ブログ・ヤコブの梯子

天と地の仲介者、素盞鳴、イエスは、ヤコブの梯子。
相反するものを和合する、すべてに当てはまるプロセス。

この神示八通りに読めるのじゃ。

2017-07-15 08:42:44 | 思想哲学
「この文は、八通りに読めるのぞ」

確か、日月神示に、このように書かれていたと記憶しています。
本は持っていますが、どこに書いてあったか記憶をたどっている暇がない。

これをもう少し詳細に解釈しますと、
「神示やメッセージは、その横八通りの立場で、それぞれに解釈できる。
その意識七段階、経て七通りの理知段階で、それぞれに理解できる」
と言うことです。

日月神示も、生命の鍵の尺度を当てはめて解釈すると、多くが理解できてきます。
当然地球人類発祥当時から有る、宇宙普遍の真理だからです。

なんという偶然か、この論考をここまで書いて、また拾い読みしてみようと思い立ち「ひふみ神示」の分厚い本をパラパラと開いた最初のページになんとそれが記されていたのです。
いきなりこんな偶然って、本当にあるんだなと驚いています。

この本は「日月神示」ではなく、「ひふみ神示」太陽出版で「第十五帖」556P

〔前略…七つの花が八つに咲くぞ、この神示八通りに読めるのじゃ。
七通りまでは今の人民でもなんとか判るなれど八通りまではなかなかぞ。
一厘が隠してあるのじゃ。
隠したものは現れるのじゃ、現れているのじゃ。
何でもないことがなかなかのことじゃ、解りたか。〕

七通りは、いわゆる「ヒフミヨイムナ」です。
ですから「ヤ」八番目から「八百万の神々」の、無限の展開に入ります。

「ヒフミヨイムナ」の創造原理を知って、照応させることまではなんとかできるが、八番目からの「現れている、何でもないこと<現実万象>を正確に測り、そこから悟ることは」なかなか難しいことなのでしょう。

「ヒフ、ミ、ヨ、イ、ムナ」「ヤコト」

七通りまでは、その創造の真理からの解釈。
八通り目は、総合した洞察力、足元をしっかり直視した「客観的かつ公平無私なる批判」の思考性と言えるでしょうか。
自分と言う、固定された立場を一度離れて、多角的に観察する。
または、八方向からの洞察力。
または、七段階総合した思考性。
(3=1)流動思考性。

つまりそれまでの意識段階、およそ6段階までは、<各段階の立場だけから判断>します。
7段階から(3=1)流動思考性に気が付き始め、8段階目に融合した<感性>を獲得するとも言えます。

神示、メッセージ、結果現実の物事、これらすべてを多角性から総合した観察力が「八通り目」とも解釈できます。

地球上の三脳分離機能生物からすれば、「九分九厘の残り、一厘の霊理」
潜在意識に隠されていて、しかも現実には表れている真理。

三脳機能分離生物、人間からすれば、この「八通り目」の思考性が最も困難なことになります。

「ひふみ神示・第四十七帖」から、もう別角度からの見解。

「八のつく日に気つけともうしてあろう。
八とはひらくことぞ。
物事は開く時が大切じゃ。
第一歩の前に0歩があるぞ。
0歩大切じゃ、心せよ」

「八とはひらくことぞ」は「八百万の神々の展開」、これはもう理解できているはずですので「0歩」とは何か。
丸が数字のゼロであるとしても、ひふみ神示の丸の中に点を置くシンボルからの秘儀で、その円だけを意味するものでしょう。
円だけの意味を、アセンション・メッセージ的に言えば「ニュートラル」です。
中に点が入って第一歩、意思の入った創造の始まり「あなない」になります。
※「八のつく日に気つけ」これを年月日に解釈する人ばかりですが、ここでは理念数値として解釈します。
どちらの解釈で、つじつまが合うかは個人次第です。

現在個人的に、理念数値から解釈できることは、これくらいです。

「ヒフ、ミ、ヨ、イ、ムナ」「ヤコト」
「ヒフミ」
「ミヨイ」
「イムナ」
縦三界の理念。

「ヤコト」
横の展開。

または、
「ヒフミ」
「ミヨイ」
「イムナ」
「ナヤコ」
で4段階。

または、
「ヒフミ」
「ヨイム」
「ナヤコ」
で形成3段階、おそらく×4倍で12星座。

9は形成の全数とされて、9までが形成創造に関してなんらかの働きの理念を持っていますが、「ト」は=0を意味します。

ヒミ、イ五イツツ、ナ、コト。
ナヤのところが、複雑で綾しく悩むところです。

〔付け足し〕

いきなりめくったページ「第十五帖」にそれが書かれていたのは、経験のない驚く偶然で、その上に〔第四十七帖〕もほとんど偶然です。
やはり「何かに導かれた」と思わざるを得ません。
それで調子に乗って、これなれば「パラパラめくり占いでもできるかも」と、欲が出て来たのですが、そこがそういう失敗連続人生でしたので「いやいやこれでは自分が言っている奇跡依存症にまた陥ってしまう」と気が付いたわけでございます。;^^;

この依存症が、さらなる余計な依存ジンクス「これをしなければ…」と言う自縛習慣、また虚飾を引き付けて、知らないうちに身動きを執れなくしているものなのです。

それに気が付いて、無意識の依存症を避けるには、要は<それが普通>だと思うことです。
自分が疑問を持てば、神々がそのインスピレーションを降ろしてくれるのは当然で、それが宇宙の仕組みだと知って、特別奇跡のように重要視しないことです。
良くも悪くも、依存症には気をつけておかねば。

だいたいですね~、この地上でストレスまみれで一生懸命耕しているのですから、上で溢れるデーターの中で考えるばかりしている人が教えてくれるのは当たり前です。
やけくそ笑い(ワッハハのハ)
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