スカイフォール

2012年11月04日 | ショートショート



日本人で初めての航空事故生還者は、相原四郎海軍大尉である。
1909年12月5日、旧制第一高等学校キャンパスにて、フランス人ル・プリウールと相原四郎海軍大尉によってグライダー実験がおこなわれた。これまでにも飛行実験を繰り返し変人扱いされていたル・プリウールが、同じ青山に住んでいた相原に初めて会ったとき、彼は妻子そっちのけで紙飛行機飛ばしに夢中になっていたという。
すっかり意気投合した二人は複葉グライダーを製作した。相原はル・プリウールを物理学教授田中舘愛橘にひきあわせ、愛橘は学長新渡戸稲造に飛行機開発の重要性を力説、一高での実験の快諾を得た。
凧揚げの原理でロープを引くと無人のグライダーは軽々と浮き上がった。学生たちからどっと歓声があがった。
「これなら、人が乗っても飛ぶぞ」
早速ル・プリウール、相原が搭乗するが今度は地面を離れない。
「体重の軽い、子どもなら?」
ル・プリウールの一言で、顔見知りの八百屋の息子が名乗りをあげた。
「操縦桿をしっかり握っておくんだぞ。それ!」
グライダーはふわりと3メートル近くも浮上した。
「ぼくも!ぼくも!」
子どもたちがグライダーを囲んだ。
日本で初めて飛行機で空を飛んだのは、二十数名の子どもたちである。
その四日後、再び飛行実験がおこなわれた。より広い場所として不忍池の池畔が選ばれ、グライダーは自動車によって牽引された。
かくしてル・プリウールが搭乗したグライダーは100メートル以上の飛行に成功したのである。日本初、アジア初の快挙に、集まった三千人の大観衆が喝采を送った。その中には、後日、日本人初の動力飛行を成し遂げる徳川好敏と日野熊蔵の姿もあった。
次に、相原が操縦桿を握り機が浮上した途端、事故は起きた。20メートルの高さから一気に機首を下げ真っ逆さまに墜落したのである。白い尾翼が不忍池の泥水に突き刺さった。
「相原大尉!」
一同水面を見守る中、ずぶ濡れの相原が浮上した。奇跡的に無傷であった。
リリエンタールが墜落死したのは15メートルの高さからである。墜ちた先が池でなければ生命はなかったであろう。

翌年3月、航空技術習得のためにドイツ視察を任ぜられた相原は、ドイツに渡り気象学や航空操縦法を学んだ。
翌1911年1月4日。同乗していた飛行船の墜落事故によって負傷した相原は、事故から四日後に三十一歳で客死した。
日本人で初めての航空事故犠牲者は、相原四郎海軍大尉である。



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