今冬は記録的な大雪が各地で観測されていて、雪害被害の報道が絶えない。それらの報道を見るにつけ、なんで予報がありながら、もっと気をつけないのだろうと疑問に思う。報道のあり方にもきっと問題があるのだ。同じパターンの『○○年間住んでいるがこんな大雪は初めてだ・・・」とか、「こんなに降るとは思わなかった」というくだりばかりピックアップして流す。
責任は誰にもない天災なのですよ…、運の悪い人がいるのですよ…、自己責任としか言いようのない間の悪さだったんですよ…と紹介しているに過ぎない気がしてしまう。鳥取での大雪で何隻もの舟がバランスを崩して転覆した災害などは、雪の多く降る地方の人から見れば信じられない程の危機対応能力の欠如なのだろう。
私は雪国の生まれなので、雪害に対する不安を切実に感じる方だ。屋根に積もる雪は一様であることはめったにない。風の向きによって必ず偏った積もり方をする。長時間降り続けた新雪は屋根のぐるりに雪庇を作る。積もった後の日の照り方や温度でも状態は常に違うのだ。重量バランスが極端に偏らないように想像力を働かせることが大切だ。今日も雪の重みで建物が潰れて人が亡くなる事故があった。
雪降ろしは一番積もっている所から降ろさなくてはいけない。降ろす前に一階の窓の保護状態はどうか、投げ降ろす場所はあるか等を考えた上でしなくてはならない。スノーダンプという一輪車の車輪を外したような道具が無かった時分、私の田舎の雪降ろしは、新雪の時はコスキ(木の鋤)を使い、そうでない時はシャベルを使っていた。大人が黙々と確実に雪降ろしをする姿を見て育っているので、徒労でしかないような雪との戦いには、嫌だとか寒いとかの感覚を持つ前に体が動く。
私の田舎では屋根の雪降ろしを『雪掘り』と言う。屋根の雪を降ろすのではなく、雪に埋まった家を掘り出すのだとか何とか…。そんな事はともかく、強い印象で記憶に残っているシーンがある。雪が降ると、鉄道にはラッセル車が何度も走り、ロータリー車も走り、ジョルダンだマックレーだと興奮したものだ。
除雪車の活動を見るよりも印象的なのは、それらが走った後での人海戦術の除雪作業だ。Vの字の底に線路がある状態になった急角度の壁を切り崩して河岸段丘状にする。ラッセル車が飛ばす雪を受ける余地が必要だからなのだろう。凸型の底を抜いて逆さまにした状態にすると言えば解ってもらえるか。雪だから垂直な壁を作ることができる。足場の水平面は1m50位で垂直壁は3mにもなろうかという空間を線路沿いに作っていくのは臨時雇いの人夫さんだったのか工夫さんだったのか。その着実で美しい仕上がりには、子供心に大人の労働の尊さのようなものを感じたものだった。
この文をどのように締めくくるか思案している。徒労の中に尊さがあると言いたい訳ではない。危険予知の必要性を説きたいのだ。誰も騒がないから大丈夫だろうと何もしないで大事になることがある。誰かが間違った情報を叫んで流言蜚語を引き起こし悲劇が起きることもある。たった一人が尖端的な行動を起こし、それが伝播して災害を最小限にすることもある。リーダーが誤ることもあれば、リーダーがリーダーたる所を示すこともあるだろう。何はともあれ個々が日頃からシミュレーションをやっておくに限るのだ。
ここで思い出したことをひとつ。子供の頃、よく一緒に登下校していた同級生がいた。雨上がりに二人で歩いていて、行く手からトラックがやってきた。国道だったがまだ舗装はされておらず水溜りがいくつもあった。二人は並んで歩いていたのだが、私は車が泥水をはねたらモロにかぶる位置にいた。車が来る、タイヤを見る、水溜りがある、泥水を必ずはねる・・と見た瞬間、私は友人を盾にして隠れた。友人は泥水をまともにかぶり、私は全く無事だった。友人は穏やかな性格だったので笑い合っただけだったが、私たちの間には微妙な亀裂が入ったに違いない。キヨシくん、あの時は済まなかった。いつか謝りたいと思う。
責任は誰にもない天災なのですよ…、運の悪い人がいるのですよ…、自己責任としか言いようのない間の悪さだったんですよ…と紹介しているに過ぎない気がしてしまう。鳥取での大雪で何隻もの舟がバランスを崩して転覆した災害などは、雪の多く降る地方の人から見れば信じられない程の危機対応能力の欠如なのだろう。
私は雪国の生まれなので、雪害に対する不安を切実に感じる方だ。屋根に積もる雪は一様であることはめったにない。風の向きによって必ず偏った積もり方をする。長時間降り続けた新雪は屋根のぐるりに雪庇を作る。積もった後の日の照り方や温度でも状態は常に違うのだ。重量バランスが極端に偏らないように想像力を働かせることが大切だ。今日も雪の重みで建物が潰れて人が亡くなる事故があった。
雪降ろしは一番積もっている所から降ろさなくてはいけない。降ろす前に一階の窓の保護状態はどうか、投げ降ろす場所はあるか等を考えた上でしなくてはならない。スノーダンプという一輪車の車輪を外したような道具が無かった時分、私の田舎の雪降ろしは、新雪の時はコスキ(木の鋤)を使い、そうでない時はシャベルを使っていた。大人が黙々と確実に雪降ろしをする姿を見て育っているので、徒労でしかないような雪との戦いには、嫌だとか寒いとかの感覚を持つ前に体が動く。
私の田舎では屋根の雪降ろしを『雪掘り』と言う。屋根の雪を降ろすのではなく、雪に埋まった家を掘り出すのだとか何とか…。そんな事はともかく、強い印象で記憶に残っているシーンがある。雪が降ると、鉄道にはラッセル車が何度も走り、ロータリー車も走り、ジョルダンだマックレーだと興奮したものだ。
除雪車の活動を見るよりも印象的なのは、それらが走った後での人海戦術の除雪作業だ。Vの字の底に線路がある状態になった急角度の壁を切り崩して河岸段丘状にする。ラッセル車が飛ばす雪を受ける余地が必要だからなのだろう。凸型の底を抜いて逆さまにした状態にすると言えば解ってもらえるか。雪だから垂直な壁を作ることができる。足場の水平面は1m50位で垂直壁は3mにもなろうかという空間を線路沿いに作っていくのは臨時雇いの人夫さんだったのか工夫さんだったのか。その着実で美しい仕上がりには、子供心に大人の労働の尊さのようなものを感じたものだった。
この文をどのように締めくくるか思案している。徒労の中に尊さがあると言いたい訳ではない。危険予知の必要性を説きたいのだ。誰も騒がないから大丈夫だろうと何もしないで大事になることがある。誰かが間違った情報を叫んで流言蜚語を引き起こし悲劇が起きることもある。たった一人が尖端的な行動を起こし、それが伝播して災害を最小限にすることもある。リーダーが誤ることもあれば、リーダーがリーダーたる所を示すこともあるだろう。何はともあれ個々が日頃からシミュレーションをやっておくに限るのだ。
ここで思い出したことをひとつ。子供の頃、よく一緒に登下校していた同級生がいた。雨上がりに二人で歩いていて、行く手からトラックがやってきた。国道だったがまだ舗装はされておらず水溜りがいくつもあった。二人は並んで歩いていたのだが、私は車が泥水をはねたらモロにかぶる位置にいた。車が来る、タイヤを見る、水溜りがある、泥水を必ずはねる・・と見た瞬間、私は友人を盾にして隠れた。友人は泥水をまともにかぶり、私は全く無事だった。友人は穏やかな性格だったので笑い合っただけだったが、私たちの間には微妙な亀裂が入ったに違いない。キヨシくん、あの時は済まなかった。いつか謝りたいと思う。









