ワールドミュージック的門外漢

音楽やオーディオの門外漢が、そこはかとなしに綴る、
    まことしやかな謬見ときどき真実なブログ。

買われた歌姫 その2

2017-11-17 00:10:19 | ワールドミュージック
まりにも出来の良すぎるAynurの「Keçe Kurdan=クルドの娘」ですが、気になるのが一体彼らはどれだけの資金を投入してこの民族音楽を装った現代音楽のアルバムを完成させたのかということです。
Aynurは建前としてはシンガーソングライターとなっていますが、これだけの作品群をものするほどの才能があるとはとても思えません。その作品レベルの差はこれ以降のアルバムが如実に物語っている通りです。そこには恐らくクルド人ではない複数の作曲家及びミュージシャンが何チームも編成され、作品作りに勤しんでいたと考えるのが妥当かも知れません。
さらにアコースティックと電子音とのマッチングの良さという録音レベルの高さ、洗練された音楽センスの良さから考えても、2004年当時のトルコ国内でこれだけの作品がつくれたかとなると首を傾げざるを得ません。恐らくはこれらの作品は英国内で収録され編集されたのではないかと考えているのですが、そうなるとアーティストや演奏家、コーラスに支払うギャラ、録音や編集スタジオの経費などもろもろ含めて、この1枚のCDを世に送り出すために億を超える金が費やされたのではないかなどと想像してしまうのです。
加えてその後のヨーロッパ諸国でのコンサートツアーにおいても民族楽団が同行するだけでなく現地オーケストラとの協演なども行っているのですから、その経費の掛け具合は採算度外視の大盤振る舞いだったに違いありません。
ではこのクルドの歌姫をこれだけの資金をつぎ込んで買ったスポンサー筋がどのような意図をもって彼女をヨーロッパの人々に露出させようとしたのかということですが、これは人類の敵、かのジョージ・W・ブッシュが因縁かましてゴリ押ししたイラク戦争と関係しているのではなかろうかと考えています。2003年に始まったこの不条理な連合軍によるイラク侵攻はその圧倒的な軍事力の差によって当初から分かりきった決着を見ることとなっていたでしょうから、戦争のタイムテーブルに合わせてアルバム製作も開始されていたということになります。
2004年にアルバム「クルドの娘」がリリースされ、欧州ツアーが挙行されます。そして2005年にはイラク暫定政権が発足するわけですが、そこでイラク大統領に就任したのがなんとクルド人のジャラル・タラバニということで、同じイラク国民とは言え、アラブ人の国家に非アラブ人が国家元首として就任してしまうという現実をどう捉えればいいのか、国民感情として果たして納得が行くものなのかどうか、まあこの辺はイラクとクルドがどのような関わり方をしていたのかを知る由もない私としては何とも言い得ないわけですが、名誉職としてのイラク大統領だとは言え、シーア派とスンニ派を取り持つ善意の第三者的存在が忽然と降って湧いたような成り行きには不自然さを感じざるを得ません。
ということで、親英米イスラエルであるクルド人を政権中枢に擁立するためにはその名分と、たとえ嘘であったとしてもクルド民族の優秀さを欧州世界にアピールし、クルドのステータスを高める必要があったのではなかろうかと思うのです。敗戦国であるイラク国民の感情などどうとでも言うことを聞かせられる、それよりもイラク侵攻に懐疑的な欧州諸国がどう捉えるかが彼らにとっては気掛かりだったはずで、ここはクルド神話という魔法の粉を欧州の人々に振り掛けて目を眩ませ、一気にイラクを親英米イスラエル国家へと改変させる段取りになっていたのかも知れません。
そのクルド神話という幻想を抱かせるひとつの手段がAynur Doğanではなかったかと思われるわけで、戦争屋に担がれた彼女が一躍引っ張りだこ状態で世界を駆け巡ってどれだけの成果をあげられたのか、はたまた虚構と知りつつも人気歌手をずるずると演じつづけざるを得なかった当時の彼女の心中やいかに、なんていうことは私に分かるはずもありません。
かくしてこのような邪悪な意図のもとに作られたアルバム「クルドの娘」ではありますが、たとえ私の推測が当たっていたとしても決して音楽としての価値が下がるというものでもなく、この作品は他に抜きんでた傑作としていついつまでも賞揚されてしかるべきものではなかろうかと思います。音楽に罪などないのです。

買われた歌姫 その1

2017-11-01 23:27:17 | ワールドミュージック
手という人気商売、人に気に入ってもらうためなら媚も売れば体も売る、なんてことがあるかも知れません。近頃の流行りは為政者自らが率先して国民をたぶらかし、国を売るのに心血を注ぐことのようですが、一体あなたはどこの国の人ですかと問うてみたくなる衝動に駆られるのは私だけではないかも知れません。


ということで登場したのがトルコ生まれの「クルドの娘」Aynur Doğan女史でありますが、今回は私がなぜ彼女を「買われた歌姫」と考えるに至ったのかを説明していきたいと思います。ここで言う「買われた」というのは下世話な意味でのそれではなく、はなはだ政治的に、というか工作プロジェクトの一環として利用されたのではないかという意味合いでの表現ですので、どうぞお間違いなきよう。
ついでに余計なお世話かもしれませんが「クルド」というのはWikipediaによれば「トルコ・イラク北部・イラン北西部・シリア北東部等、中東の各国に広くまたがる形で分布する、独自の国家を持たない世界最大の民族集団である」とのことです。

さて私がAynur Doğan女史に興味を持ったのは2004年にリリースされた「Keçe Kurdan=クルドの娘」というアルバムがきっかけだったのですが、その出来栄えが音響的にも、音楽的にもあまりにも傑出していて、聴けば聴くほど惹きこまれていくといった類のもので、たとえばこの中の「Bexo」という一曲を抽出しただけでもその魅力を十二分に語るものとなっています。

https://www.youtube.com/watch?v=ZG6h_0sBLwk

脳を揺るがすような電子音に始まり、おごそかな歌声とそれに唱和する弦や太鼓が次第に曲の雰囲気を盛り上げていったと思ったら、こんなところでサックスが~!というほどの想定外の響きが朗々と吹き鳴らされるに至っては、これはもうしてやられたなあと感嘆の手を打つしかありません。これこそ民族音楽と現代音楽の見事な調和、クルドの娘Aynur Doğan女史の類稀な才能に惜しみない拍手を!ということになっても不思議ではありません。そしてこの「クルドの娘」というアルバムにはこの曲に勝るとも劣らない作品がいくつも転がっている、いえ収録されているのですからホント、嫌になっちゃいます。
このアルバムがリリースされた当時のこと、トルコ政府(地方裁判所)は歌詞の一部に不穏分子のプロパガンダが含まれているとしてこれを発売禁止処分にしたそうですが、その発禁処分も間なくして解除されています。聞くな!見るな!と言われると、興味がない人でも却ってどんなものかを知りたくなるのが情というもので、私にはどうやらこれは政府自身が率先して、あるいは誰かの指示に従ってこの「クルドの娘」に着目するよう仕向けていた可能性が大いにあるのだろうとしか考えられません。
そしてアルバムがリリースされた2004年から2005年にかけて、それほど知名度があったとはとても思えないこの歌姫はなんとヨーロッパ各国でのコンサートツアーなるものまで敢行しています。欧州マスコミの絶大なる援護射撃もきっとあったことでしょう、さぞや「クルド」の名を良識ある人々の胸に刻み込むこととなったのでしょうなあ、たぶん。


そして「クルドの娘」の充実ぶりから察するに、その翌年にリリースされた「Nûpel」というアルバムもさぞや素晴らしかろうと期待するのが理の当然となるのですが、ところが豈はからんやです、これが前作の足元にも及ばない、どころか一般の鑑賞レベルにも達していないようなアルバムで、これがあの音楽の高揚と充足感をもたらしてくれた歌手と同じスタッフの手になるものとはとても思えない、いわばガラクタの寄せ集めのようなもので、彼女が前作で見せた才能の片鱗すら感じ取ることができないのです。
私がこの2作品を手にしたのはリリースよりずっと後のことですが、なぜ音楽レベルにこれほどの違いがあるのだろうかと思い、その後に続くアルバムをAmazonで試聴してみたところ、結局「クルドの娘」に比肩しうるような曲には出会うことが出来ず、私の疑問はますます深まるばかりでした。