原発事故が発生したのが1986年4月26日。
先週、事故発生の日から23年目の日がありました。モスクワでは、国際的な追悼イベントもあったようです。身近なところでは、通勤路のシェフチェンコ公園の中に「Inside Chernobyl: life goes on」と書かれた大きな写真パネルがいくつも立っているのを見つけ、はっとしました。
現在の1号炉の管制室、今の4号炉、ビジターセンター、そして現在もそこで働く約3800人の姿と声、生活の場であるSlavutych市の様子を写した写真たち。ウクライナ語に加え英語の解説も付いていました。
公園は散歩や待ち合わせの場(シェフチェンコ像の足元)ですし、レストランや野外カフェもあるので、夜になるとかなり賑わいます。多くの人が足を止めて見入っていましたし、私も、訪問した時の心の揺れを思い出し、どきどきしながら鑑賞しました。
こちらにこの屋外パネル展のことが詳しく描かれてて、こちらからこの企画に使われた写真を含め2007年からチェルノブイリの今の「Lives-生」を撮り続けているMichael Forster Rothbartさんの写真がご覧になれます(フリーのメディアソースに提供されています)。
※パネル展については続く↑補足の投稿をご覧ください。
この写真と比べると、私の訪問記はどれだけ語れるか分からないのですが、この写真家の方もツアーを企画した方も、そのココロは「チェルノブイリは死んでいない。生きている。」ということなんですね。
決して蓋をしただけではなく、完全解決まで、今でもずっと努力がされている。そして、人の営みと、自然の力によって、事故の傷痕は消え、いつかきっと負の記憶が良い意味で薄れ、「ヒロシマ」のように平和を考える「象徴(記号?適切な日本語探し中)」となる日が来ると思いたいです。
今回は車内で鑑賞したビデオと、立ち入り禁止地区のゲートをくぐる前に停車した2箇所について書いてみます。
7時30分に市内のホテルRus前を発車したミニバスの中で、セルゲイさんからこの日の予定と注意事項(その1参照)に加え、同乗しているもうひとりのガイド、サーシャさん(ということは本名アレキサンドルさんか)の紹介がありました。彼は、子供のころ被災し、町を離れましたが、今は、「PRIPYAT.COM」で仕事をしているとのことです。プリピャチ市訪問時には彼がメインのガイドとなり、昔の彼の家にも訪問する予定との説明がありました。
その後、車内では、事故前のプリピャチの映像を鑑賞しました。原子力発電所と並行して職員とその家族のために開発された町。団地が立ち並び、想像していたよりずっとおしゃれな人々が行き交い、車が走り、子供たちは遊び、お祭りがあり、温かい豊かな生活があったことが分かりました。ソ連の中では格差はどのくらいあるものなのかわかりませんが、エリート技術者が集まっていたのかもしれません。
「この映像と今との違いを観て何かを感じてほしい」との思いを受け取りました。準備の初めの1歩です。
約2時間後(9時30分ころ)、昼食兼トイレ休憩のため、チェルノブイリ郊外のキャンプ場に停車しました。
気になる空気中の放射能数値はキエフ市内以下。緑美しいところでした。ここがもうチェルノブイリ?
ここで放射能量について再度説明がありました。チェルノブイリは決してすべてが死の土地なのではなく、事故で広範囲に飛散した多くの放射線物質の半減期は非常に短く(ここは記憶があいまいなので調べてまいりました。以下カッコ内「」はこちらのWiki「放射能の長期的傾向」からの引用です。「事故の直後においては健康への影響は主に半減期8日の放射性ヨウ素によるものだった。」とのことなので、セルゲイさん達初めの清掃部隊はその前後に現地に入ったことになりますね。「今日では、半減期が約30年のストリンチウム-90と増え続けるセシウム-137による土壌汚染が問題になっている。」23年経って、現在も主に炉内に残り放射能を出し続けている物質の質が変わってきているとのことでしょうか。WiIki上ではまだ4号炉に入り込む雨水による汚染継続の心配が書かれていますが、採られている対策についての説明もこのツアー内であったので、その5の4号炉訪問の記事にわかる範囲で書きたいと思います。)今も不完全な「蓋」から洩れる放射能の直接影響の無いところでは決して生命の墓場ではない。むしろ、人以外の動植物にとっては人の生活による汚染がまったくなくなったため、貴重な動植物のサンクチュアリ状態になりつつあるとのことでした。
長期的な影響についてはまだわからないことも多いようですが(人の健康、生態系、社会的心理的)、このツアー内で目にし理解したことについて、その4に書くチェルノブイリ市内の教会訪問にて補足したいと思います。
こちらで、私営の民族学博物館を見学しました。↑木製生活道具なんて日本のものとそっくり。そういえば、ウクライナの伝統的家屋って日本の藁ぶきの家みたいで、水車小屋とかもそっくりです。このあたりの話はまたいつか。
そのすぐ隣の小さいカフェ(←店名「ノーチラス」)でなかなか素敵なお昼ごはんが用意されていました。この先のために、残った果物やお水を拝借。セルゲイさんはパンをたくさんもらって(この理由は4号炉訪問にて明らかになります)再出発です。
森林地帯を抜けるようにまっすぐ走る道路を15分程走って、何もないように見える道端に停車しました。セルゲイさん曰く「今は見る影もないが、このあたりにずらっと、事故後の清掃作業に参加した部隊の野営地があった」とのこと。そしてここが、セルゲイさんが率いていた第25化学生物事故対策部隊の野営地だったとのこと。
立札がありました!
今は、僅かに建物の一部が残り、木が生え苔が生えた残骸から過去を思い出そうとしている。「事故の当日、多くの住民は事実を知らず、すぐに戻れると思い避難したので、数日後、家族の代表者のみ、貴重品を取りにごく短時間だけ戻ることを許された。その後、原子炉の封鎖対策部隊の他に、1週間後(すいません記憶があいまいですが←によっても5月3日~と思います)、残った食糧が腐り病害虫や疫病が発生することを防ぐための部隊が投入された。それが我々だ。知っているだけでも48人の仲間が(任務中?)に亡くなった。」と説明しました。
停車場ごとに最終目的地(4号炉とプリピャチ)に至るまでの準備を整えていくのは、私たちだけではなく、多くのトラウマを抱えながらもガイドを務めるセルゲイさんもなのだと思います。ここ訪問は彼にとって必要なな儀式のように思われました。
辛い記憶はだれにでもあって、それが大きいものであればあるほど忘れなくては生きられないひとも多くいるでしょう。しかし、そこを生き抜いたことが自分という人間の一部であり、誇りであって、その体験とともに生きることを選ぶひとも沢山いますよね。でもその選択って、自己矛盾やPTSDを抱え続けることにもなりますよね。
人災と自然災害という大きな違いはありますが、私がいろいろ新しいことを決断する時、14年前の1月震災体験ははいつも重要な要素になります。でも、口にしてしまうと、もっともっと辛い体験をしたすべての方に申し訳ないことをしたようで(語る資格なし)、特に面接などでその説明をしてしまうとと、災いを利用したようで何日も罪悪感に深く沈みます。
彼は、責任のある立場で最も辛い体験をいくつも乗り越えたからでしょうか、また十分な専門知識を持っているからでしょうか、多くの被災者の代弁をする、その重い任務を担う強さを尊敬せずにいられません。でも、だからこそ時々原点に戻っての確認の儀式が必要のではないかなと思いました。
さて、その4ではゲートをくぐってチェルノブイリ市内(森林、記念碑と教会)の様子まで書きたいと思います。