人生の目的は音楽だ!toraのブログ

クラシック・コンサートを聴いた感想、映画を観た感想、お薦め本等について毎日、その翌日朝に書き綴っています。

新国立オペラ「ニュルンベルクのマイスタージンガー」 ⇒ 中止 / 門井慶喜著「銀河鉄道の父」を読む ~ 頭は良いがどこかダメ息子である宮沢賢治の父親の物語

2020年05月10日 07時18分30秒 | 日記

10日(日)。新国立劇場のホームページによると6月21日~30日に「オペラパレス」で開催予定の新国立オペラ「ニュルンベルクのマイスタージンガー」は中止となりました 併せて、6月14日~17日に「東京文化会館」で開催予定の同公演も中止となりました。出演歌手陣のほとんどが海外からの招聘なので、新型コロナウイルスの感染が世界に蔓延している状況下ではやむを得ないでしょう これにより、新国立オペラ2019-2020シーズンは全10作品のうち半数の5作品が中止となりました この分だと、6月中に11公演聴く予定の「サントリーホール  チェンバーミュージック・ガーデン」も開催が怪しくなってきました いったい、いつになったらコンサート中止ドミノは終わるのか

ということで、わが家に来てから今日で2048日目を迎え、トランプ米大統領は8日、ケイティ・ミラー副大統領報道官の新型コロナウイルス感染が確認されたと明らかにしたが、トランプ氏は同日、週1回だった検査を毎日受ける意向を明らかにした  というニュースを見て感想を述べるモコタロです

 

     

     トランプは新型コロナウイルスも顔負けの猛毒を持ってるから感染しないと思う

 

         

 

門井慶喜著「銀河鉄道の父」(講談社文庫)を読み終わりました門井慶喜は1971年群馬県生まれ。同志社大学文学部卒。2003年「キッドナッパーズ」で第42回オール読物推理小説新人賞を受賞しデビュー 2016年「マジカル・ヒストリー・ツアー  ミステリと美術で読む近代」で第69回日本推理作家協会賞(評論その他の部門)を受賞、18年に本作「銀河鉄道の父」で第158回直木賞を受賞

 

     

 

最初に結論を書きます。最近読んだ本の中で最も面白い本でした

主人公は宮沢賢治の父・宮沢政次郎です。実家は質屋兼古着屋を営む地元でも有名な商家で、政次郎は町会議員も務める名士です 息子・賢治は幼少の頃から頭が良く、学校の成績は全て「甲」(オール5)という秀才です そんな賢治は病弱な面があり、幼いころ赤痢で入院します。一般の家庭では母親が病院でつきそうのが常識でしたが、政次郎は自ら病院に寝泊まりして看病するのです 過保護ともいえる態度に、政次郎はその父・喜助から「お前は、父でありすぎる」と苦言を呈されてしまいます 本人も「子供のやることは、叱るより、不問に付すほうが心の燃料が要る」と考えています。彼は賢治に店を手伝わせますが、商売っ気がなく何の役にも立ちません 本当は質屋を継がせたいのですが、それを言い出せず、「時代が違う」と自分に言い聞かせて進学を認めます 賢治は学校の成績は良かったものの、その後は製飴工場を造ると言い出したり、イリジウム採掘に夢中になったりして、そのたびに父の資金援助を当てにして政次郎を悩ませます そうかと思うと宮沢家の宗教とは異なる宗教にのめり込んで、家を出て政次郎を心配させたりたりもします 困った息子ほどかわいいものなのでしょう。政次郎は悪態をつきながらも、つい甘やかして彼を支えます そして賢治は「春と修羅」を世に出しますが、政次郎は息子の才能を確信することになります

この小説が面白いのは、ユーモア精神が横溢しており、父親に尊厳がある明治時代の物語なのに、明るく楽観的な父親像が描かれているからです そして文章上の大きな特徴は、独特のアクセントです 一例を挙げると、次のような文章があります

「またしても夕食どきである。この状況での家族会議には、やや、

(飽きた)

という気もしつつ、ともかく政次郎は、

「賢治」

食事をやめさせ、菊池校長の話をかいつまんで伝えて~」

この文章は普通の書き方をすると次のようになります

「またしても夕食どきである。この状況での家族会議にはやや飽きた、という気もしつつ、ともかく政次郎は、「賢治」と、食事をやめさせ、菊池校長の話をかいつまんで伝えて~」

著者は( )内の言葉を独立させることによって、その言葉を強調するとともに、ユーモアを与えているのです この手法が随所に出てきます。これは門田氏特有の文体だと思います

父親の立場から書かれたこの小説を読むと、宮沢賢治に対して抱いていたイメージが相当変わります 宮沢賢治と言えば、「アメ二モマケズ カゼ二モマケズ・・・」の厳格な人間像を思い描きがちですが、頭が相当良い割にはダメ人間なところがあり、親近感を覚えます

この小説の最後に、賢治の死の2年後、政次郎が孫たち(賢治の妹シゲの子)に詩「アメ二モマケズ カゼ二モマケズ・・・」を読んで聞かせた後、「これは伯父さんが病気のとき、ふとんの上に正座して、手帳に書いたものなんだ。そのときは私も『病気に負けず、人間として完成したい』というような道徳的な意味だと受け取ったんだが、いまは違う しかつめらしい話でねぇべ。伯父さんはただ、鉛筆を持って、ことばで遊んでただけなんだじゃい」「だってそうでねぇが。雨にも負けず、風にも負けずなんて見るからに修身じみた文ではじまって、誰も文句のつけようがない立派なおこないばかり書きつらねたと思ったら、最後のところで『私はなりたい』。なーんだ、現実にそういう人がいるって話じゃなかったのか。ただの夢じゃないか こっちは拍子ぬけってわけだなハ」と語ります

私はこの詩を小学校で習ったのか、中学校で習ったのか忘れましたが、たしか道徳的な意味合いで習ったように記憶しています 今あらためてこの詩を読むと、たしかに個人の願望を言っているに過ぎないように思えます しかし、筆者は賢治に次のように言わせています

「おらはこれまで、口先だけの人間でした。詩人としては生きることの苦しみを書きつらね、教師としては『立派な農民になれ』と子供たちを叱咤してきた んだどもおら自身、ちっとも農民の苦しみを知らなかったのす。いまこそ、体で知らなければ

そして農学校の教師を辞め農業と文筆業に専念します こうしたことを考えると、賢治は実際に「アメ二モマケズ カゼ二モマケズ・・・」という生き方をし、それを全うしようと努力していたのだと思います

「直木賞」に恥じない、とても面白く 読み始めたら止まらない小説です。強くお薦めします

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