取手・医科歯科通信 山本 嗣信 (やまもと つぐのぶ)

医学情報社編集顧問
フリージャーナリスト

創作欄 真田と千代 4)

2018年03月21日 12時20分16秒 | 創作欄
2013年12 月 6日 (金曜日)

千代は母が亡くなった時、遺品を整理した。
その中に桐の箱に入った金杯を見つけた。
「戦没者叙勲記念」と書かれていた。
千代の父親はアジアの南方で戦死していて、それが唯一の生きた証であった。
母と父の結婚生活はわずか2年であった。
その金杯を貴金属店で鑑定したみたら、ほとんど価値のないものであった。
母が誇りにしていた「お国にから頂い金杯」はそのようなものであったのだ。
終戦後まだ若かった母は再婚できたが、独身を貫き一人娘の千代を育てた。
真田は千代からそのようなことを聞かされ、切ない気持ちになった。
「お国のために・・・」 満蒙開拓団満蒙開拓移民は、満州事変以降太平洋戦争までの期間に日本政府の国策によって推進された。
中国大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人移民の総称である。
日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。
満蒙開拓青少年義勇軍は15歳~19歳の若者で編成された。
千代の母親の弟も15歳で満州に渡って命を落としている。
母親の長兄は教師の立場から教え子たちを送り込む立場にいた。
生き残って日本へ戻ってきた教え子は誰も居なかった。
長兄は罪悪感にとらわれ、戦後は教師を辞め農業に身を転じた。
真田と母親の長兄が偶然、同じ師範学校出身学校であった。
真田も戦後、教師に戻ることはなく闇市で無頼の徒に身を落とした。
教え子たちに言っていた「お国のために」が不遜であったのだ。
戦場では「天皇陛下万歳」と叫んで、「万歳突撃」で戦友のほとんどが無為な死を遂げた。 「戦争は、無謀だったのね」千代は真田から「万歳突撃」の実態を聞かされた。
「戦後、何度も戦場が夢に出てきて、うなされた。それを紛らわすため酒を無茶飲みし、賭博にものめり込んだ。ヒロポンもやった」
「ヒロポン?」
「ヒロポンは覚せい剤なんだ。一時的に疲労や倦怠感を除き、活力が増大に錯覚させられた。それで中毒になった奴もいた」
もはや戦後とは言えないが、戦争の傷が完全に癒えたわけではなかった。
1970年安保に多くの国民は距離を置いたが、全国の主要な国公立大学や私立大学ではバリケード封鎖が行われ、「70年安保粉砕」をスローガンとして大規模なデモンストレーションが全国で継続的に展開された。
1970年安保は1960年安保に比べると反対運動はあまり盛り上がらず、世論も、安保延長は妥当という見方が強まっていたため、大規模な闘争にはならず収束した。
還暦を迎え真田の戦後も終わったのである。
「60歳になったのね。お祝いをしなけば」と千代は言った。
「そんなものよしてくれ」と真田は苦笑した。
60歳まで生きてこられたことが奇跡のようにも思われた。
千代はバーの経営を続けていた。
「私には水商売が合っているの」
「そうかい。好きなようにしればいい」真田は千代を束縛するつもりはない。
女子大生であった竹内雅美は都市銀行に就職した。
時どき同僚たちと飲みに来て、店でカラオケを歌っているそうだ。
真田は千代と一緒に暮らし初めてから、店へ顔を出していない。

2013年12 月 3日 (火曜日)

創作欄 真田と千代 3)


「恋や愛に理屈はない―と誰かが言っていたけど、私が真田さんに、男として惹かれたのは理屈じゃないの」千代が言う。
「一緒に暮らそうか?」真田はホテルのベッドから身を起こしながら手枕をしている千代を見詰めた。
千代は左手を出して、「起こして」というので、真田はその手を握り引き寄せた。
「そうね。考えておくわ」 千代は女子大生の竹内雅美と自由が丘の一軒屋に暮らしていたので即答を避けた。
真田は原宿の分譲マンションで暮らしていた。
これまでずっと一人で暮らしてきた真田であったが、家で待ってくれる人がいることを欲する気持ちになっていた。
「俺も家庭の温もりや安堵を求めていたのか?」自分の気持ちの変化にむしろ驚いた。
真田は何時も誰かを好きになっていたい、という質の男であったが、好きになった女と暮らそうとは思っていなかった。
「会いたければ会いにいけばいい」と割り切っていた。
また、去って行く女を追いかける気持ちもなかった。
もし、戦争がなかったら、妻子と平凡に暮らしていただろう。
真田は何時の間にか、東京大空襲で失った妻子の夢を見なくなっていた。
それなのに、父母や兄弟たちの夢は見ていた。
夢の中の自分は旧制の中学生の姿のままである。
夢の中には初恋の人も出て来た。 相手はお寺の女の子で内気であった。
当時の女の子は着物姿であり、いかにも立ち居振る舞いがおっとりとしてた。
可憐で繊細であり大和撫子というイメージである。
初恋の子の姫木園子は出会うとうつむいて顔を赤らめていた。
真田が長い髪の女に好意を寄せるのは、初恋の女の子の思い出が原型になっていたと思われる。
里山の一本の田舎道にたたずみ、真田を帰りを待っていた少女の姿が夢に何度も出てきた。
「最近、真田さんの夢を見る」と千代は言っていたが、真田の夢は不思議と日本の戦前の原風景のなかで展開された。

2013年11 月30日 (土曜日)

創作欄 真田と公子 2)


看護婦の小西公子は、真田が考えているような女ではなかった。
上昇志向が強く、しかも優しさから不幸な人、悲惨な状態に置かれている人々に対して憐憫の情を注いだ。
公子はある日、ベトコンの若い女性兵士が囚われ、南ベトナムの兵士たちに川の中で責め苦にあっている写真を週刊誌で見て、大きな衝撃を受けた。
女性兵士は公子と同世代と思われた。
その1枚の写真が、女性兵士が置かれている立場を如実に物語っていた。
女性兵士は長い髪の毛を鷲づかみにされ、川の中にしばらく頭を埋められ窒息する瞬間に、頭を川面に引き戻された写真である。
片手を捻じ挙げられている。
別の兵士が憎しみの表情を浮かべ横から女性兵士のお尻を軍靴で蹴っていた。
女性兵士は泣き顔になっていた。
その写真を見てから数日後、先輩の看護婦に誘われて公子はベ平連に関わった。
真田は心の優しい公子と過ごすと気持ちが穏やかになった。
何時も傍にいてほしいと思ったが、公子には夜勤があった。
「公子、よく働くね。カラダは大丈夫かい?」
その日、公子は夜勤明けであったが、真田に会いに来てくれたが、だいぶ疲れているように見えた。
「今月は夜勤が10回なの」 と深いため息をついた。
「10回?! 3日に1回だね。それは酷いな」 真田は目を丸く見開いた。
公子は喫茶店の2階の窓から道ゆく人に視線を注いでいた。
「日本は、平和でいいわね」
「そうだね」真田はタバコを吸う。
「私にも、1本ください」
「公子はタバコのむのかい?」真田は怪訝な表情を浮かべた。
「看護婦はタバコのむ人多いの」
ピースを1本箱から出して真田は公子の口に近づけた。
そしてライラーで火を付けた。
「タバコは、どうすえばいいのですか?」
公子は指にタバコを挟みながら、火が着いた部分を確認するように見詰めた。
「たばこは、呼吸をするようにすえばいいんだ」
公子はタバコを口に含むようにして、煙を少し吸い込んだ。
真田はそんな公子を愛おしいと見詰めた。
まるで、子どもがイタズラをした時のような表情を浮かべ肩をすくめた。
「これが、タバコの味なのね。いいものね。先輩たちがタバコをのんでいるの、分かる気がする」
公子の笑顔は疲れを徐々に癒していくようにも映じた。
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<参考>1
ベトナム反戦運動ベトナムに平和を!市民連合
略称「ベ平連(ベへいれん)」)は、日本における代表的なベトナム戦争反戦平和運動団体。ベトナム戦争(1960~75年にわたる第2次インドシナ戦争)に対する反戦運動。
それまでの反戦運動に比し、ベトナム反戦運動は、質的にも量的にも、はるかに際だったものであった。
とくに戦争当事国アメリカの中で、自国の戦争政策に反対して行われた運動は、軍隊内部での抵抗をも含めて、
第1次世界大戦末期の帝政ロシアでのそれを除いては前例のない規模であった。
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<参考> 2
二・八闘争】(ニッパチトウソウ) 1965年、人事院は夜勤制限の必要性を認め「夜勤は月平均8日以内」「1人夜勤の禁止」などの「判定」を出した。 この判定をテコに1968年、新潟県立病院における看護婦の実力行使を背景とした「夜勤協定」獲得のたたかいが始まり、それを皮切りに「2人以上・月8日以内」夜勤制限を要求する実力闘争が全国的に広まった。 「2人以上・月8日以内」の数字をとって「二・八(ニッパチ)闘争」といいます。
2013年11 月29日 (金曜日)
創作欄 真田と公子 1)
真田は何者かに背後から拳銃で撃たれ新宿の医科大学病院に救急車で搬送されていた。
幸い弾丸は22口径のものであり、しかも撃たれ場所が腰であった。
相手は真田を殺すつもりではなく、意図をもって警告を発したのだとも思われた。
色々とこじれている問題もあった。
真田は警察の事情聴取を受けたが、加害者には実際のところ心当たりがなかった。
真田は仕事の内容を根掘り葉掘り聞かれたが、コンサルタント業で通した。
いわゆる仲介業であり何でも屋でもあったのだ。
当然、警察は胡散臭い男だと目を付けただろう。
そんな真田に看護婦の小西公子は温かい心遣いで接してくれた。
真田は聞かずには居られなかった。
「あんたの、その優しさはどこから、くるんだろうか?」
「わたしは、自分が選んだ看護の仕事を忠実にしているだけです」
小西の微笑みは人の心を癒すものであった。
小西のネームプレートを見詰めながら「小西さん、あんたは独身かい?」と真田は聞いてみた。
「独身ですよ」と言いながら、小西は交通事故で入院している若い男の病床へ向かった。
「独身かい。結婚したら、いい奥さんになるよ」真田は小西の背後に言葉を投げた。
公子は父が戦死し、小学校4年生のころから、日雇いの仕事をしていた母に代わって家事などを担っていた。
弟や妹の面倒もよく見ていた。
公子は進路について相談したところ、中学校の担任の教師から「君は看護婦の仕事に向いているかもしれないね」と言われた。
そこで、家計を支えながら勉強できる看護の道を選んだ。
当時、競争率が高かった千葉県内の准看護学校へ進んだ。
人間関係は不思議なもので、公子は真田に好意を寄せたのである。
真田は50歳になっていたが、男の魅力を感じさせる男であった。
真田に父性を公子は感じたのである。
この感情は純子にも共通する情愛でもあった。
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