取手・医科歯科通信 山本 嗣信 (やまもと つぐのぶ)

医学情報社編集顧問
フリージャーナリスト

創作欄  真田と栄子 2)

2018年03月20日 22時26分42秒 | 創作欄
2013年12 月11日 (水曜日)

競輪好き人間であれば、競輪女王であった田中和子元選手のことを誰もが知っているであろう。
田中選手は1955年に「全冠制覇」達成し女子競輪における唯一の選手であった。
特別競輪を実に15回制覇している。
驚愕ともいえる強さであり、落車を1回した以外は全て1着だったという年まであった。
神奈川の渋谷小夜子も強かったが、渋谷が引退すると田中和子は独擅場の強さを誇るようになった。
後続をぶっちぎって悠々と1着ゴールしたケースも数知れなかった。
「田中和子は強かったね」真田は田中和子の走る姿を思い浮かべた。
「本当に、田中さんは強かったです。とても私には勝てませんでしたね」
元女子競輪選手の大田栄子の目が輝いた。
まさか取手駅前の居酒屋で元女子競輪の選手と出会い、女子競輪時代の昔話ができるとは真田は思わなかったので気持ちも高揚してきた。
大田栄子は実はバー「ジャン」という店を経営していて、居酒屋で客引きをしていたのだ。
居酒屋の店主は競輪好きであり、選手時代の大田栄子のファンの一人であったので、店内での客引きを大目に見ていた。
競輪帰りのファンの常連客でその居酒屋は競輪開催日には賑わっていた。
「私の店に来ませんか?バーですが日本酒も置いています」
真田は喜んで誘いに応じた。
通称祇園横丁にバー「ジャン」はあった。
カウンター席とボックス席二つがあり、10数人で一杯になるほどの広さである。
店には、20代の女性と40代と思われる女性が居た。
カウンター席に6人の男性客が居て、その日の競輪の話などをしていた。
大田栄子はビックス席に真田を招き、接客した。

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<参考>
取手地区はかつて、陸前浜街道の宿場町として栄え、本陣をはじめ、旅館や茶屋が並ぶ陸上交通の要所であった。
また、江戸時代中期から明治時代にかけて諸藩の産物を運搬する利根川水運が盛んであった時代には、宿場町として河岸を中心に発展した。
昭和22年取手町に井野村を編入し、昭和30年、取手町、稲戸井村、寺原村、小文間村と高井村の一部が合併し、取手町が誕生した。
昭和40年を転機に日本住宅公団、民間の宅地開発、大手企業の進出などで人口が急増し、同45年10月、取手町は、県内17番目の市制を施行した。
1970年(昭和45年)取手町は取手市となった。
取手は、地域の中央部を南北に水戸街道(国道6号)が通る。
1970年代から1980年代にかけて東京都心のベッドタウンとして開発され人口が増加。
1971年(昭和46年)上野―取手間は複々線化により輸送力が上がっている。

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<参考>
女子競輪
最盛期の1952年には669名もの女性選手が在籍したが、体力の限界や結婚などで引退する者が相次ぎ、1959年には394人、1961年には294人にまでその数を減らしていった。
また、デビュー当時18 - 19歳だった彼女らも徐々に高齢化し、晩年には「ミセス・ケイリン」とまで揶揄される有様であった。
そして1964年8月、末期まで残った230人の女子選手全員の登録消除が決定し、10月31日付けで選手登録消除となり、全員が引退した。
なお、女子選手が男子選手と結婚し、その子供も競輪選手になったという例もある。
女子競輪が衰退していった理由としては、男子と比べれば選手の数が少ない上に、元々選手間での力の差があり過ぎてレースが堅く収まってしまうことが多く、 ファンから見てギャンブルとしての魅力が乏しかったこと。
女子の強豪選手は西日本に多かった一方で、比較的女子競輪の人気が高かったのは南関東など東日本であり、施行者側も人気強豪選手を呼ぶには多額の交通費を支払うことになるため、経費面がネックになっていったこと。
「家庭の都合」などを理由に競走不参加を続ける不真面目な選手も多く見られ、施行者側としても選手確保に頭を悩まされたこと。
元々男子と比べて賞金体系が低く設定されていたことや、女子競輪の開催自体が減少したため、収入に結びつかない選手が増えたことで競輪選手に対する魅力が薄れ、新たに競輪選手を目指そうとする女性が減少し新陳代謝が進まなかったこと。
圧倒的な強さを誇ったスター選手の田中和子らの引退と、それに代わる新しいスター選手を輩出できなかったこと。
一定の年代が訪れると、概ね結婚のため現役を退いた時代でもあった。
最初から選手の質の維持に問題があったことなど。

2013年12 月 9日 (月曜日)
創作欄 真田と栄子 1)

競輪ファンである真田は、競輪選手である松本勝明が日本プロスポーツ大賞に選ばれた時、溜飲を下げた思いがした。
マイナーなイメージが定着し、真田が通っていた後楽園競輪は、1972年10月26日に開催されたレースを最後に競輪の開催が廃止された(法的には休止扱いとなっている)。
だが、皮肉なことに競輪選手である松本勝明の実績が評価されたのである。
真田は松本勝明選手が出るので久しぶりに取手競輪場へ行った。
すでに松本選手は44歳であり往年の走りを失っていたが、自転車競技の感動を改めて味合う。
真田は62歳になっていたが、気持ちは松本選手への強い思い入れがあり、同世代のつもりになって応援する。
結果は松本選手の負けであったが、松本選手の主導権を握る競争スタイルとそのプロセスに満足することができた。
競輪が終わって、真田は取手駅前の居酒屋で酒を飲んだのであるが、思いがけなくその店で真田は元女子競輪選手に出会う。
1949年から1964年まで「女子競輪」が開催されていたので、主だっ選手を真田は覚えていたが、取手に元選手の大田栄子が在住していたのである。
大田栄子は35歳になっていた。
栄子は高校生時代はバレボールの選手であり、競輪好きであった父親の勧めで女子競輪選手になったのであるが、8年前に女子競輪はファンの指示も得られずは廃止されてしまった。
原因は男性選手の競輪競技に比べ、レース運びが単調であり、プロスポーツとしての面白みに欠けていたことは否めない。
つまりエキサイティングな競争競技ではないので、ファンたちに飽きられたのだ。
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<参考>
歴代大賞受賞者・団体・スポーツ種類
1968 1 西城正三 プロボクシング
1969 2 読売巨人軍 プロ野球
1970 3 大鵬幸喜 大相撲
1971 4 長嶋茂雄 プロ野球
1972 5 松本勝明 競輪
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