(本文と写真との間には、何の関係もありませんし、何の意味もありせん)
感謝した生活を送りたいと思っている。
今、自分が置かれている状況に感謝すべきだと思っている。
では、その感謝するということはどういうことなんだといえば、それは、今の状況に幸せを感じることなんだろうな、と思う。
でも、幸せを感じはしても、それで満ち足りているとは思わない。
たぶん、どれほど恵まれた状況に置かれても、藤原道長のように、その生活に欠けていることのないまん丸な月のようなものを感じることは無いんだろうな、とも思う。
それは、ある意味、贅沢な間違った考えだと思われるかもしれない。
でも、幸せを感じるということと、今の状況に満足をするということは、違うんだろうな、とも思っている。
だいたいが、人は満足できないことや不満を感じることで、それを何とかしようとすることで、前に進んでいけるんじゃないかな、と思っているわけである。
だから、私は、常に今の生活に感謝し幸せを感じつつも、同時に不満を持ち続けている。
その欠けたものを、何とか埋めたいな、と思っている。
本当は、私が勝手に不満に思っているだけで、その生活が、本当に満ち足りた欠けたものがない満月のようなものだとしたら、本来あるはずの無い欠けた部分を埋めようとして私が持ってきたものは、行き場が無くて、私の器からは零れ落ちるだろう。
だけど、その零れ落ちた部分は、私の周り、社会とかいうやつに溢れ出ていくわけで、それはそれで、社会が幸せになる一端を担うのであるならば、それはそれでいいんではないだろうか。
感謝した生活を送りたいと思っている。
今、自分が置かれている状況に感謝すべきだと思っている。
では、その感謝するということはどういうことなんだといえば、それは、今の状況に幸せを感じることなんだろうな、と思う。
でも、幸せを感じはしても、それで満ち足りているとは思わない。
たぶん、どれほど恵まれた状況に置かれても、藤原道長のように、その生活に欠けていることのないまん丸な月のようなものを感じることは無いんだろうな、とも思う。
それは、ある意味、贅沢な間違った考えだと思われるかもしれない。
でも、幸せを感じるということと、今の状況に満足をするということは、違うんだろうな、とも思っている。
だいたいが、人は満足できないことや不満を感じることで、それを何とかしようとすることで、前に進んでいけるんじゃないかな、と思っているわけである。
だから、私は、常に今の生活に感謝し幸せを感じつつも、同時に不満を持ち続けている。
その欠けたものを、何とか埋めたいな、と思っている。
本当は、私が勝手に不満に思っているだけで、その生活が、本当に満ち足りた欠けたものがない満月のようなものだとしたら、本来あるはずの無い欠けた部分を埋めようとして私が持ってきたものは、行き場が無くて、私の器からは零れ落ちるだろう。
だけど、その零れ落ちた部分は、私の周り、社会とかいうやつに溢れ出ていくわけで、それはそれで、社会が幸せになる一端を担うのであるならば、それはそれでいいんではないだろうか。