朝賀麻実と邂逅

2018年11月17日 02時38分59秒 | 創作欄

畠山次郎先輩から行動展の案内が届いた。
東京都美術館は上野駅「公園口」より徒歩7分ほどにあった。
東京都美術館の3階展示室で偶然、声をかけてきたのが、彼女である。
「この彫刻気にいったの?」
その女性は、膝上15㎝ほどの黒いミニスカート姿で、徳利のセーターも黒であった。
「この彫刻は、大学の先輩の作品なので」
「そうなの、あなたの先輩なのね」
徹はその人の爽やかな笑顔に魅了された。
肩下までかかるストレートの髪である。
徹は髪の長い女性を好ましく思っていた。
「私も、少し彫刻をやった時期があったのだけれで、今は観るだけ」
「僕は絵も描けないし、美術の才能がある人が羨ましい」
「良ければ、一緒にお茶飲まない?」
初対面の女性から喫茶店に誘われたのは初めてだった。
「この人は、どのような人なのだろうか」と徹はその人を見直した。
その人は、自ら「私は、朝賀麻実」と名乗った。
徹は「本名なのだろうか?」と思って聞いてみた。
「実は、芸名。演劇をやっているの」麻実が打ち明ける。
徹は演劇には無縁であった。
「何処に行きましょう?」と麻実が聞く。
徹は上野駅周辺には詳しくない。
「不忍池を歩きましょ」
その人は、行動的な人であった。
不忍池は森鴎外の小説「鴈」に出てくる池だった。
10月の池の周りの桜並木の葉はほとんど落ちていた。
「桜の季節にも池に来ての並木の間を歩いて観たい。一緒に歩かない?」
「そうですね。できればまた来てみたい。この池の中道はそんな雰囲気ですね」
「あの、ボートの二人、恋人同士ね。いいな、楽しそうね」
ボートの二人は、横に並んでオールを漕いでいた。
水しぶきが上がる度に、笑い声が起こった。
ボートを漕ぐことに慣れていに二人の様子だった。
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小説「鴈」
1880年(明治13年)高利貸し末造の妾・お玉が、医学を学ぶ大学生の岡田に慕情を抱き、末造の来ない日に一人で家にいるようにして、散歩に来る岡田を待つ。
ところが、いつも一人で散歩していた岡田は、その日の下宿の夕食が偶然、語り手の「僕」が嫌いなサバの味噌煮だったため、「僕」とともに散歩に出た。
途中不忍池で、たまたま投げた石が雁に当たって死んでしまう。
かれらは無縁坂の中途にあるお玉の家の前を通ったが、岡田が一人ではなかったので、お玉は結局その想いを伝える事が出来ないまま岡田は洋行する。
不運にも命を落とす雁になぞらえ、女性のはかない心理描写を描いた作品である。
ただしそれを、岡田の友人が語り手となって書いており、かれらがその当時は知りえないような、お玉と末造とのなれそめ、末造と妻との諍いなども描かれている。
これは、語り手がその後お玉と知る機会を得て、状況を合わせ鏡のように知ったのだと、語り手の「僕」は作中で弁解している。
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行動美術協会は二科会の解散(昭和19年)後、昭和20年11月、戦後の時代に適合し理想に充ちた新団体として創立された。
会の名称は柏原覚太郎の発案によるものである。
新生日本美術を樹立し世界文化に貢献すると結成の意義を謳った。
自主的かつ独自な在野美術集団として、個性的な芸術とその発表の自由を目指した。

昭和19年の二科会の解散
「美術展覧会取扱要綱」の下では到底自由な美術活動は不可能実情に陥って全会員一致で解散に至る。
文展 (→官展 ) 第2部 (洋画) の二科制設置の建議を文部当局に拒否され,文展を脱退した石井柏亭,坂本繁二郎,梅原龍三郎,小杉放庵ら 11名によって 1914年に結成。
同年 10月の第1回展以来,会員に変動をみせながらも常に新傾向の作家を吸収して,毎年秋季に展覧会を開催。
19年彫刻部を設置,44年戦争のため一時解散したが,翌年東郷青児を中心として再建。

新たに工芸部,写真部,漫画部,商業美術部を設置,多角的な展覧会を開き今日にいたっている。

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