嶽南亭主人 ディベート心得帳

ディベートとブラスバンドを双璧に、とにかく道楽のことばっかり・・・

和解の握手 【考察:結びにかえて】

2005-12-22 04:45:49 | 追憶
白状しなければならない。真珠湾50周年をきっかけとして噴出するであろう反日感情をなんとかする手はないものかとあせっていたのは、この私である。

ところが、各地を回って行ったインタビューを含め、調査をすすめてみると、「真珠湾を忘れるな」には実にいろいろな意味合いがあるのだと知った。「自由の国・アメリカ」を守るためにたおれた人の鎮魂、反戦の祈り、平和の希求、歴史の教訓、安全保障の警告。今後とも「真珠湾を忘れるな」はアメリカ人にとって重要なメッセージであり続けるだろうけれども、それイコール反日感情・対日不信の源泉だと言うことはできない。

強硬と思っていた在郷軍人の対日観にも開きがみられた。

もちろん、グロービッツ会長のような強硬派はいる。プロローグで述べたように、そういった声を代弁しようとポーズを打つ政治家もいる。

その一方で、真珠湾生存者協会アトランタ支部では、会員の3分の2が和解の式典を積極的に支持し、中止要請をかいくぐって式典の実現にこぎつけた。在郷軍人をひとからげにして、「反日感情に固まった人々」と思い込む愚を知った。

ここに一つの世論調査の結果がある。実施されたのは真珠湾50周年、1991年の10月。「真珠湾攻撃という歴史的事実は、あなたの対日信頼度はどう影響するか?」という問いである。

結果は、「信頼できなくなった」が16%であるのに対して、「信頼度には影響しない」は73%に上っている。

つまり、現在の大多数のアメリカ人の心の中では、F・D・ルーズベルト大統領が「屈辱の日」と呼んだ真珠湾への奇襲攻撃と、対日不信は結びついていないということだ。

注意すべきことがあるとすれば、「真珠湾を忘れるな」を政治的に利用して、「卑怯な日本」というイメージを売り出そうとする悪意の人々が出てくる恐れがあることだろう。

「真珠湾」が日米経済摩擦のレトリックとして使われることがあるが、「表では協力するふりをしながら、実は後ろからばっさり斬ろうとしている卑怯な日本」というイメージを駆使しようとする対日批判には、感情的な議論には実りがないことを明確に指摘しなければならない。対外広報は、今後の重要な政策課題である。

ただし、その「16%」は、謙虚に受け止め、深く心に刻んでおかねばなるまい。

人間の感情の中で、いつまでも、時として世代にまたがって持続する感情が二つあるという。

「嫉妬」と「怨念」が、それだ。

怨念は憎しみへと人を駆り立てる。その憎しみが積み重なって、何かのきっかけで爆発すれば、殺し合いにエスカレートする。そして、いったん戦争となれば、それがまた新たな怨念の火種をまき、ずっと長い間くすぶり続けて、新たな憎しみの火元となっていくのだろう。

残念ながら、太平洋戦争を振り返ってみると、真珠湾に関わるアメリカとの関係のみならず、アジアの近隣諸国に対して、怨みをかうようなふるまいが日本にあったことは否定しがたい。

我々が21世紀において、世界とともに平和でありたいのならば、他の国の人々の、そして我々自身の心のうちにある「怨念」こそ、恐れるべきではないだろうか。

怨念と憎しみの連鎖をどこかで断ち切る。時にはけんかをしても良いが、心の底では相手の存在をおたがいに認めあい、ともに生きていく関係を作る。

それが容易なことだとは決して思わない。時間もかかるだろうし、力が及ばないことを思い知るときもあるだろう。

そんなときには思い出そうと思う。50年たって、困難を乗り越えてハワイに集い、握手を交わした日米の心ある人たちのことを。



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