昨年5月から透析を始めて以来、火・木・土の週3日は病院通いのため、好きな旅行も日帰り旅行に限ってきましたが、すでに1年以上経過していることでもあり、そろそろ日・月の連休(?)を利用して、一泊旅行も可能ではないかと思い始めていたところ、馴染みのT旅行社から格好の旅行プランの案内があり、 日程的にも、9/25(日)~26(月)と非透析日に当たっていたため、申し込んだ次第です。
しかし、最近は透析後の脱力感が顕著なため、いかに非透析日であっても、2日連続で、しかも出かける日は早朝だし、帰る日は夜半近くになることもあって、体力が持つかどうか、最後まで心配で、よほどキャンセルしようかとも思いましたが、ここで行かなければこの先益々出づらくなるのは必至なので、えい、ままよ、と決心した次第です。
白川郷も高山も金沢も、初めてではなく、そのため旅に出るわくわく感は特に湧かなかったものの、今回は私の体力テストが主目的なので、その意味では絶好の試金石となろうと、勇躍出発した次第です。
金沢には、旧友がおり、私が宿泊するホテルまで来てくれるというのも背中を押したひとつでした。
1日目
初日(9/25)は最寄り駅を5時12分に乗るため、起床がなんと3時半でした。朝食もそこそこに出かけ、東武野田線・つくばエクスプレス線・京浜東北線・京急線と電車を乗り継ぎ、7時33分、羽田空港国内線ターミナルに着き、集合時間の6時40分に辛うじて間に合いました。
ところが、我々の乗る筈の7時15分のJAL183便の機体が油圧装置の故障で急遽他機に変更になったため、その準備のため、時間がとられ、出発したのはちょうど1時間遅れの8時15分でした。
9時15分、小松空港に着き、観光バスに乗り換え、9時35分、まずは白川郷に向けて出発、北陸自動車道を左に日本海、右に白山連峰を臨みつつ進み、一旦、小矢部川SAで小休憩後、東海北陸自動車道を一路南下、11時20分、最初の目的地である白川郷に着き、まずは昼食場所に案内されました。南の村はずれにある「お食事処 忠兵衛」で、ここが唯一団体客を受け入れる食事処らしく、大広間に他団体の分も含めずらりと料理が並べられていました。料理は「飛騨牛焼き味噌御膳」と銘打つもので、他のものはともかく、さすがに飛騨牛は美味しかったです。
白川郷は1995年に世界文化遺産に登録され、歴史と伝統が息づく合掌造りの集落は、日本だけでなく、海外の人にも人気の観光スポットになっているとのこと。実際、外国人の観光客が多いのには驚きました。観光客の半数は外国人だったと言っても過言ではありません。
ここを約1時間にわたって自由観光しました。見どころのうちいくつかをご紹介しましょう。
であい橋
集落の東西を分かつ庄川にかかる吊り橋で、どうということのないシンプルな造りですが、かえってその素朴さゆえに周囲の環境に良く溶け込んでいる感じで、何ら違和感なく、対岸に向かうことができます。吊り橋であるが故の揺れも、危険を感じさせない程度のもので、これから観光に向かうわくわく感とよくマッチしていました。
三連家屋
合掌造りの家屋が3軒並んでいることから、ベストショットの場所として人気があるようです。 なお3軒とも今は民宿になっています。
明善寺
創建は1748年。荻町合掌集落の北側に位置し、本堂・庫裏・鐘楼門とすべての屋根が茅葺きという、珍しい合掌造りの寺で、境内には村指定重要文化財の本堂と県指定重要文化財の庫裏・鐘楼門、県指定天然記念物のイチイの木があります。
それにしても、実にユニークな鐘楼と、古さを感じさせるイチイの木か印象的でした。
長瀬家住宅
1890(明治23)年築。長瀬家5代目当主の、長瀬民之助が建てさせたもので、樹齢150~200年のヒノキや、300~350年の栃(とち)などの巨木を利用し、5階建てという白川郷でも最大級の合掌造りの家となっています。
平成13年に屋根を葺き替えたときには、NHKが1年にわたってその準備から葺き替えまでを記録し、NHKスペシャルとして放送したとか。そう言えば、私もそれを見たような記憶があります。
神田家住宅
長瀬家と道路を挟んだ西側にあり、約200年前に能登から宮大工を呼んで建てられたといわれています。広大な敷地内には「母屋」をはじめ、水車を使って米や雑穀を精製した「唐臼小屋」、収穫した米や大切なものを保管する「稲架倉」に「水神さま」が建っています。これら敷地内の農業設備が、白川郷での伝統の生活を物語っています。
もっと奥まで行けば、国の重要指定文化財である和田家住宅があるのですが、散策時間が当初90分のところ、飛行機が1時間遅れたため、その調整で60分に短縮を余儀なくされたため、そこまで行く余裕がなく、諦めた次第です。
次いで東海北陸自動車道から飛騨清見で中部縦貫自動車道に入り、14時過ぎ高山市に入りましした。白川郷から約1時間の行程でした。
ここでは、高山別院を起点に105分のフリータイムを各自自由散策したわけですが、当初予定では150分のところ、やはり飛行機の1時間遅れを取り戻すべく、45分カットのやむなきに至りました。
飛騨高山の見どころは、なんといっても古い町並みで、昔の建物や飾りがそのまま残る情緒豊かな通りとなっており、特に上三之町通りは古都の雰囲気をそのまま残す町並み で小京都とも呼ばれるほど国内屈指の人気スポットになっているようです。ここでも外国人観光客が白川郷にも勝るとも劣らぬくらい多く、目を惹きました。
そして、名物の飛騨牛寿司やみたらし団子の店の前では列をなすほどの人気ぶりでした。
上三之町通りを南に抜けると、朱塗り欄干の中橋が見えてきました。ここは、春の高山祭(山王祭)期間中における、屋台が中橋を通る姿をとらえた写真などで有名なところ。周辺は桜や柳の木が並び、飛騨高山のシンボルとして観光名所のひとつになっているようです。
中橋を渡ると、高山陣屋があり、近くに若き日の山岡鉄舟の像がありました。
高山陣屋は、江戸時代に飛騨が幕府直轄領となってから、支配の拠点となった役所。
郡代役所の主要建物が残っているのは全国でもここだけとのこと。ここでも外国人の団体が見られました。
山岡鉄舟の像があるのは、父親がここの郡代をしていたため、少年時代をここで過ごした由。 意外なところに新しい発見がありました。
陣屋跡を後に再び中橋を渡って戻りかけると、前方に和洋折衷の立派な建物が目に入りました。高山市政記念館で、今では高山市の行政資料を保存および展示する資料館になっています。
資料によると、元々は、高山町役場として明治28年に完成しており、棟梁は当時の名工坂下甚吉とのこと。
1936年(昭和11年)11月からは、高山市役所となり、1968年(昭和43年)まで市役所として使用していました。
その後は公民館として利用されていたものを、修理、整備し、1986年(昭和61年)に市政記念館としてオープンしました。
ここでは、高山市の前身である高山町、旧高山市を含む現在の高山市までの行政資料を所蔵し、市政の移り変わりをパネルや写真などにより紹介しています。なお、高山市は、東京都がすっぽり入るくらいの広さで、今や面積では日本一大きい市である由。
和洋折衷の2階建てであり、建築材は総檜で、最高の官材を使用しており、ガラスも高山では当時初めて導入され、硝子障子という名称で各所に使われているとか。
高山での観光を終え、16時ちょうどに出発、往路と同じルートで金沢へ。途中、17時21分、スマホで大相撲千秋楽の番組を聴いていると、豪栄道全勝優勝!のアナウンサーの興奮した声が耳に飛び込んできた。
18時15分、宿泊先である金沢駅西口近くの「金沢マンテンホテル駅前」に到着。 よかった!地元のの元同僚のM君との待ち合わせ時間に間に合った!すでにM君はロビーで待っていてくれた。
この夜は、チェックインを済ませ、一旦部屋に入り、荷物を置いた後、M君と旧交を温めるべく外出した後、20時30分に戻り、初日の日程を終了した。
2日目
この日は18.40分までに小松空港に自力で行くまで全くのフリータイムである。
昨日は朝が早かったので、本日はゆっくり起き、さして食欲もないので、朝食は持参した菓子類で済ませる。
さて、本日の予定であるが、午後は市内巡りの観光バスを3日前に予約してあるので、午前中は駅周辺の見どころを周ることとし、9時50分にチェックアウト、小雨がパラパラと降り出す中を、まずは金沢駅に向かい、駅のコンコースを通って東口に出ると、そこには北陸新幹線の開業に伴いリニューアルした「金沢駅」がありました。金沢には過去に数度訪れていますが、その変わりようには、まさにビックリポンでした。
実際に間近でみると、「鼓門(つづみもん)」の威風堂々とした門構えと、「もてなしドーム」と言われるガラス張りの天井アーチは、まるで巨大なオブジェのような佇まいです。
そこに表現されているのは、加賀藩以来、伝統と芸能を大切にしつつ育まれてきた「おもてなしの心」と、アートを愛する金沢の未来へ挑戦ともいえましょう。右写真は裏側(ドーム内)から撮ったものです。
さすが、世界で最も美しい駅14選に国内で唯一選ばれたのも諾なるかなと感じさせるに十分なものがありました。
次いで同じく東側駅舎前に転がっている巨大なやかん。 実はこれ、市内の目抜き通りに設置するアートを選ぶ「金沢・まちなか彫刻作品・国際コンペティション2006」の最優秀作品で、作品名は『やかん体、転倒する。』というものとか。傾いたフォルムが実にユニークで、見る人の意表を突いた作品になっています。
次に訪れたところは、ガイドマップにも載っていないような名所(?)で安江八幡宮という神社。迷いつつも道々人に尋ねながら、どうにか見つかりました。
ここは今から約1100年前、祭神に古代日本の文化に偉大な功績のあった応神天皇のほか、神宮皇后・玉依姫を祀った名社とのこと。境内も結構広く、神々しさを感じさせる佇まいでしたが、一人の参拝客とも出会いませんでした。
さて、昼近くになったので、食事場所を求めて駅前の「FORUS金沢」というビルに入り、6階に食堂街があるのを確認し、物色した末、とんかつ専門店の「富金豚」 という店に入り、当店おすすめの「切り落としカツとメンチカツ」
を食べました。 揚げたてだったので美味でした。特にメンチカツはジューシーで今までにない絶品でした。
さぁ、お腹も膨れたところで、観光バスによる金沢めぐりです。当初は1日フリー切符を買って路線バスによる自力での観光を考えましたが、雨の多い金沢で、各所でバス待ちするのも、面倒なので、常にバスが待機してくれている観光バスのほうが効率的と思い、決めた次第です。
観光バスは2台出るほどの盛況ぶりで、私は2号車でしたが、2座席を一人で使えたので、快適でした。13時30分、駅東口前を出発、まずは兼六園方面に向かいました。途中、右手に壁一面に格子をはめたような茶色のビル が目に留まりました。何とこれは市役所のビルでした。その外観から俗称「刑務所」と呼ばれているそうです。さもありなん。
やがてバスは兼六園の桂坂下に到着、 ここで、一旦解散し、各自1時間の個別行動が与えられました。周辺には金沢城公園や金沢21世紀美術館があり、どこを周ろうかと迷いました。21世紀美術館は、いま日本で最も入場者数が多い美術館と言われており、私もまだ入ったことがないので、魅力的でしたが、あいにく月曜日は休館日でしたので、結局最もポピュラーな兼六園に入りました。65歳以上は無料というのにも釣られました。
兼六園は、加賀百万石前田家の庭園として造られた特別名勝で、水戸の偕楽園、岡山の後楽園とともに、日本三名園の一つに挙げられているのはご存知の通りです。ほぼ現在の姿に造園されたのは13代藩主斉泰の時代で、「兼六園」の名は宋代の詩人・李格非が書いた「洛陽名園記」に由来し、宏大・幽邃(ゆうすい)・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園として命名されたと伝えられています。 四季折々の自然と、代々の藩主たちによる絶え間ない築庭の妙が織りなす景観は、屈指の美しさと雄大さを生み出しています。
生憎、紅葉にはまだ早く、美しさはいまいちでしたが、緑に包まれ、心和む散策ができました。
次いで再びバスに乗り、10分余り行って止まったところは、長町武家屋敷跡近くの駐車場でした。
主道路から折れて細い濠を渡ると、ここは、加賀藩時代の上流・中流階級藩士の武家屋敷が軒を連らね、土塀と石畳の路地が続いているところで、藩政時代の情緒ある雰囲気を漂わせていますが、願わくはこういう所は少人数で歩きたいもの。我々ツアー客以外にも、外国人客が多く、いささか風情倒れでした。
武家屋敷跡を後に次に向かった所は、市の南東のはずれにある天徳院でした。
ここは、加賀3代藩主、前田利常公が正室珠姫の菩提のため、元和9年(1623年)に金沢城の東にあたる小立野台に創建したもの。 加賀百万石の危機を救うとともに繁栄に尽くした珠姫は、今も金沢市民に敬愛されており、その生涯を描いたからくり人形を1日4回(各30分)上演しています。我々は16時からの上演を見たわけです。
IT時代の現代においては、やや物足りなさは否めませんが、供侍の変身ぶりには目を見張るものがありました。
天徳院を後に、最後の目的地、ひがし茶屋街に向かいました。
東茶屋街(ひがしちゃやがい)は金沢百万石の城下町の風情を現在最もとどめている街の1つです。金沢市には三箇所の茶屋街があり東茶屋街の他ににし茶屋街、主計町茶屋街があります。東茶屋街はそのうちでも最大規模を誇り、現在でも8軒が営業していて、芸子さんや芸者さんが20名ほどいるそうです。町の通りには、和服姿の女性が見られ、昔からの景観とあわせてなんとも言えない雰囲気があります。金沢の町割りが進む中、文政3年(1820)に茶屋と呼ばれる遊郭を整備したのが始まりで「東廓」などと呼ばれ歓楽街として栄え、時には文化人達の社交場にもなったそうです。茶屋様式と言われる格子窓の建物が軒を連ねる、町並みは江戸時代当時をよく伝えており文化財にも指定されている由。あいにく雨となり、傘をさしての散策観光となりましたが、かえってしっとりとした風情が感じられたので、よかったかも。
ひがし茶屋街を最後に、バスが、金沢駅東口に戻ったのは、17時25分でした。下車後、大急ぎで駅のコンコースを走るようにして西口に移動し、そこから出る17時30分発の小松空港行きシャトルバスに飛び乗り、金沢に別れを告げました。
次の18時15分発でもよかったのですが、不案内なところであり、それに空港で軽食くらいは摂りたいので、余裕をもって早めに空港に着きたかったのです。
金沢東ICから小松ICまで北陸自動車道を西に向かい、小松空港に着いたのは18時15分でした。
直ちにチェックインを済ませ、リュックも預けたので身軽になったところで、あまり食欲はなかったが、帰宅が遅くなるので、何か食べておこうと、適当な店を物色したところ、1店だけぴったりのが見つかりましたので、 そこで軽食を摂りました。
狭いところですが、結構雰囲気がよく、ここでしばし疲れを癒しました。えっ!何を食べたかですって?それは、野菜たっぷり入った、文字通りのベジタブルサンドでした。
羽田からの到着便が遅れたとかで、17時45分発のJAL192便が10分遅れとなりましたが、21時04分、無事羽田空港に到着、Luggage Sircuit でリュックを受け取った後、往路と同じルートで電車を乗り継ぎ、帰宅したときは23時10分になっていました。
以上で拙い旅行記を終わらせていただきます。なにしろ、出発日は3時半起床で、帰着日の就寝は日付も変わった1時でしたので疲労困憊でしたが、何とか達成できたのは自分にとって大きな収穫でした。
以上
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