ウキクサ達のハナバナ (仮)by ともすけ

【旧Silenceのほとりで散歩】「なう」な情報と共感が求められる今、あえてブログで残しておきたいこと模索中...

このブログについて

2099年10月13日 | ブログ案内&連絡事項

2014年秋以前の記事は引越し元との仕様の違いからレイアウトなど崩れがあることがあります。ご了承ください。

Webの雑踏にころがるこのブログをご訪問いただきありがとうございます。

HPを立ち上げた90年代終わりから25年、ネット文化にも利用者にも劇的な発展と変化がありました。HPは閉じ、ブログは残し、趣味や赴任生活、ケガや病気の経験、そして人々から受けた刺激や感動などなどを投稿してきましたが、過去の記事を見直すと、丁寧に書いていて今でもほお~と思うものもあれば、「なう」な情報と共感が求められる今、意味のすっかり無くなったものも。年を重ねてしまった私が、揺らぎまくっている人生感や世界の中で、どんな記事をやっぱり残したいのか、見直してみています。その間は、訪問者も多く、今やっぱり公開しておきたいなと思う「チェルノブイリ(現チョルノービリ)訪問記」とウクライナのお菓子「シールニキーの作り方」などのみ公開しております。(ともすけ 2022年10月改訂★)

ご連絡はコメント欄か☆こちらメールにてよろしくお願いいたします。


☆チェルノブイリJuly 2008☆最終回その8「EXIT」

2009年06月30日 | チェルノブイリ関連&訪問記

From_far さて、すべての訪問日程を終えて帰路へ。写真は帰路プリピャチ川の橋から。遠くに原子炉群が見えます。

チェルノブイリの町のNGO事務所のある建物に戻って、ウクライナな夕食を頂き(食材は安全な地区から運んできています)&トイレ休憩をして一息の後、再び、車は立入り制限地域のゲートに戻ってきました。

ここで、全員一端車から降りて、ゲート横の建物へ。中に入るとレントゲン撮影装置のようなモノが横向きでずらっと並んでいました。

Beruniki 以前キエフ市内での写真展「Life Goes On」の投稿でも紹介しました、こちらの写真家さんのサイトにその写真があります(上から3番目)。

横向きに入って抱きかかえる感じで、立入り制限地域に出て行っても、外を汚染しないか、体が発する放射線量を測る機械だと説明があったと思います。セルゲイさんによれば、普通問題はないが、雨が降っていたり、建築作業などで、靴に多量の泥がついていたりすると引っかかることがあるとのこと。

緊張しましたが、無事通過。

そして、帰路、参加者で感想を交換し合いました。先にその様子を投稿した、>その2「呉越同舟」をもう一度ここで読んでいただけるとうれしいです。

やっとチェルノブイリツアー記を終えることができました~。

興味を持ってここまで読んでくださったみなさま、ありがとうございました☆以下まとめておきます。

<見学ツアー感想投稿>

その1「はじめに」
その2「呉越同舟」
その3「準備の儀式」
その4「粛々と生きる生命」
その5「心の像」
その6「ビジターセンター」
その7「プリピャチ市散策」
その8「EXIT」

<関連投稿>

補足: Inside Chernobyl: life goes on
Time Will Crawlとチェルノブイリ訪問

最後にこのツアーを企画してくださったプリピャチ市元住民によるNGO PRIPYAT.COM


☆チェルノブイリJuly 2008☆その7「プリピャチ市散策」

2009年06月20日 | チェルノブイリ関連&訪問記

Gate さて、発電所からちょっと走って、チェルノブイリ学習ツアーの最終訪問地、プリピャチ市へ(←プリピャチ1970と書かれた入口の碑)。

まずは、レジャーセンターの前に止まって注意事項の説明。むやみにモノに触ってホコリを立てない事。割れガラスが床に散乱しているので、転ばないように気をつけること。安全のため、長袖着用。枝を手で押して通る時には、後ろの人に気をつけて離すこと。そして、個人のお宅だった所には勝手に入らないこと。

散策気分を少し感じていただければと、今回は場所の簡単な説明と写真のみで済ませてみます。

建物の中ががらーんとしていて、生活観が無い(家具もカーペットも壁紙もほとんどない)のは、残された食料やその他有機物から疫病、害虫大発生を避けるため、クリーンアップ部隊が綺麗に片付けてしまったからです。

どのくらいの労働力が投入され、どのくらいの量のモノが思い出もろとも廃棄されたのだろう気が遠くなります。

また、セントラルヒーティングのパネルなどの金属は混乱期に結構盗まれているとか。盗んだ後どうしているのか。売り飛ばしたのでしょうか?命がけの窃盗行為です。

Hotel_polissya ← レジャーセンター横のホテル。↓木々に埋もれる団地。道路は半分くらいの幅になってしまっているそう。


Danchi1_2 Danchi2_5 Danchi3 Room1Street1Room2Room3






さて、↓4枚はガイドのサーシャさん(網ベストの方)宅だったアパートの外と中です。窓辺に置かれているお札には3世代あって、(1)まずセントラルヒーティングか家財を盗んだ人が代金としてちょっとした良心から置いていったお金。そして、(2)ツアー初期の訪問者が哀悼っぽく置いていったお金、(3)最近の訪問者が溜まったお金を見てなんとなく感謝の気持ちで置いていく(噴水の中のコインみたいに)お金だそうです。 外貨もありますね。

 

Danchi4Room4Room5Window_money







↓はレジャーセンター内外です。だだっ広い部屋はハンドボール場と説明があったと思います。室内プールやボクシングリングもある立派な施設でした。壁が落ちていて、外の観覧車が見えました。地面の放射能は空気中の4倍くらいあります(キエフ市内空気中の100倍)。

このお人形。怖い写真ですが、ああここに人が住んでいたんだ~と感じさせてくれたました。

最後の不思議な写真は、選挙用の看板&ポスター屋さんだそうです。子供のころ、よくここに遊びに来たとか。

GymWheelWheel2DollMicro_sv2_4Posters







それでは、最終回、その8「EXIT」へ続きます。               


☆チェルノブイリJuly 2008☆その6「ビジターセンター」

2009年06月17日 | チェルノブイリ関連&訪問記

Model さて、ビジターセンターに入ると、片側の壁の半分位が大きなガラス張りとなっていて、4号炉がすぐそこに見えました。

にこやかに出迎えてくれた女性職員さんが、まずは、模型を使って、事故の起こった原因、爆発の様子(どっかーんではなく、充満した蒸気の爆発でぼんっと原子炉がジャンプして屋根が吹っ飛び、原子炉は落ちて戻った)、どのように「取り急ぎ」原子炉が燃料ごと封じ込まれているのか(詳細は実は不明)、を説明して下さいました。

 

Wall 続いて、新しい外壁について。

長期的な強度のことなどじっくり考える間もなく建造された「シェルター・オブジェクト」(関係者の間では「石棺」よりこの呼び名が好まれています)。

痛みが速く、数年前にはいつ天井が落ちてもおかしくないとまで言われていたそうですが、前年(2007年)天井を支えるための外壁構造(←写真)が建設されたため、今後15年位は大丈夫!だそうです。

ただ、「天井」の痛みは激しく(左下はその様子の写真)、内部に流れ込む雨水が増加して処理しきれなくなったり、内部を痛めないよう、現在最優先で葺き替え工事が行われています。

でも15分シフトでの(フィフィティーンではなく50分フィフティの聞き間違えかもしれないですがそれでも)作業ではなかなか進まないとのことです。

Roof また、昔と比較して「使命感」ではなく「金銭のため」にこの修繕作業従事者となる人が増えているので、作業の効率や質の低下も少し心配だとのことでした。

長年勤めてきた方の意見として、興味深いです。

また、天井からの雨水に関して、「原子炉に浸入し汚染された雨水が外部に出て、広範囲で土壌や水を汚染しているのでは」という巷の憶測に対して(私も、キエフ市も危ないとか聞いたことがあります)、「侵入した水は汲み上げられ、処理がされた後、通常の核廃棄物同様に保管されているので、そのようなことはない」とのことです。

以前ご紹介したチェルノブイリ写真展の展示の中に、まさにこの汚水担当の方のインタビューと作業内容の写真があり、「ああ、このことだ!」と思いました。なすべきことがきっちり行われている様子でした。

さて、外壁補強によって取りあえず安定した現在のシェルター。これを覆う形で新シェルターを建設する計画が進んでいます。

Project 名づけて「Shelter Implementation Plan (SIP) of New Safe Confinement (NSC) Design, Conttruction, and Commissioning Contract」。計画のパネルから実行団体・会社も確認できます(EDFはフランス電力公社ですね)。

簡単に言うと、現在のシェルターの両脇から手前にレールを建設し、そのレール上にドーム型の新シェルターを建設、スライドさせ被せる!上手く密閉して放射能を完全に遮断できたら、遠隔操作で現在のシェルターごと原子炉もすべて解体し、核廃棄物として処理する。

詳細はこちら(NSCについて英語版Wiki)をご覧下さい。

今どこまで進んだか?は検索してもあまり情報がないです。また後日探してみます。

 

気の遠くなるような作戦に聞こえますが、事業実施期間は2007年10月~2012年3月と思いのほか短いです(もしかして建設だけの期間?)。

Plan1 安全な遮断と隔離が完了しロボットで作業できるようになれば、今の屋根葺きのように気が遠くなるような非効率&多くの作業員を危険に晒す必要がなくなり、(今と比べれば)驚くほどとんとんと計画は進んでゆくのかもしれませんね。

ビジターセンターの周囲にあった、事業計画に関するパネルの写真をいくつか貼り付けます。(サムネイルをクリックすると大きな写真がご覧になれます。)

上部に並ぶ国旗は資金を出している国々です。日本ももちろんありました(最後の写真↓)。

Plan2 「ロシアはないね」とウクライナ人のかたがチクリ。確かに

ああ、ガス供給に続き、今の両国間の確執を反映しているようにも思えました。計画が持ち上がったのがG7、ECとアメリカが支援の要となると自然にロシアは乗りにくかったのだと思います(意地やらなんやらかんやらで)。

でも、このすぐ後、2008年7月15日に「G8」でRussiaが1-3号炉からの使用済み燃料保管事業への支援に参加するような。ちょっとほっとしつつ、最後のほうにRussiaからはこちらにも今までは支援はなっかたような内容が。

こちらの展示を見終わって、出発の時間となったので、職員の女性にご挨拶。

感想をちょっと話すと、「日本人の方はよく訪問してくださいます。とても真剣に話を聞いてくれて、展示もじっくり見てくれるので感謝してますよ。」とのお話にじーん。Plan3

さて、再度車に乗って、事故の前まで職員家族の町として栄えたプリピャチ市へ。

ガイドは元住民のためのNGO、PROPIET.COMの方2人が担当して下さいました。

ああ、大分進みましたね

その7に続きます~。


☆チェルノブイリJuly 2008☆その5「心の像」

2009年06月16日 | チェルノブイリ関連&訪問記

Memorialさて、原子力発電所に行く道の途中、←の記念碑の前で停車しました。
正式名称は今わからないのですが、初期の消火活動に従事した消防隊、救急隊の活動への記念碑です。

皆さんはパッと見、どのような印象を持たれるでしょうか。

私は正直、キエフの町にも残るソビエト時代の像と同じく、あまりにも「ストレート」すぎて、この先ずっとここにあるべきものと目的に相応しい「普遍性」がなく、ここだけ時代に取り残されている印象を受けました。ちょっと「イケテナイ」という感じでしょうか

そんな思いを見透かされたのか、ここで、セルゲイさんが語ったことに「どきり」としたことを覚えています。記憶を絞ってみます…

「この像、よく見てごらん、消防士の表情とか、放射能の影響として代表的な、「吐き気」を堪えているあの医療隊員の様子とか、僕にとってはとてもリアルだ。でも、この辺りからは訪問するたびに、見る見る事故当時の名残はなくなるのを感じていた。今ではあまりにも事故当時の記憶と異なり、なんとも変な気がする。でも、この像は当時のままでいい。」

Memorialdetaile1別名「リキデイター」と呼ばれる汚染処理部隊員の一人だった彼らにとって、短いながらも脳裏から離れない記憶。でも、現実のほうはどんどん彼らをおいて、その記憶が現実であったという証拠を消してゆく。

そんな言葉を聞くと、なんだか、この時代遅れの像が「彼らの心の像」に見えてきて、不思議でした。

Memorialdetaile2_2 像の表情も何枚か捉えてみました。(←サムネイルをクリックしてみてください)

阪神大震災後数年間の大復興期には復興自体はすばらしいこととはわかりつつ、なんだか自分の記憶が嘘になっていくような悲しさとなかなか折り合いがつかなかったことと似ているかもしれないな、とぼんやり思いながら像を後にしました。

そして原子力発電所へ。まずは、建設途中のままの5号炉と6号炉(←どっちの写真かは記憶の彼方)を通過。

Notused_2 そして、事故のあった4号炉が建物の隙間から見えた!と思った発電所の中心管理棟らしきところで一時停車。

なんで~と思っところ、セルゲイさんは大きなパンの塊を持って(その3参照)車を降り、皆を冷却池につながる水路の方に誘いました。

橋上に立つとちょっとパンを分けてくれて、投げてごらん~とのこと。うわわ~巨大ななまずっぽい魚が~ぱくぱく~(またもや、たくましき命)

その隣で、休憩中っぽい職員の方もパンを投げてました。ここに来て急に人口密度が上がり、建物も新しく、その前の広場や花壇も手入れが行き届いていて、そのあまりの「普通」の職場ぶりに戸惑いました。

Cat_fish_3 ここで、管理棟前の広場に戻り、職員の方からそこにある記念碑や鐘の意味の短い解説がありました。するとその方は私を見つけて、原発管理団体のピンバッチを「一個しか今もってないから特別だよ~っ」てなかんじで渡してくださいました。いかにも外人さんなのは私だけだったからに違いないのですが、感激。大切にします。

さて、再度車に乗り、その管理棟をぐるっと3号炉と4号炉を左手に見ながら迂回する形でビジターセンター前の広場へ。

終にあの4号炉がまっすぐ目の前に。

Reactor_no4_4

ああ。こんなに近くまで来るとは、全く予想していませんでした。しばし沈黙。

Micro_sv_2 空気中の放射線量はキエフ市内(この日の朝0・12μSv/h)の20倍位です(←写真参照 3μSv/h)。

そして4号炉真横のビジターセンターの中へ。

にこやかな女性職員が出迎えてくださいました。

ここでずっと働いていて大丈夫なのか?という質問に、ここでや管理棟で働くと毎日レントゲン撮影を受けるくらいとのことでした。

こちら「緊急被爆医療研修のHP」によれば1回の胸部レントゲン撮影で受ける被ばく線量50μSvとあるので、そのくらいです。以前にご紹介した写真展のとおり、皆さん現在住んでいるのは、放射能の影響のない町です。

でも、現在雨漏り防止のため、4号炉を覆う建造物(いわゆる「石棺」)の屋根の葺き替え工事をしている方は、なんと、「15分シフト」だそうです。気の遠くなるような地道な作業です。一体どのくらいの人員が今もこの事故処理に費やされているのだろう…

現在行われている、気の長~い希望の託された大事業についてはその6にて。

最終回ははその7か8になりそうです。


☆チェルノブイリJuly 2008☆その4「粛々と生きる生命」

2009年06月14日 | チェルノブイリ関連&訪問記

House1 前回のその3より1ヶ月経過してしまいました。何とか訪問1年経過前に終えたいので、進めてみます。

さて、立入り制限地区のゲートに近づくと、ガイドのセルゲイさんから、トラブルを避けるために、ゲートを通過するまではカメラをしまい、写真を撮らないように、そしてパスポートを手元に準備しておくようにと指示がありました。

まずはセルゲイさんが書類を持って、ゲートへ。その後全員車を降り、ガードマンに身分確認を受けました。主な目的は、前述の自己責任書類へサインした名前と人物との照合だと思いますので、特に質問などなく、ゲートを越えることができました。

道路の両側は森林。セルゲイさんはここで、人類による環境への影響が激減したことで、「動植物のサンクチュアリ」化し、貴重な種の植物ものびのび生育しているという話をしました。

放射能とは種類は異なれど、人類の汚染力ってかなりのものなのか。

放射能によって奇形化した動植物による「不気味な世界」が広がっているというイメージを抱いている方もいらっしゃるかもしれませんが、現在の広島、長崎同様そんなことはないです。

もちろん事故直後に強い放射能を浴びて木が枯れた一帯があったり、後で述べるように、放射能を蓄積していたりするので、長期的な影響や、表面の形質に現れない遺伝子の変異については、研究をされている方がいます。

でも、「見かけ上の変異」は私の目にもまったく見受けらず、不思議なほど自然に生命が生きつづけているという印象でした。

ゲートをくぐってしばらくすると少し開けた草原地帯があり、そこに停車。道路脇の廃屋となったウクライナ民家をいくつか訪問しました(↑の写真)。

Beekeeping 上を見ると木の幹に箱が。セルゲイさんによれば、伝統的な養蜂用の箱だそうです。素朴な伝統的な暮らしがここにあったのかなぁと思いを馳せました。

この辺りからチェルノブイリ町の空気中の放射能はキエフ市内の2-4倍程度なのですが、測定器を植物や地面に近づけると一気に数値が10倍位にはねあがります。

これは、長年ここで生きて行くうちに(草の場合何世代もかけて)蓄積され、循環しているものだと思います。

外から来て帰る者からすれば異様で恐ろしく感じる現象です。でも、ここの生物は、生かしてくれる土や水と空気と一緒に運命を受け入れて、その移ろいに同化し、静かにたくましく生きているだけなんですよね。まるで、酸性の地で赤かったあじさいがアルカリ性への変化で青くなったような柔軟さで。

そんな妙な感動が、この旅中、動植物をみるたびにありました(その1の猫ちゃんも)。

この地で余生をおくることに決めた得に老齢の住民の方も、そんな風にずっと傍にあった自然と一緒に運命を受け入れることを選んだ結果と思うと、不思議なことではないようにも思えます。

さて、もともとこの辺りの中心地であったチェルノブイリの町に到着。←Wikiからみれるミールからの衛星写真のとおり、まだ原子炉のあるプリピャチからちょっと離れています。

Chirch_1 PRIPYAT.COMの事務所でトイレ休憩を取り、そこに住み着く猫ちゃんと少々たわむれ(その1の猫)、町の中に存在する唯一の「生きている教会」を訪問しました。

ここは全くのゴーストタウンというわけではなく、この地域の管理のために数百人の政府関係の方が住んでいます(1ヶ月ごとだったか外部とローテーションがあるそうですが)。なので、もちろん教会が必要だし、町も生活の香りがしました。

教会は小高い丘の上にあって、反対側は結構な崖っぷち。そこから下を眺めると本当に広大な森林が広がっていて、緑のにおい。先述の「動植物のサンクチュアリ」という言葉が実感できました。

その風景を眺めつつ、セルゲイさんは「世界で最も有名な町であるし、こんなに美しい。間違った恐れを払拭して、(広島みたいに)皆が学べる平和公園にできるといいのに」。と語っていました。原子炉の処理がおわってしばらくたったら、それは可能かもしれませんね。

少し歩いて、プリピャチ川の川辺に。さび付いた船がいくつも浮かんでいました。

River_old_ships 原子炉には巨大な冷却池(←本当に巨大)を併設する必要があるので、条件にあうこの辺りが選ばれたんですよね。

この町は原子炉職員のために作られたプリピャチとは異なり、それ以前から歴史があって、この川を使って外部と通じるつつひっそり暮らせるということで、ユダヤ系の住民が発展させて町とのことでした。

私にはわからないのですが、アメリカ人の参加者が町の家を見て「だからユダヤ風の建物なんだね」と語っていました。

さて、チェルノブイリ町からチェルノブイリ原発のあるプリピャチに出発です。その5では追悼碑と原子炉訪問(ビジターセンター)について書きます。

そして、その6でプリピャチの市内散策を書いて、最終着地できそうです。


☆ウクライナのお菓子「シールニキー」の作り方&スメタナの謎解決☆

2009年05月24日 | ウクライナ

Siirnikiall こちらに来た初日のお昼ごはんに食べ、たちまち気に入ってしっまった、「シールニキー」=ウクライナ風カッテージチーズパンケーキ。

5月16日の土曜日、念願かなって、近所に住む同僚のマーシャ宅にお邪魔して作り方を教えてもらいました(残業しているとよく家から持ってきたシールニキーを分けてくれる)。簡単なのでぜひお試しください。

ちなみにシールとはロシア語&ウクライナ語でチーズのことです。



<材料:直径7-8cmのもの12個位:↑ができた量です。>

1. カッテージチーズ(脂肪分9~15%のもの) 460g (=230gx2 約2ポンド)
(家庭によっては、脂肪分45%位のものを使うとか。)
2. 卵黄 1個分
3. 砂糖 大さじ2-3杯 (6の甘味を考えて調節)
4. 小麦粉 大さじ2-4杯 (はじめは2杯から)
5. 塩・シナモン・バニラパウダー 各少々
6. オレンジの皮の砂糖漬け 適量 
(好みで干しブドウ他のドライフルーツやナッツに変えて楽しんでください。)
7. 成形時用の小麦粉とフライパン用油 少々
8. 好みでトッピング用ジャムやサワークリーム(なくてもおいしいです。)

<手順>

各手順の写真はサムネイルをクリックすると大きめの写真になります。

Siirniki_1_3 1. ボールに材料1-6まで入れます。小麦粉はまず大さじ2杯くらい、控え目に入れてください。




Siirniki_2_2 2. 大体まとまってくるまで手でやさしくこねます。つかんで持ち上げたら割れて落ちるくらいの硬さで、耳たぶよりもずっと柔らかい感じ。柔らかすぎて4の成形作業ができないようであれば少し小麦粉を足してください。



Siirniki_3 3. フライパンを熱して油を敷きます。大きめの平皿に小麦粉を少し入れます。フライパンが熱くなるまでの時間を利用して、2を小さいお団子(直径4cm位、好みで)にします。


Siirniki_4 4. 3の小麦粉をちょっと上下につけて、手で平たく伸ばします(厚さ1cm位、好みで)。






Siirniki_5 5. 4-5枚ごとに両面フライパンで焼きます(弱火)。焼いている間は蓋を利用して下さい。約10分位で出来上がりです。結構ふわふわです。冷めるとちょっとしまってきます。


Siirniki_6 6. 好みでサワークリーム(スメタナ)、ジャムなどを付けていただきます。

あったかいままでもおいしいですが(ふわふわもちもちチーズスフレっぽい)、冷めても、冷やしてもチーズケーキみたいでおいしいです。


Sumetana さて、今回のシールニキー教室にて、私の素朴な(あほな)疑問も解決!ロシア語&ウクライナ語で料理の友(ボルシチに入れたりする)サワークリームのことを「スメタナ」と呼ぶこと初めてを知ったとき私の頭にうかんだことは「あれ、じゃああのチェコの偉大な作曲家さんってサワークリームさんなの?」でした。そう思いますよね~。え?思いません?

聞いてみたら、サワークリームは「sumeTAna」 でモルダウの方は「SUmetana」で違う単語とのこと。

♪~ぼへ~みあのかわよ~もるだうよ~すぎしひのこといまもなお~♪すっきりしました~


☆補足: Inside Chernobyl: life goes on☆

2009年05月04日 | チェルノブイリ関連&訪問記

Goes_on_entrance_23日の投稿で触れた、シェフチェンコ公園でのパネル展「Inside Chernobyl: life goes on」に3日の夕方、もう一度じっくり鑑賞しに行ってきました。開催日は4月24日~5月8日です。

とても天気がよく気持ちが良かったです。

大きめの写真をいくつか投稿しておきます(サムネイルをクリックしてください~)。



Goes_on_n1枚目、北側から。

向こうにシェフチェンコ像が見えてます。逆から私は観てしまいましたが、内容的にこちらが入口でした。
Goes_on_s2枚目、南側から。冷却池から臨んだ全体像側が出口。

Goes_on_1 3枚目写真家のMichael Forster Rothbartさんのパネル展に寄せる言葉。ちょっと大きめですが文字の見える大きさで投稿してみます。見捨てられた死の世界ではなく、普通の人々が日常生活を送っている場であることと、そして将来への希望を伝えたい!という気持ちが伝わってきます。





Goes_on_dr 4枚目、個人的にいちばん興味深かった、脳神経科医さんのパネル。長期間の低レベル被曝が人体に及ぼす影響の研究をされている方。健康のためサウナに週一回通ったり自転車で走ったりしていらっしゃるそうです。長期的影響の研究進んでいるのですね。


☆チェルノブイリJuly 2008☆その3「準備の儀式」

2009年05月03日 | チェルノブイリ関連&訪問記

原発事故が発生したのが1986年4月26日。

先週、事故発生の日から23年目の日がありました。モスクワでは、国際的な追悼イベントもあったようです。身近なところでは、通勤路のシェフチェンコ公園の中に「Inside Chernobyl: life goes on」と書かれた大きな写真パネルがいくつも立っているのを見つけ、はっとしました。

現在の1号炉の管制室、今の4号炉、ビジターセンター、そして現在もそこで働く約3800人の姿と声、生活の場であるSlavutych市の様子を写した写真たち。ウクライナ語に加え英語の解説も付いていました。

公園は散歩や待ち合わせの場(シェフチェンコ像の足元)ですし、レストランや野外カフェもあるので、夜になるとかなり賑わいます。多くの人が足を止めて見入っていましたし、私も、訪問した時の心の揺れを思い出し、どきどきしながら鑑賞しました。

こちらにこの屋外パネル展のことが詳しく描かれてて、こちらからこの企画に使われた写真を含め2007年からチェルノブイリの今の「Lives-生」を撮り続けているMichael Forster Rothbartさんの写真がご覧になれます(フリーのメディアソースに提供されています)。

※パネル展については続く↑補足の投稿をご覧ください。

この写真と比べると、私の訪問記はどれだけ語れるか分からないのですが、この写真家の方もツアーを企画した方も、そのココロは「チェルノブイリは死んでいない。生きている。」ということなんですね。

決して蓋をしただけではなく、完全解決まで、今でもずっと努力がされている。そして、人の営みと、自然の力によって、事故の傷痕は消え、いつかきっと負の記憶が良い意味で薄れ、「ヒロシマ」のように平和を考える「象徴(記号?適切な日本語探し中)」となる日が来ると思いたいです。

今回は車内で鑑賞したビデオと、立ち入り禁止地区のゲートをくぐる前に停車した2箇所について書いてみます。

7時30分に市内のホテルRus前を発車したミニバスの中で、セルゲイさんからこの日の予定と注意事項(その1参照)に加え、同乗しているもうひとりのガイド、サーシャさん(ということは本名アレキサンドルさんか)の紹介がありました。彼は、子供のころ被災し、町を離れましたが、今は、「PRIPYAT.COM」で仕事をしているとのことです。プリピャチ市訪問時には彼がメインのガイドとなり、昔の彼の家にも訪問する予定との説明がありました。

その後、車内では、事故前のプリピャチの映像を鑑賞しました。原子力発電所と並行して職員とその家族のために開発された町。団地が立ち並び、想像していたよりずっとおしゃれな人々が行き交い、車が走り、子供たちは遊び、お祭りがあり、温かい豊かな生活があったことが分かりました。ソ連の中では格差はどのくらいあるものなのかわかりませんが、エリート技術者が集まっていたのかもしれません。

Muzey「この映像と今との違いを観て何かを感じてほしい」との思いを受け取りました。準備の初めの1歩です。

約2時間後(9時30分ころ)、昼食兼トイレ休憩のため、チェルノブイリ郊外のキャンプ場に停車しました。

気になる空気中の放射能数値はキエフ市内以下。緑美しいところでした。ここがもうチェルノブイリ?

ここで放射能量について再度説明がありました。チェルノブイリは決してすべてが死の土地なのではなく、事故で広範囲に飛散した多くの放射線物質の半減期は非常に短く(ここは記憶があいまいなので調べてまいりました。以下カッコ内「」はこちらのWiki「放射能の長期的傾向」からの引用です。「事故の直後においては健康への影響は主に半減期8日の放射性ヨウ素によるものだった。」とのことなので、セルゲイさん達初めの清掃部隊はその前後に現地に入ったことになりますね。「今日では、半減期が約30年のストリンチウム-90と増え続けるセシウム-137による土壌汚染が問題になっている。」23年経って、現在も主に炉内に残り放射能を出し続けている物質の質が変わってきているとのことでしょうか。WiIki上ではまだ4号炉に入り込む雨水による汚染継続の心配が書かれていますが、採られている対策についての説明もこのツアー内であったので、その5の4号炉訪問の記事にわかる範囲で書きたいと思います。)今も不完全な「蓋」から洩れる放射能の直接影響の無いところでは決して生命の墓場ではない。むしろ、人以外の動植物にとっては人の生活による汚染がまったくなくなったため、貴重な動植物のサンクチュアリ状態になりつつあるとのことでした。

長期的な影響についてはまだわからないことも多いようですが(人の健康、生態系、社会的心理的)、このツアー内で目にし理解したことについて、その4に書くチェルノブイリ市内の教会訪問にて補足したいと思います。

こちらで、私営の民族学博物館を見学しました。↑木製生活道具なんて日本のものとそっくり。そういえば、ウクライナの伝統的家屋って日本の藁ぶきの家みたいで、水車小屋とかもそっくりです。このあたりの話はまたいつか。

Cafe_2そのすぐ隣の小さいカフェ(←店名「ノーチラス」)でなかなか素敵なお昼ごはんが用意されていました。この先のために、残った果物やお水を拝借。セルゲイさんはパンをたくさんもらって(この理由は4号炉訪問にて明らかになります)再出発です。

森林地帯を抜けるようにまっすぐ走る道路を15分程走って、何もないように見える道端に停車しました。セルゲイさん曰く「今は見る影もないが、このあたりにずらっと、事故後の清掃作業に参加した部隊の野営地があった」とのこと。そしてここが、セルゲイさんが率いていた第25化学生物事故対策部隊の野営地だったとのこと。

立札がありました!

No_25 今は、僅かに建物の一部が残り、木が生え苔が生えた残骸から過去を思い出そうとしている。「事故の当日、多くの住民は事実を知らず、すぐに戻れると思い避難したので、数日後、家族の代表者のみ、貴重品を取りにごく短時間だけ戻ることを許された。その後、原子炉の封鎖対策部隊の他に、1週間後(すいません記憶があいまいですが←によっても5月3日~と思います)、残った食糧が腐り病害虫や疫病が発生することを防ぐための部隊が投入された。それが我々だ。知っているだけでも48人の仲間が(任務中?)に亡くなった。」と説明しました。

停車場ごとに最終目的地(4号炉とプリピャチ)に至るまでの準備を整えていくのは、私たちだけではなく、多くのトラウマを抱えながらもガイドを務めるセルゲイさんもなのだと思います。ここ訪問は彼にとって必要なな儀式のように思われました。

No252 辛い記憶はだれにでもあって、それが大きいものであればあるほど忘れなくては生きられないひとも多くいるでしょう。しかし、そこを生き抜いたことが自分という人間の一部であり、誇りであって、その体験とともに生きることを選ぶひとも沢山いますよね。でもその選択って、自己矛盾やPTSDを抱え続けることにもなりますよね。

人災と自然災害という大きな違いはありますが、私がいろいろ新しいことを決断する時、14年前の1月震災体験ははいつも重要な要素になります。でも、口にしてしまうと、もっともっと辛い体験をしたすべての方に申し訳ないことをしたようで(語る資格なし)、特に面接などでその説明をしてしまうとと、災いを利用したようで何日も罪悪感に深く沈みます。

彼は、責任のある立場で最も辛い体験をいくつも乗り越えたからでしょうか、また十分な専門知識を持っているからでしょうか、多くの被災者の代弁をする、その重い任務を担う強さを尊敬せずにいられません。でも、だからこそ時々原点に戻っての確認の儀式が必要のではないかなと思いました。

さて、その4ではゲートをくぐってチェルノブイリ市内(森林、記念碑と教会)の様子まで書きたいと思います。


☆チェルノブイリJuly 2008☆その2「呉越同舟」

2009年03月24日 | チェルノブイリ関連&訪問記

Radiation_caution さて、その2ではまずとてもココロに残った帰り道のバスの中でのこと。
2時間があっという間に過ぎました。

感想交換は参加者(12人位)が順に感想をマイクで語り、ガイドのセルゲイさん(クリーンアップ作戦に参加した部隊長の1人)がコメントしてゆくという形で進行していきました。

多くの若い参加者からの「奇形の植物や動物」に関する誤解が全くの間違いとわかった、あんなにすべてのものに接近し、詳しく説明してもらえるとはおもわなかった、感謝している、とにかく圧倒されたという感想に交じって、アメリカ人のベラルーシ側の被災地を訪問したこともある、という研究者の方が「この隠しきれない前代未聞の大事故」とグラスノスチ(情報公開)」そして「ソ連崩壊=冷戦の終結」との関連を語りました。

確かに、歴史の流れ的にはそうなのですが(↑のWikiのグラスノスチの説明からも一般的な歴史解釈なのでしょうけれど)、失われた生命の数、その被害を食い止めるために23年間費やされている努力と人の思いをに推察すると、何とも胸が苦しくなります。

きっとセルゲイさんもそう感じるところがあって、次に述べる質問を日本人の私にしたのだと思います。

ついに私の番が来て、「日本人は被爆国としてチェルノブイリの被害についてはとても共感を持っている」ということ、見たことを消化して多くの人に伝えたい、とい言うと、彼は

「PC的(Politically Correct)に難しいかもしれないけれど、ここで日本人の君に質問したい。第二次世界戦争を終わらせるのには原爆投下が必要だったと思うかい?」

と尋ねました。アメリカ人の参加者も数人いたので、答えるのは難しかったれど、なんとか、(カッコないは言葉にはできなかったけど伝えたかった内容です)

「ちょっとPC的に答えるのは難しい質問です(周囲笑)...確かに、あの原爆投下がなければ、あの集団心理状態の中、日本の降伏はもっと遅くなっていたかもしれない。でも、まず、もともと原爆はドイツに落とすために開発が進められていたけれど、彼らは4月に降伏してしまったので間に合わなかったということ、それから、広島にはウラン型、長崎にはプロトニウム型が投下されたことを考えると、私は(戦争を終わらせるという目的以外に)実験的な意味があったのではと思わざるをえないです。」

と答えました。後から考えると、「冷戦を見越してソ連に力を示す必要があった」と加えていれば、上のアメリカ人の感想とも話がつながってもっとよかったかなとは思いますが。

そして、その後のセルゲイさんの言葉がとてもよかったです。

「アメリカ人、イギリス人、ウクライナ人、ロシア人、日本人、かつての敵が今一緒にバスに乗っている。同じ痛みと感動を共有した。このことを忘れないで欲しい。」

そして別れ際にしてくれたきつーい握手じーんときました

やはり、現場を見た彼からすれば、情報の解放、思想の自由、冷戦終結にはあの犠牲が必要だったとは思えないことでしょう。多くの日本人が原爆投下が大戦終結と今の日本の繁栄に必要だったとは思えないのと同じく。

でも、国際社会では(客観的に)完全論破できない苦しみ。

この2つの話題の関連性とこのいたたまれない気持ち、せめてあの研究者さんの心には響いたかな…と祈りつつ、その3に続きます。

写真はチェルノブイリ市郊外にあった注意札。もう空気中の放射線レベルはキエフ市内の2-3倍位まで下がっている地区です。ただ静かに緑の中にたたある感じ。

そうそう上記の元「呉越同舟」バス状態ですが、実は私のドイツ人の同僚が体調不良で参加を当日キャンセルしたんです。彼女が一緒だったらもっと完璧なシチュエーションだったし、彼女の感想も聞きたかったなぁと思います。