎり。携帯食の基本)

国が違えば証文は通用しないですから、補給路は物々交換か携帯食です。無くなると略奪になるわけですがそれをやると農民が離反して退路を断たれて苦戦します。信長や秀吉は補給路と食料調達の名人だったようで戦に強いわけがわかります。戦も食が基本だということです。
しかし、それにもまして食文化の基を作ったのは強い者が勝ち残ってきた時にその拠点を移動して大きな築城を行った時でした。
それは今で言えば都市開発のようなものです。その第一人者は信長だったでしょう。
信長の先見性は拠点を縄張りだと考えないで産業だと考えた点でしょう。産業が興れば必然的に税収が増える。そのためには租税をシンプルなものにして貨幣も全国流通にできるものに考えた。原初的な流通経済主義の考え方が芽生えたんでしょうね。かくて信長が一人勝ちで日本一の大金持ちになっていったわけです。

ついでに言いますと信長は領地は武将に与えたわけではなく、レンタルで経営させたわけです。一種のフランチャイジーシステムです。明智光秀が歴史上、丹波を召し上げられて逆上して謀反を起こしたと解釈されていますが、それは間違っていて領地替えは当たり前でした。その他の武将を見ればそのことがわかります。光秀は信長のその経営自体に反抗したんでしょう。彼は熱心な仏教主義者で保守本流だったから信長の新しい経済システムに恐ろしさを持ったのでしょう。

信長は安土城を建築した時にその城下に様々な新しい発想の施策を行った。面白いのは天下一の称号制度だ。例えば天下一の大工、天下一の瓦職人いう具合だ。この制度と楽市楽座の取引き簡素化税の導入で全国から商人や職人が集まり様々産業が起きたと言う。日本では起業家を公的に援助したのは信長が初めてで、以後なかなか現れない。

楽市楽座、基幹道路整備、人材登用、起業振興、輸入振興、暦の統一、貨幣の一元化などを推し進めようとした信長は、おそらく当時としては天才的な政治家で軍略家だったわけです。
上記の施策を行うにはそれまでの既得権者が当然反対するだろうからあのように周り中が敵になったのはよくわかる。味方でも理解不能だったのかもしれない。
なんとか理解したのは若い頃から同盟を結んだ家康であり、今川から親分を変えた秀吉だったのだから2人は見る目があったのだろう。

信長は面白がり屋だったから当然この時に「饂飩屋天下一」の称号を与えていたのではないでしょうか。文献にも饂飩屋の屏風などがこの頃に残されているから普通の職業となってきていたようだ。
蕎麦屋はこの頃無いが饂飩屋がやがて蕎麦屋を作るのだから、蕎麦屋の起業支援者の元親は信長だと言う事にもなる。これはやはり信長に我々蕎麦好きは感謝しなければならない。

この時は今で言う都市開発や地域開発が盛んに行われたのだから、食文化が急速に発達したと思える。特に信長の安土城を中心とした城下構想は、スケール上今で言えば六本木ヒルズ開発や丸の内開発と変わらないのではないか。いたるところで土木工事が行われ住宅が立ち、下水道工事まであった訳だからそれを支える食の供給は緊急課題であったろう。


(神田まつやの卵とじ饂飩。工事の後には人気を呼んだかもしれない)

簡易食堂、居酒屋、立ち喰いなど相当な数の食堂もできたろう。そこでは温汁の饂飩がテイクアウト用や、移動用屋台として注目を浴び、かなりの数が普及したはずである。
この頃にひとつの地域に住居地区、繁華街、市場などの都市の形態の原型ができたのでしょう。以後秀吉の大阪城築城と聚楽第建設、家康の駿府築城と大プロジェクとが進行していった。
関東にはこの名古屋、大阪、京都の食文化が箱根を越えて一挙に流れ込んできたのではないか。いまでは蕎麦の砂場と言えば東京だが、文献では江戸時代大阪砂場が江戸に進出してきたとあるから砂場の本店は大阪なのである。江戸時代、倹約を重んじた家光から、家綱、綱吉の代になってからいわゆる庶民文化が謳歌されたようでこの頃から、饂飩屋の看板が立ち始めている。

この2人の代になると蕎麦きりの名前が文献にも出始める。浅草の正直蕎麦、鈴木町丹波屋与作の手切りそば切りが名が高い。家光の代の頃は蕎麦屋は饂飩屋ではサブのメニューでつけたしのようだったらしい。蕎麦は居酒屋や酒屋に置いてあって酒を飲んだ後に食べていたのだと言う。


(麻布十番 更科堀井の蕎麦前。布屋の祖を持つ蕎麦屋さんです)

今は蕎麦前といわれるが当時からそうであったらこれは歴史の必然で、蕎麦好きの酒好きはこれは天下御免で許されることと思うが、どうでしょう。
蕎麦は酒屋、饂飩屋から独立してやがて蕎麦屋単独の職業としても成立していく。


(六本木 本むら庵の田舎蕎麦。本店は街道蕎麦で大名行列通りの「御免」の看板を持つ)

長野から来た蕎麦職人たちが、上方から来た饂飩、蕎麦の温かい汁に対抗して、千葉の地回り醤油を基につゆを開発して蒸篭蕎麦のポジションを築いて行った。 温蕎麦の系譜④

温蕎麦の系譜①、②、③
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