じゅんこの部屋 

自分探しから始まった幸せへの道・・いくつになっても旬な女性で生きるカギ☆

世界に誇る日本の「アニメ」

2009-09-11 06:30:17 | アニメ
「マンガは頭を悪くする」という驚くべき偏見を持っていた母は、中学に入る頃まで、
マンガ本や雑誌を与えてくれなかった。

友達や親戚の家に行っては、貪るように読んでいたのを思い出す。

中学の時、初めて買ったのが、池田理代子の『ベルサイユのばら』。
まさに目からウロコで、歴史の好きだった私は、史実に基づいたロマンにすっかり
魅了されたのだった。

60年代半ばまで、少女漫画の描き手の中心は男性だったそうだが、70年頃、新人
投稿制度の創設で、女性の描き手が一気に増えたという。

女性の手による少女マンガは、漫画の枠を超え、全く新しい表現分野を開拓していった。
そういう意味で、文学をしのぐ勢いがあった、と言われている。

確かに、当時の少女漫画には、「ベルばら」のオスカルに見る男装の麗人だけでなく、
SF、歴史ロマンにファンタジーなど、あらゆるテーマが描かれていたと思う。

1970年と言えば、「こんにちは、こんにちは、世界の国から~」で始まる大阪万博の
歌が、頭の中をエンドレスで流れる平和な時代・・・。

マンガという新たな表現手段を得た、戦後生まれの女性達は、この豊かな時代に、
生き生きとその才能を、開花させていったのだろう。

いまや、「マンガ」や「アニメ」は、国際的に通用する言葉となり、日本文化の一つと
なっている。

その数ある作品の中で、日本が誇るアニメを、どれだけの人がご存知だろうか。
親鸞聖人の生涯を描かれた、見るたび新たな感動に打たれ、心に輝きが増すアニメ。

どんな名作も届かなかった「なぜ生きる」のテーマが、ここにあきらかにされている。

日本だけでなく、世界の思想家も、アッと驚くに違いない。
マンガも読んでみて偏見が正されるように、何事も「百聞は一見にしかず」。
ぜひご覧あれ☆
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「ジャパン・アズ・ナンバーワン」

2009-09-09 21:44:51 | 政治・経済
「ジャパン・アズ・ナンバーワン」
1979年、ハーバード大学教授だったエズラ・ボーゲル氏の著書。
日本の驚異的な経済発展を支えた労働慣行など、日本的システムを称讃し、多くの日本人に
自信を与えた。
今も聞けば、どこか懐かしい響きがある。

なぜなら、この本が評判になったのは、まさに華やかなりし学生時代。
当時は、好景気で、売り手市場。学生はどこでも優遇され、体育会出身者はなおさら、主将を
つとめた、マネージャーをしていたともなれば、どの企業でも引っ張りだこ。

在籍していた体育会バドミントン部の先輩達は、毎日、のん気に羽を打っていたにもかかわらず、
卒業となれば、みな一流商社や名の知れた一部上場企業に就職していったものだ。

当時、証券会社に勤めていた母も、羽振りが良かったのを思い出す。
3人の子供を、大学まで進ませながら、学費の工面で大変だと聞いた覚えがない。

経済が、未来に希望を持たせ、心を明るくする実感があるのは、こんな時代を知っているからである。

それから30年。
社会・経済構造の変化で日本的な慣行は輝きを失ってしまった。
転職、リストラ、家族形態も変わり、老後の安心がゆらいでいる。
若い世代の貧困で、子育て環境は悪化し、暗い将来に向けて、子供を生んでも、と躊躇する人も
多いのでなかろうか。

だから、景気対策が最重要、の主張にも一応頷けるのである。

しかし、この30年で大きく時代が変わったように、今の不況を脱したところで、好況には留まらない。
まるで振り子のようなもの。
それにしがみついては一喜一憂を、死ぬまで繰り返すだけでなかろうか。

好不況にかかわらず、ものの有る無しに左右されない、心の輝き、生命の歓喜の世界がある、
と教えられたのが仏教である。

どんな時代でも、生まれて、生きてて良かったとなれば、苦しみも転じ喜びとなるもの。
そんな無碍の一道を教えられたのが、親鸞聖人であり、政治、経済を超え、すべての人の心を照らす、
世界の光・・・。

その正しい教えを発信してこそ、日本は自信を取り戻し、世界をリードする幸せ大国となるだろう。
胸を張って真に誇る『ジャパン・アズ・ナンバーワン』。
早くその日を迎えたいものである☆
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千里の道も一歩から・・・

2009-09-08 23:13:52 | アニメ
秋の日はつるべ落としと言われるが、あっと言う間に、ブログも書きたいと思いつつ、
4日空いてしまった。

仕事の優先順位からすると、どうしても後回しになってしまう。
これも仕事と、本気で定まれば、続けて書けるのだろうけれど。

原哲夫が47歳の時、作画を担当した『北斗の拳』。
彼は、原作者である武論尊の文字原稿をもとに、顔や目、眉毛の形や太さに至るまで、
徹底的にこだわり、キャラクターを作った。

細部まで描きこむには、時間もかかる。飲まず食わずで机に向かい、1週間のうち、
1日半だけ泥のように眠り、あとは徹夜で「死ぬ気で描いていた」と言う。

その代わり、命を削って作り上げた主人公ケンシロウの盟友レイ、兄ジャギなどの
キャラクターは、連載終了から20年以上たった今でも、新たなストーリーを得て作品を
生み続けている。

イチローが大リーグ通算2000本安打達成したらしい。
「2000本」と一口に言っても、「1本」「1本」の積み重ね。
1年365日、全試合があったとして、欠かさず毎日ヒット1本打ち続け、5年半かかる2000本。
渡米してまだ8年だから、いかに凄い記録かわかる。

過去を振り返らず、無心に前を見て、目の前の「一球」に精魂込めた結果に違いない。

どんなに大変でも、仕事となれば、死ぬ気になって継続も、不可能も可能となっていくのだろう。
いずれも活躍の舞台は異なるが、仕事の完成度にこだわるプロ意識は見習うべきだと思う。

まして、これ一つ発信したいという強い思いがあるのだから・・・。
甘えや怠け心は振り捨てて、やっぱりできる限り書いていくことにしよう☆
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やはり「親の心子知らず」

2009-09-03 06:33:07 | 家族
「親の心子知らず」は、立場を変えれば、「子の心親知らず」となるのだろう。

親は、子供の心を分かったつもりで、話をしたり、叱ったりするから、時に衝突し、摩擦が起きる。

しかも、子の反撃には、腹立ちで聞く心も失くし、「子供のため」という大義名分で押さえつけたく
なるから、たちが悪い。

子供が小さいうちは、親がいないと何もできないし、どんな親でも子にとっては偉大な存在だから、
言いつけを守らせ、叱れば従い、言動もそれなりに変わっていくのだけれど・・・。

問題は、対等に話ができるようになってから、思春期を迎える頃からだろう。
一人の人間として、親を見る目を持ってくると、こちらの言い分に真っ向から反抗し、時に非難を
してくることがある。
こうなると、こっちも引っ込みがつかず、ますます押さえつけたくなって、衝突してしまうのだ。

長女は、こちらのサイドに立って、考えられる年齢になってきたから、話せば、互いに分かり合える
ようになってきた。
息子の場合は、いつものことなので、喧嘩にならぬ。

問題は、次女である。精神的に成長が早かった彼女は、あまり手をかけずに大きくなったこともあり、
こっちもそれに甘えていた節がある。なので、なおさら長引いてしまうのだ。

昨日、衝突したことが、未だにすっきりしていないようである。

子供でも、性格や今までの関係によって接し方を変えないと・・・。
振り返ると、そんなにムキになることでもなかったし、いろいろ重なっていたこともある。

時々読んでいるようだから、直接言えない分、書いておこう。
甘え下手で、うまく本音を言えないところが、損な性分だから余計強く言ったんだよ。
それって、この母に似たとこあるから・・・。
絶対変えた方がいいんだからね☆
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『夢十夜』に見る結末・・・

2009-09-01 06:06:17 | 文学・歴史
読書の秋。

「こんな夢を見た」で始まる有名な夏目漱石の小説、『夢十夜』がある。
漱石が41歳のとき、見た夢が元になっているそうだ。
『100年後にその真実が理解されるだろう』と本人が言った作品らしい。

その中の「第七夜」の結末はこうである。

『自分はますますつまらなくなった。とうとう死ぬ事に決心した。
それである晩、あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。
ところが――自分の足が甲板《かんぱん》を離れて、船と縁が切れたその刹那《せつな》に、
急に命が惜しくなった。
心の底からよせばよかったと思った。

けれども、もう遅い。
自分は厭《いや》でも応でも海の中へ這入らなければならない。

ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、足は容易に水に着かない。

しかし捕《つか》まえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。
いくら足を縮《ちぢ》めても近づいて来る。

水の色は黒かった。
そのうち船は例の通り黒い煙《けぶり》を吐いて、通り過ぎてしまった。

自分はどこへ行くんだか判らない船でも、やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、
しかもその悟りを利用する事ができずに、無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに
落ちて行った』・・・。

夏休み最後の日、女子中生2人が、駐車場6階から飛び降り自殺した。
大変ショッキングであり、痛ましく言葉も出ない。

苦しくても生きねばならない理由は何か。
これが見つからないと、生きることは容易でないのだろう。

しかし、飛び降りたその先にあるものは・・・・。
「無限の後悔と恐怖」と漱石は書いている。

大無量寿経という経典には
「大命まさに終わらんとして、悔懼(けく)こもごも至る」とある。
「臨終に、後悔と恐れが、代わる代わるおこってくる」。

もし、『夢十夜』に、「100年後に理解される真実」があるとしたら、今、死を逡巡する人に、
伝えねばならないここだろう。
そして、速やかに、どんなに苦しくても生きる理由は何か、その答えもこの経典にあることを、
示していく・・・。

悲劇の連鎖を断つに、最も急がねばならない「苦しくてもなぜ生きる」の解答。
どんな文豪も求める、苦悩の人が救われる真実は、仏法にある。
その教えに触れる「読書の秋」を、切に願わずにおれない☆
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