取手・医科歯科通信 山本 嗣信 (やまもと つぐのぶ)

医学情報社編集顧問
フリージャーナリスト

宗教は不必要か

2018年11月16日 13時54分16秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力
 
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内面の問題を解決することはできない

2018年11月16日 12時54分22秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

イデオロギーによる対立の壁を超えて、人間という原点に返るヒューマニズムの哲学が、これからの平和の鍵になる。
いかに制度や環境を整えたしても、人間の悩みを克服し、向上心や自律心を培うといった、内面の問題を解決することはできない。

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使命もって生まれてきた

2018年11月16日 11時17分14秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

挑戦の心を燃やし、自分に敗れなければいいのだ。

あなたは、自分も幸せになり、人びとも幸せにしていく使命もって生まれてきた。
だから、使命を果たさずに自ら死を選んではダメ!

桜は、長い冬に耐え、春を迎え、美しい花を咲かせる。


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わが夫, 還らず : ベトナム戦争に消えたジャーナリストの妻たちの30年

2018年11月16日 10時43分24秒 | 沼田利根の言いたい放題

1970年にベトナム戦争とそれに巻き込まれたカンボジア。

柳沢武司さんの妻・戸田三根さんは、実は当方の友人の一人であった。

再婚して柳沢から戸田となる。(沼田利根)

殿島三紀著

砂書房, 2000.5

内容説明

毎年、学生らと共にこの地にボランティア活動に行く私たちは、当時の悲劇と混乱を知り、その後を生き抜いてきた人々の悲しみと苦難の道を想う。

この戦争では多くのジャーナリストも命を落とした。

本書は暖かい家庭を奪われた日本人ジャーナリストの、“妻たちの再出発”にあったさまざまなドラマを伝え残そうとしている。
目次

1968年8月22日サイゴン“ベトナム”たくさんの手紙を書き送ってきた夫—日本経済新聞社記者酒井辰夫の妻・酒井知子
1970年4月6日チプー“カンボジア”あと四日で帰国予定だった夫—フジテレビカメラマン高木祐二郎の妻・高木朝野
1970年5月10日カンポット“カンボジア”我が子に会うことができなかった夫—日本電波ニュース社カメラマン柳沢武司の妻・戸田三根
1970年10月28日国道二号線“カンボジア”「安全への逃避」を決してしなかった夫—UPI通信社カメラマン沢田教一の妻・沢田サタ
1979年3月7日ランソン“ベトナム”ベトナム語を駆使して取材活動をした夫—日本共産党機関紙「赤旗」記者高野功の妻・高野美智子

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地雷を踏んだらサヨウナ

2018年11月16日 10時27分13秒 | 医科・歯科・介護


―One Step on a Mine, It's All Over.―銀座 シネ・ラ・セット
監督―五十嵐 匠 プロデューサー―奥山 和由
CAST―浅野 忠信 Robert Slater Thorng Darachhaya 川津 祐介 羽田 美智子 Vo Song Huong Pinyo Janesomboon O-Pas Janesomboon 矢島 健一 市毛 良枝

 

1972年、内戦の激化するカンボジア。銃撃の飛び交う中、ニコンを携えてシャッターを押しつづける男。男は25歳のフリー・ジャーナリスト・一ノ瀬泰造。キャパや沢田教一に憧れて戦場カメラマンを志し、激動のインドシナ半島を駆け巡るうち、やがて解放軍の“聖域”〈アンコール ワット〉を撮影することにとり憑かれてしまう。

“うまく撮れたら、東京まで持って帰ります。もし、地雷を踏んだらサヨウナラ”と書き残した男は、死の直前、果たして何を目にしたのか……。

 

 一ノ瀬泰造といういい写真を撮りたいと突き進んでいく一人の人間の生きた時間を中心にその背景にあの時代を写しだせば違和感がないんだ。


クメール・ルージュの兵士が出て来たとき、あのストールをみてクメール・ルージュだと分かった人がどの位いただろうか?

それが何者であるのか・・・1972~73年という時代がどんな時代だったかなどという説明は語られずに話は進んでいく。この時代の背景を知っている人は、そうかそうかとうなずき、そして時代背景を貼り付けて一ノ瀬泰造の生き様に感銘を受ける。

知らない人は一ノ瀬泰造という人の生き様を通して、その時代の背景に触れていく。

そんな二極性をもつ作品なのではないだろうか。

一人の生身のコンバットカメラマンの背景に時代が貼りつけられているのだ。映画という限られた時間の中でベトナム・カンボジアで夢はせて写真を撮り続けたカメラマン一ノ瀬泰造という人と、26歳の人間としての一ノ瀬泰造の生き様がよく写しだされていると思いました。

なぜ、アンコールワットなのか・・・
何が彼を危険な道へとかりたてたのか・・・・
通信社の壁に貼られた沢田教一のピューリッツアー賞の”安全への逃避”の写真。
1972年というベトナム戦争の戦火が下火になってきた時代、フリーランスの道を行く青年。彼が心を通わせた子供たちの身の上や親友となったロックルーの身の上、クメールルージュの存在、聖地アンコールワット。アンコールワットの歴史・・・・。悲惨なものを見続け、遭遇しつづけて、カメラマンとして、最前線の決定的写真や死体や負傷者ではなく、撮影に成功すれば一獲千金というクメールルージュの聖地アンコールワットを撮影することで、カメラマンとしての夢の行き場を求めたのではないか?そして人間、一ノ瀬泰造の心の行き場を求めたのではないだろうか? そんな気持ちをおぼえました。

アンコールワットに続く道が写しだされて、エンドクレジットが流れ出したとき、その場にいた人たちはきっと、一ノ瀬泰造はアンコールワットにたどりつき、カメラはなかったけど、その眼のシャッターをきり、脳裏にやきつけたのだと、信じたいと思ったと思います。

友人や両親にあてた手紙を中心にまとめられた、原作本『地雷を踏んだらサヨウナラ』やこの戦争の背景を知ると、この映画の訴えてくる、平和であることの意義、生きることの意味を強く感じることができるような気がします。

一ノ瀬 泰造 
いちのせ,たいぞう
1947(昭和22)年11月1日生
1972(昭和47)年11月29日没
佐賀県武雄市出身

1970年 日本大学芸術学部写真学科卒(大学時代は趣味で4回戦ボクサー)
1970年 UPI通信社東京支局入社
1972年1月20日 東京国際空港を出発 インド、バングラディシュへ渡る
3月 カンボジアに入国 フリーの戦争カメラマンとして活動
7月ベトナム戦争を取材
 Nikon F2、Nikomat、Nikonos IIを愛用
4月12日 スワイトムでロケット弾の破片を浴び膝を負傷
8月 ベトナム入り
1972年 UPIニュース写真月間最優秀賞
1973年 4月一時帰国 11月23日 アンコールワットへ単独先行を試み、行方不明となる
1982年 2月1日 カンボジア・プラダック村で両親によって死亡が確認される
2月2日 シムリアップ省内の寺院で葬儀
2月4日 両親によって遺灰の一部がアンコールワット境内のガジュマルの木の下に埋葬される

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カンボジアで行方不明になったカメラマンたち

2018年11月16日 10時23分07秒 | 社会・文化・政治

ドキュメンタリー映画
『SAWADA サワダ』
監督―五十嵐 匠
CAST(証言者)
澤田サタ、ビーター・アネット、エディ・アダムス、ティム・ペイジ、グエン・ホエ他
沢田教一の声…根津甚八

当時のベトナム・カンボジアの映像と沢田教一撮影した写真を背景に証言者たちが沢田教一の生き方、心の動き、その時代のジャーナリズムのあり方を語っていくドキュメンタリー作品です。
その写真に触れたとき、心の中でなにかがぎゅっと握りこぶしをつくるのを感じます。
今でも『安全への逃避 Flee to Safety』『泥まみれの死 Dusty Death』の写真を見た時のはりつめた気持ちを憶えています。
安全への逃避に写っていた子供の当時をふりかえっての証言や、結婚のときのエピソード、写真から沢田教一という人を掘り下げて語られていきます
証言者たちが言う沢田教一がピューリッツアー賞をとってから、なにかに追われるような感じに変わっていったという言葉、死体を撮影するときの心のあり方、カメラを手に共に戦場で戦った仲間の戦火の中での異常な経験など、そして死亡が確認されるまでのことが語られていきます
先日、テレビで沢田教一のドラマ『輝ける瞬間』も放映されました。


<沢田教一>
1936年 2月青森県生れ、青森高校出身
1961年 UPI東京支局に入局
1965年 サイゴン支局に移り数々の激しい戦場写真を発表、世界的に知られる。「安全への逃避」で 第9回世界報道写真展大賞、1966年にピュリツァー賞、アメリカ海外記者クラブ賞、USカメラ賞を受賞。「泥まみれの死」「敵をつれて」が世界報道写真展1位、2位を独占。
1970年 カンボジア内国道2号線路上にて、同僚フランク・フロッシとともに銃弾を受けて殉職。
死後、ロバート・キャパ賞、勲六等単光旭日賞を受賞します。

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戦場で行方不明へなった記者、カメラマンたち

2018年11月16日 10時10分47秒 | 伝えたい言葉・受けとめる力

シリアの戦場取材中、銃弾を浴び死亡した女性ジャーナリスト・山本美香さんの取材活動をたたえ、山本美香賞なるものが創設された。それで思い出したことがある。

ニュージランド出身の女性ジャーナリスト、ウェブ・ケイトさんのことだ。

彼女はベトナム戦争さなかの1967年、初めてレミングトンタイプライター片手に南ベトナムに入った、女性ジャーナリスト第1号だった。

彼女は、初めはフリーランサーでUPIにニュースを送っていた。やがてUPIプノンペン支局長となる
ケイトさんは1971年4月8日、プノンペン郊外で取材中、北ベトナム軍に捕まった。

彼女の他5人のジャーナリストが捕まった。そのなかに、日本電波ニュースの鈴木利一記者が含まれていた。

彼女たちの行方不明のニュースは大騒ぎになった。中にはジャングルで殺された、遺体が見つかったなどの噂が広がった。
ニューヨークタイムズは死亡記事に加えて弔文まで掲載した。
夕方出発し、朝まで歩く夜間行軍が始まった。
ワイヤーでつながれた腕にワイヤーが食い込んだ。

尋問が始まった。名前、年齢、国籍など、とめどなく聞かれた。めまいがした。10回目だった。鈴木利一記者が私の足が化膿しかかっているのを手当てしてくれた。

逮捕されてから23日たち、わたしたちは奇妙な形で解放された。兵士が耳元で突然「さようなら」とささやき、ジャングルの中に消えていった。私たちは道路わきにたっていた。まわりには誰もいなかった。私はテレビのライトを浴びた。そして、私たちが殺され遺体が発見され遺族が葬儀まで行っていたことを知った。――――

ケイトさんはその後、インドのラジブ・ガンジー首相暗殺事件や東チモール紛争、フィリピンのマルコス大統領追放劇、湾岸戦争、ソビエトのアフガニスタン侵攻、香港の中国返還など、数多くの大事件を取材して、女性ジャーナリストとしてその名をジャーナリスムの世界にはせた。

ケイトさんは1985年からAFPに移り、2001年退職した。
AFPはケイトさんはもっとも勇敢な優秀な女性ジャーナリストだと称え、後輩のためにウェブケイト賞を創設した。

退職後、ケイトさんはシドニー近郊のハンターリバーに住んでいたが、2007年5月大腸がんで亡くなった。64歳だった。

ケイトさんは退職後も、アフガンの難民家族を引き取ったり、孤児を大学に入れたり、社会貢献を行っていた。

ケイトさんたちが北ベトナム軍になぜ逮捕されたかは不明だ。しかし、当時のカンボジア取材はすべて自己責任で紛争地域の取材を行うのは当たり前だった。

私もこのころ国道4号線ピクニル峠作戦を取材していた。いつの間にか、カンボジア政府軍の小隊の先頭に立って、政府軍に向かってカメラを回していた。いきなり背後から射撃された。夢中で道端に転げおちた。

助手にカメラを渡し、それに向かってレポートした。間一髪だった。すべてが自己責任だった。
(2013年7月7日記 田中信義 元NHK記者)
日本記者クラブ会報

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11月15日(木)のつぶやき

2018年11月16日 03時14分29秒 | 医科・歯科・介護
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畠山次郎先輩と徹

2018年11月16日 02時43分12秒 | 創作欄

畠山次郎先輩は彫刻家だけでは食べていけないので、赤坂のナイトクラブでトランペットを吹いていた。
高校時代は美術部と吹奏部に所属していた。
彼は生徒たちがもういない時間帯に体育館を背に一人でトランペットの練習をしていた。
その音色と旋律の響きは何故か物悲しくて、夜のしじまに溶け込んでいくように思われた。
徹は一人黙々と深夜の高校のグランドを走っていた。
駅伝選手として補欠のまま終われないと思っていたのだ。
その後、畠山先輩は大学ではアルバイトでトランペットのバッグンの演奏技術を腕を活かして、新宿歌舞伎町のキャバレーに出ていた。
徹は先輩の伝手で同じキャバレーでボーイとしてアルバイトをしていた。
新宿で騒乱事件が起きたころである。
「民衆に支持されない運動はダメだな」キャバレーのバイトを終えて帰宅する時、先輩は言っていた。
二人は小田急線の最終電車に乗るために足早に新宿駅に向かっていた。
「先輩、就職決まったのですか」と聞いてみた。
「就職はしない。彫刻でいく」先輩は口調と強めた。
「ええ!彫刻ですか」と徹は先輩の横顔を仰ぎ見た。
「ああ、男は人生の見果てぬ夢にかけないとな。徹は何を目指すのか?」
長身185㎝の先輩は徹を見下ろす。
「まだ、何も考えていません」それが徹の正直な立場だった。
「大学はあと2年だ。徹、真剣に考える時期だな」と肩に手を添える。

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新宿騒乱とは、1968年10月21日に東京都新宿区で発生した新左翼暴動事件。

事件が起きた10月21日は国際反戦デーにあたり、反戦運動諸団体はベトナム戦争に反対する集会を各地で開いていた。新左翼諸派も例外ではなく、1967年8月8日に新宿駅で発生した米軍のジェット燃料タンク車爆発事故を捉えて、「新宿米タン闘争」と称して新宿駅での暴動を計画していた。
この暴動では騒擾罪(そうじょうざい、現在の騒乱罪)が適用されたが、「騒擾罪をはねのけて闘うぞ」とアジるなど、始めから騒擾罪(犯罪)を覚悟しての犯行であった。
前日の20日、駅東口でベ平連・国際文化会議を中心とする街頭時局講演会が開かれ、作家の小田実らによる抗議運動が行われていたが、これはあくまでも順法的なものであった。
それに対し、新左翼の方は既に10月8日「羽田闘争一周年」の集会後、燃料タンク車の移動妨害のため中核派・社学同・ML派とともに新宿駅構内に侵入し、144人が逮捕される事件を引き起こしており、二度目の騒擾でもあった。
事件の概要[編集]
1968年10月21日、中核派・ML派・第四インターは、明治公園及び日比谷野外音楽堂で集会を行った後、角材等で武装しながら続々と約2000人が新宿駅に集結し、各所で機動隊と衝突した。
午後9時頃、デモ隊は新宿駅東口の広場で決起集会を開き、その後再度駅構内に乱入した。電車のシートを外して、それを薪代わりにして放火し、南口を炎上させた。
また、停車中の電車や信号機など駅施設に投石を繰り返した。
騒ぎはデモ隊の何倍もの数となる野次馬が2万人も集まり拡大化し構内は破壊された。新宿駅に接続する国鉄などの交通機能が麻痺状態に陥り、約150万人の通勤や通学などの利用客が影響を受けた。



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