野口敏夫プライベートブログ

私の周りで起こった出来事や日頃思ったことなど個人的で気ままなブログとなっています。

館林ハイキング

2016-05-03 21:44:15 | 旅行記

          館林ハイキング つつじ & こいのぼり

 今回は、ゴールデンウイークの谷間にあたる5月2日、馴染みのT旅行社の添乗員であり本ツアーの企画者でもあるTさんに誘われ、「館林ハイキング・つつじ・こいのぼり」のツアーに参加してまいりました。

 天候は予報通り終日曇天でしたが、夏日になるとの予報に反して、暑くなく寒くもない心地よい気候でした。

 東武アーバンパークラインで春日部まで行き、ここで東武が誇るスカイツリートレインで浅草から来たツアー一行と合流し、11時34分、館林駅に着きました。

 館林駅で改札を出ると、館林市のゆるキャラのぽんちゃんを中央に駅長さんはじめ駅員の皆さんがずらり並んで横断幕を掲げ歓迎のお出迎えをしてくれました。 

 まずは地元のボランティアガイドさんの案内で街なかを散策しました。館林は徳川四天王の一人、榊原康政や5代将軍徳川綱吉公のゆかりのある城下町であり、街なかには歴史的風情にあふれた建物や、貴重な文化財が今もなお点在している由。

 駅を出て振り返ると、新旧二つの駅舎が見えました。左側の建物が旧駅舎で、右側のが新駅舎です。駅の開設は明治40年で、当初は蒸気機関車でしたが、昭和2年に複線化されると同時に電気機関車となるなど、館林の近代化の一端を担ってきており、駅舎は昭和12年の増改築を経て、平成21年、橋上駅舎および東西連絡通路が完成し、現在に至っているとか。
 なお、旧駅舎は平成10年に関東の駅百景にも選ばれているそうです。

 街なかを歩き始めて最初に立ち止まったところが青龍神社です。
 江戸時代、この周辺には福寿院というお寺があり、その境内にあったという井戸で、伝説では、第六代館林城主の徳川綱吉公の時代に、突然、清水が噴き上がり、中から女官姿の青龍権現が姿を現したことから「青龍の井戸」と呼ばれるようになったとか。

 次に見学ストップしたところは、旧二業見番組合事務所で、二業とは芸者さんの置屋と料亭のことで、見番はそれらの取次ぎや料金の精算、取り締まりをしたところです。1階は事務所、2階は芸者さんの稽古場であった舞台付き36畳の大広間があるとのこと。現在は本町二丁目東区民会館として地域のかたに利用されているそうです。この二業見番は、木造建築物として全国で数か所しか残っておらず、非常に文化的価値が高い建物だそうで、平成28年に国の登録有形文化財に指定された由。
 内部は現在観光用に改装中とのことで、見られなかったのは残念ですが、屋根等に特徴があり、印象に残る造りでした。

 次のストップポイントは鷹匠町長屋門です。ここは、旧野辺町(三野谷)の豪農「松沢家」が使用していた長屋門の梁や柱等の古材を活用して、武家屋敷長屋門として、平成21年に新たに生まれ変わらせたもの。長屋門は武家の屋敷門の一つで、鷹匠町にあり、長屋の間に門があることから鷹匠町長屋門といわれており、門の両側の部屋は使用人の部屋や物置として使われていたそうです。

 次に訪れたところは武鷹館。長屋門を入ったところにあります。ここでは専門のガイドさんが説明してくれました。江戸時代、この周辺は鷹狩用の鷹を飼育する鷹匠が住んでいたことから鷹匠町と呼ばれており、この鷹匠町にある武士の住宅ということで「武鷹館」と名付けられた由。この武鷹館には、400石取りの旧館林藩士住宅、長屋門、付属住宅が整備されており、特に館林藩士住宅は県内でも珍しく、平成11年に館林市指定重要文化財となっているとのこと。
 下の写真は、左から台所・客用玄関・客間です。台所を挟んで居間と客間があり、動線を考えた造りになっています。それにしても案外質素なものですね。
    

 まだまだ街なかには見どころが多数あるようですが、ここで昼食タイムとなり、佐野竹田線(県道)に面した「うどん本丸」にて館林名物のたてばやしうどんを賞味しました。麺好きの私には打って付けの昼食でしたが、欲を言えば、量がもう少しほしかったですね。でも、珍しいナマズの天ぷらまであり、満足のいくものでした。
  

 ここは相当有名なところとみえ、我々は3Fの団体専用室で食べましたが、1Fの個人客用の食事室は満杯で、椅子に座って待っている人が大勢いるのには、いくら昼時とはいえ、驚きました。
    


 次いで、館林市第二資料館という所に立ち寄りました。ここは、館林の歴史的建造物等を移築して整備したもので、敷地内には旧上毛モスリン事務所や田山花袋旧居があります。
 旧モスリン事務所は明治41~43年にかけて建てられた擬洋風建物で、上毛モスリン株式会社の事務所として使われていたそうで、昭和53年に県の重要文化財に指定されたとのこと。
 一方、田山花袋旧居は、明治末期から大正にかけて自然主義文学に一時期を画した田山花袋が少年期(7歳から14歳)を過ごした家で、江戸時代の小規模な武家屋敷の一つであり、こちらは昭和46年に館林指定史跡に指定された由。座敷には、座り机や針箱などのほか、珍しい箱火鉢が見られました。 

 鶴生田川にかかる尾曳橋を渡って、いよいよ城沼の南側に広がる37haにも及ぶ広大なつつじが岡公園に入りました。残念ながら、ここのメインである山つつじの盛期は1週間前だったそうで、その後雨が降ったため、あまり残っていないとのことでしたが、ここには、何しろ古木名木50品種以上約10,000株のツツジが植栽されているということですから、まだまだ見応え十分でした。
 ここは自由散策ということでしたが、館林市の観光課の職員の方がガイドしてくれましたので、その人の後について歩きました。
 私はつつじはもとより花の知識には疎いので、一つ一つの説明はできませんが、目立ったものを写真に収めてきましたので、以下にご披露する次第です。
 珍しいものとしては、推定樹齢800年を誇る「勾当内侍遺愛(こうとうないしいあい)のつつじ」を始めとする、つつじの古木群や宇宙飛行士の向井千秋氏(館林市出身)が宇宙へ持って行った種子を発芽させた「宇宙つつじ」が植生していたもの、また古木の中には根にまで開花しているものがあり、印象に残りました。
        
       
        

  
 つつじが岡公園を後に再び尾曳橋を渡って対岸に戻ると、そこに立派な平屋建て住宅が見えました。これは最後の館林藩主秋元家が別邸として所有していた建物(旧秋元別邸)で、明治末期から大正初期に建てられたと考えられています。主屋は木造平屋建て・瓦葺きの入母屋造り、離れ座敷の洋館は昭和初期に東京の本邸から移築されたものだとか。和風建築と洋館の調和が美しい和洋折衷の建物で、近代和風建築の様式を知る代表的な建物だそうです。

 更に鶴生田川沿いに南に歩いていくと、やがて ふれあい橋 と 二の丸橋 の間に無数のこいのぼりが川越しに架けられているのが見えてきました。聞けば、その数2000個とか。まさに圧巻でした。
    

 これで、城沼から続く鶴生田川に別れを告げ、一路、三々五々、街なかを通って駅に向かいましたが、その行程の遠く感じられたこと!

 20分余りで、やっと駅に着きましたが、これで終わりではありません。跨線橋を通って西口に出ると、そこに最後の訪問先である製粉ミュージアムがありました。
 この施設は日清製粉クループの歴史と伝統を紹介する本館、最新の製粉技術をはじめとして小麦・小麦粉の様々な情報を紹介する新館、気軽に憩える日本庭園を配しており、製粉の歴史と先端技術に触れ、楽しめるようになっていますが、皆さん、疲れからか、見学もそこそこに休憩室に入っていく人がほとんどでした。
 私も、創業者であり、美智子妃の祖父でもある正田貞一郎氏の生い立ちと業績を紹介するビデオに一時足を留めたくらいで、あとはさっと眺めただけでした。とにかく疲れて早く座りたかったです。

 ちなみに、今回の歩行距離は約7kmで、距離的には大したことありませんが、いろいろと見学・見物しながらでしたので、それだけ疲れが増したのでしょうね。

 以上で、館林でのすべての日程を終え、18.16発の特急りょうもう40号で帰路につき、往路と同じルートで帰宅した次第です。

 鉄道で旅することは、バスに比し、乗り心地がよいことのほか、現地に早く着くので、その分時間が有効に使え、より充実した内容の濃い観光ができるので有難い限りです。

 最後に、この度を企画・引率してくれたTさんに敬意を表するとともに、案内役として終始付いていてくれた県並びに市の職員のお二人に御礼申し上げ、この稿を閉じさせていただきます。

                               以上
                                                 
 
 


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