性的な逸脱(=倒錯)

2018年06月21日 14時23分53秒 | 社会・文化・政治・経済
太古の昔から人類の歴史を通して同性愛者や両性愛者たちの存在は記録に残っている。
日本では既に9世紀の平安時代にその存在は確認されており、僧侶や公家の間で流行した男色が、室町時代に武士の間で盛んになる。
織田信長、武田信玄など 戦国時代の日本では、「バイセクシュアルが多く、それが普通だった」という説もある。

幼児期から思春期にかけて、性欲動(=性的な欲求)は、母親との原初的な関係(授乳)を出発点として、自愛的な段階、潜在期を経て、思春期になり再度外部に性対象(=魅力を与えてくる人間)を見出す。
この過程を適切にこなせば、性を正常に形成することができるが、できなければ倒錯もしくは神経症になる傾向が高まる。
私たちの身体性や感受性は自己や他者との関係性に基いて形成される。
それゆえ幼児期から思春期にかけて、母親との関係や家族関係に問題が生じると、身体性の形成に支障をきたすことになりかねない。心の問題は単純に脳神経系に由来するわけではない。
性的な逸脱(=倒錯)
フロイトいわく、一般には性欲動は、性的な交渉に至ることを目的とすると考えられている。しかしそれはつねに正しいわけではない。
なぜなら、性対象(=性的な魅力を発揮する人間)と、性目標(=性欲動によって引き起こされる行動)の両方に関して、いくつもの逸脱が認められるからだ。

絶対的な性対象倒錯者があげられる。すなわち、同性だけを性対象とする人々であり、異性はまったく性的な憧れの対象となることがない。異性に対しては冷淡にふるまうか、性的な嫌悪感を感じるのである。

次に、両性具有的な性対象倒錯者(性心理的な両性具有者)がいる。
これは同性でも異性でも、性対象にできる人々である。
最後に偶発的な性対象倒錯者がいる。
これは、特定の外的な条件が存在する状況、すなわち正常な性対象が利用できなくなったか、他の人々の行為を模倣するような状況においては、同性を性的な対象とすることができ、こうした性行為において満足を感じることができる人々である。
1.倒錯は先天的もしくは後天的なもの
2.身体的な両性性(=両性具有)が倒錯につながる
3.「異性の脳」が宿ることで倒錯が生じる
1つ目の誤りについては、倒錯を先天的もしくは後天的のいずれと見なすにせよ、他方の要素が関係していないことを示す必要がある。
もし先天的とすれば、何が本当に先天的なものでありかを具体的に指摘する必要があるし、後天的とすれば、どのような気質にもよらずに倒錯が生じることを証明しなければならない。
しかしそれは結局のところ無理であり、どちらと考えても本質はつかめない。そうフロイトは言う。

心理学的な問題を、解剖学的な問題として考察するのは、無用であるだけでなく、根拠のないことである。

男性的な脳「中枢」とか女性的な脳「中枢」という概念には、男性的な脳や女性的な脳という概念と同じ問題があるだけでなく、言語中枢と同じような意味で、脳に性の機能を果たす特定の部位(「中枢」)が存在するのかどうかは、まったく明らかでないのである。

私たちの性の決定要因を脳神経系に求めようとする主張は、現代に限らず、フロイトの生きていた時代にもすでにあったようだ。
ただ、注意しておきたいが、ここでフロイトは、脳のあり方が性に与える影響を全面的に否定しているわけではない。そうした要因が仮に影響を与えているとしても、その影響力はごくわずかであり、決定的なものとは言いがたい。むしろ幼児期の抑圧が本質的な要因として働いていると考えれば、事態をうまく説明できる。そのようにフロイトは考えたのだ。
1.目標の「行き過ぎ」 ◦性器以外の部位が性目標になること=フェティシズム

2.途中の段階に停滞 ◦のぞき、露出、サディズム、マゾヒズムなどへの「固着」

性器だけが性対象となることはほとんどない。性的な評価は対象の全身に対して拡大するだけでなく、対象から放たれる雰囲気に対しても含まれる。このとき、性対象は魅惑的に映り、過大に評価されることがある。こうした過大評価によって、性目標は性器の結合に限られず、それ以外の部位もまた性目標となるのだ。

性対象と関係しない事物それ自体に性的な興奮を覚え、これをもはや性目標の代理として扱うのではなく、性目標そのものとして捉える場合、これを私たちは病的なフェティシズムと見なしている。女性が履いていた靴下に興奮するのではなく、靴下の繊維や触り心地に興奮する、というようなケースだ。性対象と切り離されていることがポイントだ。
•性器だけを見たがること
•のぞき
•露出

露出がなぜ停滞かというと、それが最終的な性目標を押しのけて、相手の性器を見せてもらおうとする動機に基づいているからだ、とフロイトは分析している。
確かに、正常な性目標にも倒錯的な要素は備わっている。
これを倒錯と呼ぶのは確かに不適切だ。

しかし一方で、正常とは到底言いがたいような倒錯があるのも確かだ。
たとえばスカトロジーや死姦など、羞恥心や嫌悪感を乗り越えて驚くべき行為を行うひとがおり、これは病的と呼ばざるをえない。

ただし、こうした行為を行うからといって、その人が心の病にかかっているとは限らない。日常生活を問題なく送りながらも、性の領域においては、こうした病的な行為をするひとが確かにいる。この事実を無視することはできない。

フロイトは、神経症は性欲動をエネルギー源として生じるものであり、これに適切な「はけ口」が与えられず、心のうちで抑圧されているために生じるのだという。

もともとの欲動が無意識の領域に抑圧され、その欲動が身体に「はけ口」を求める結果、ヒステリーの症状が現れる。なのでヒステリーの症状を取り除くためには、抑圧されていた欲動がどのようなものであるかを意識にもたらすことで解消することができる。そうフロイトは言う。
フロイトいわく、幼児が行う「おしゃぶり」は、ひとつの性的な表現だ。「おしゃぶり」によって幼児は、授乳の際に得られた快感を再び味わおうとしている。これは母親から快感を得ようとしているのではなく、みずから快感を味わおうとしている。したがってここで満たされる欲求は自体愛的なものである、とフロイトは言う。
性欲動が特定の他者へと向けられるとき、眼を通じて与えられる興奮によって魅惑されることが多い。この興奮をもたらす性対象の特徴は「美」や「魅力」と呼ばれる。魅力は性的な興奮を高めるか、それが存在していない場合には、これを生み出す。 思春期では性器が発育し、性行為が可能となる。性感帯は性器に集中し、ここに与えられる刺激によって性的な興奮が高められる。

フロイトはここで、性行為が可能となることによって、性的な快感は「前駆快感」と「充足快感(最終快感)」に区別することができるとする。
前者は性感帯が興奮することで生じる快感であり、後者は、端的に言えば、オーガスムに達することで生じる快感だ。充足快感は幼児の段階には見られず、思春期に入って新しく現れる快感だ。
思春期では、幼児期と異なり、対象は一個人として表象される。
そこでまず第一に登場するのが、少年にとっては母親であり、少女にとっては父親だ。社会的には、こうした近親相関的な空想は克服し、放棄するように要請される(インセスト・タブー)。

思春期の対象選択に両親との関係性が果たす役割を考えると、幼児期から小児期にかけて、両親との関係に障害が生じると、思春期以後の性的な体制に重大な影響があることは否定できない。
両親同士の不和は、子供の性的な成長を阻害したり、後に神経症を引き起こす要因のひとつになったりするのだ。
多くのヒステリー患者においては、死去、離婚、別居などの原因で、幼児期に片親を失ったために、残った親が子供の愛情を独占した場合には、性対象として選択される人の性別を決定する条件となったり、持続的な性対象倒錯が発生する結果となるのである。
性的な体制について普遍的に論じるためには、やはり女性による本質的な考察が必要だ。
ここでフロイトを男性中心主義と批判しても仕方がない。
実際フロイトは男性であり、女性の内面を直接に把握することは不可能だからだ。
女性による洞察によって初めて男性の性的な体制との違いや共通点を浮かびあがらせることができる。
必要なのはフロイトを責めることではなく、女性による性欲論だ。
それなしではどうしても側面的な議論にとどまってしまう。
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