
しぐれがちで寒いこの頃は苔が生き生きしている。
庭石の窪みに生えた苔に蝉の抜け殻があった。
周りにあった枯れ草ごみは除いたけれど、抜け殻を置いたりの作為的なことはしていない。
普通なら、からからに乾いた蛻(もぬけ)の殻の様相なのだが、湿りの常態化した中にあるからか、薄衣風だ。
服飾評論家の市田ひろみ氏がいにしえの衣装を紹介する講演会を観たことがあって、十二単の実際の着付けをやっていた。
一枚着せては紐で結び、その上に被せると、下の紐は外して、結局十二単は最後を羽織った後の紐一本で留められているのだった。
そうして最後に紐をゆるめ、十二単からモデルがするりと抜けると、十二単だけが首の抜けたお雛様のように座っていた。
『これがほんとの蛻の殻』というのが締めだった。
田辺聖子の源氏物語を読んだときに、光源氏の掴んだはずの女がするりと着物を残して逃げてしまう空蝉の巻が印象的だった。
今回初めて空蝉を調べてみたら、この世に生きている人間と、まるで反対の意味もあった。
現(うつし)人(おみ)から「うつせみ」にその音に空蝉を当てた結果、できた言葉だとか。
いつだって何に対してか現を抜かして抜け殻腑抜けになるうつけ者がいるということだろう。
源氏の空蝉は文字通りの抜け殻で、読者にとっては『いい気味してやったり』だったり、『もう少しだったのになんでそうなる』という口惜しさだったりする蛻なのだろう。










死して肉体から抜け出た魂?こころ?自分だったもの?どこに行くのかは、肉体は?知らないのです。
寂聴さんは今東光と会っているでしょうか?
コケは盆栽に似合いますが、定位置から移植すると必ず、全滅。枯れます。
難しい、植物たち。
いま、辞書を引いてみたら、仏教用語でした。
内心と外相がちがうこと。真実でないこととあります。
死んでももうひとつのあの世があると考えたら、死ぬのなんか全然怖くないかも知れませんね。
この世とは次元の違うというのか、この世の次元で考えられないのがあの世なのではないかと思いますですね。
苔を移植させて枯れさせてしまうのは、単なる水分不足と陽の当てすぎでしかないと思いますが・・
今まで見たことのない、確かに薄衣のようにも見える抜け殻ですね。
湿り気を帯びた淡い色彩の苔に半ば埋もれて、抜け殻自体が光を宿しているようにも見える
不思議で美しい世界に見入っています。
全く同じ姿でした。
雨にいくら打たれても変わらずに、というより、打たれて少しづつ薄くなってきたのかも知れません。
あと少しで雪が降り、押しつぶされるのかどうか。
来春にもまた想いだして確認するでしょうけれど、どうなってしまうのでしょうね。