明日に向けて

福島原発事故・・・ゆっくりと、長く、大量に続く放射能漏れの中で、私たちはいかに生きればよいのか。共に考えましょう。

明日に向けて(285)封印された原爆報告

2011年10月07日 23時30分00秒 | 明日に向けて(251)~(300)

守田です。(20111007 23:30)

福島原発事故と放射能汚染の現実に対して、これから私たちが何をしなければならないかを考える時、私たちにとって大きな手掛かりになるのは広島・長崎での経験です。

中でもこの現実に対して、国が、そして原爆を投下したアメリカが、何を行ったのかということは、今、政府が取っている行動や、その背後で指図をしているアメリカの動向を解析する上で、非常に参考になります。

アメリカは一度も原爆投下を謝罪していません。また日本政府も、一度もアメリカに謝罪を要求していません。これほどの戦争犯罪が未だに正されずにいる。そしてその延長上に、現代社会があり、核兵器があり、そうして原発があります。

この脈絡の中に、放射線学も語られてきた。とくに放射線の人体への影響は、広島・長崎で起こったことの「解釈」の上に、論としての定立を見てきました。

その広島・長崎の経験が、戦後65年にわたって、非常に歪められてきたこと、真実が隠されてきたことが、昨年8月6日に放映されたNHKドキュメント「封印された原爆報告書」で、非常に鮮明に描き出されました。

僕はこの映像を、今年の8月4日深夜(0時15分より)の再放送でみて、それこそ鳥肌が立つような思いがし、すぐにツイッターで放映されている内容の断片を報告し続けました。

その後、この映像を探していたところ、友人が録画してくれていたものがあり、渡してもらえることができ、何とかそれを文字起ししたいと思ってきました。

そして11月19日に、京都に内部被曝の危険性を訴え続けている矢ヶ崎克馬さんを呼ぶことになり、企画の呼びかけが出されたことに合わせてぜひこの内容をシェアしたいとノートテークを実行しました。

みなさま。ともあれ内容をご覧ください。驚愕の事実が語られています。僕は改めて、「にんげんをかえせ」「核を許すな」の思いを強くしました。重要な番組を提供して下さった番組制作スタッフの方がたにお礼がいいたいです。

以下、いつものことですが、要約的なノートテークです。
また読みやすいように、小見出しを僕が入れています。このことをふまえて、ご覧ください。

********************************

封印された原爆報告書
NHKスペシャル 2010年8月6日放送
http://www.dailymotion.com/video/xkca1f_%E5%B0%81%E5%8D%B0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%8E%9F%E7%88%86%E5%A0%B1%E5%91%8A%E6%9B%B8_news


はじめに

アメリカ国立公文書館の資料室にあるフィルムが眠っていた。そこに映し出されたのは被害の実態調査に借り出された日本の日本の医師と科学者たちだった。その数1300人。被ばく地でしか得られない貴重な調査が行われていた。

報告書は全部で181冊。1万ページのおよぶ。戦後に日本を占領したGHQの資料の中におさめられていた。そこには被爆国日本自らが調べ上げた被害の実態が描かれていた。

学校にいた子どもたちがどこでどのようになくなったのか。教室の中の位置が描かれていた。また放射線が人間の臓器にどのような影響をおよぼすのか。200人の超す被爆者の遺体を解剖した記録もあった。

調査の対象となった被爆者は2万人。治療はほとんど行われず、原爆が人体に与える影響が調べられていた。報告書はすべて日本人の手で英語に翻訳されていた。この貴重な記録はすべて原爆を落とした国、アメリカに渡されていた。

われわれは数少ない関係者を取材していった。そこから浮かび上がってきたのは、被爆者の治療よりもアメリカとの関係を優先させていた日本の姿だった。

元アメリカ調査団の医師は語る。
「日本の報告書の内容はまさにアメリカが望んでいたものでした。」

元日本陸軍軍医少佐は語る。
「早く持って行った方が心証がいいだろうと。原爆のことはかなり有力なカードであったのでしょうな。」

封印されていた原爆報告書から、原爆調査の実態を明らかにする。


旧陸軍病院宇品分院にて

爆心地から4キロ離れたところに、当時のままに建っている建物がある。旧陸軍病院宇品分院。のちに181冊にまとめられる最初の調査がここで行われた。収容された被爆者は2ヶ月間でのべ6000人。むしろのような布団の上に寝かされていた。

大本営の元、宇品での調査を指揮したのは、陸軍省医務局だった。原爆投下2日後の8月8日に広島に調査団を派遣。敵国アメリカが使った新型爆弾の調査に乗り出していた。調査の結果は1冊の報告書にまとめられた。タイトルは「原子爆弾による広島戦災医学調査報告」。被爆者がどのように亡くなっていくのか、詳細なデータと共に記録されている。

調査を受けた被爆者の一人が生きていた。沖田博さん(89)。宇品の病院で生死をさまよった。当時、広島の部隊にいた沖田さんは、爆心地からおよそ1キロの兵舎で被ばく。突然、体に異変があらわれ、宇品に連れてこられた。病院に入っても治療はほとんど受けられず、毎日、検査ばかりが続いた。「こいつはいつまでいきいるか確認するためにみていたと思う」と沖田さんは語る。

沖田さんの様子も記録されていた。高熱を出し、白血球の数は通常の4分の1まで下がっていた。家族の懸命な看病で、一命をとりとめたが、その後は、恢復の過程が調査の対象となった。嫌がる沖田さんに構わず、さまざまな検査が2ヶ月間、続けられた。

「お前、モルモットじゃ!と言われたような気になりました。こんちくしょうと言いたいのだけれど言えない。くそっと思いながら態度には出せませんでした」と沖田さん。


アメリカ調査団へ日本の協力

広島と長崎に相次いで投下された原子爆弾。その年だけであわせて20万人を超す人たちが亡くなった。原爆投下直後、軍部によって始められた調査は、終戦とともに一気に拡大した。国の大号令で、全国の大学などから1300人を超す医師や科学者が集められた。調査は巨大な国家プロジェクトになり、2年以上の歳月が費やされた。

なぜ自ら調べた原爆被害の記録をアメリカに渡したのか。われわれはアメリカ公文書館に記録された報告書の中に答えを見出さんとした。するとある人物の名が浮かび上がってきた。アシュレー・オーターソン大佐。マッカーサーの主治医で終戦直後に来日したアメリカ原爆調査団の代表だった。

オーターソン大佐とともに日本で調査にあたった人物がカリフォルニアにいた。フィリップ・ロジ氏。92歳。調査団の中の最も若い医師だった。ロジ氏は、調査団がつくとすぐに日本側が報告書を渡したいと申し出てきたと語る。

「オーターソン大佐は大変、喜んでいました。日本がすぐに協力的な姿勢を示してくれたからです。日本は私たちが入手できない重要なデータを原爆投下直後から集めてくれていたのです。まさに被爆国にしかできない調査でした。」

報告書を渡していたのは、原爆調査を指揮する陸軍省医務局の幹部だった。その中の一人が小出策郎軍医中佐だ。30歳の若さで医務局入りしたエリートだった。陸軍が最初に行った報告書もすべて英語に翻訳されてオーターソン大佐にわたされていた。なぜ小出中佐は終戦前から調べていた内容をアメリカに渡したのか。

当時の内情を知る人物が生きていた。陸軍の軍医少佐だった三木輝雄さん。94歳。医務局長を父に持ち、終戦時は大本営に所属していた。報告書を提出した背景には、占領軍との関係を配慮する日本側の意志があったという。

三木さんは語る。
「いずれ要求があるだろうと。その時はどうせもっていかなけりゃいかん。それなら早く持って行った方が心証がいいだろうと。それで要求がないうちにもっていった」

「-なんのために心証をよくしようとしたのでしょうか」
「731(部隊)のこともあるでしょうね。」


三木さんがいう731部隊は、生物・化学兵器の効果を確認するために、満州で捕虜を使った人体実験を行った特殊部隊だ。ポツダム会談で、連合国は、捕虜虐待などの戦争犯罪を厳しく追及することを確認していた。小出中佐は、陸軍の戦後処理を任された一人だった。

終戦を迎えた8月15日に小出少佐に極秘命令が出ている。
「敵に証拠を得られると不利となる特殊研究はすべて証拠を隠滅せよ」

大本営にいた三木さんは、動揺する幹部の姿を間近にみていた。戦争犯罪の追求から逃れるためにも、戦後のアメリカとの関係を築くためにも、原爆報告書を渡すことは「当時の国益に叶うものだった」と言う。

「新しい兵器を持てば、その威力が誰でも知りたいものですよ。カーで言えば有効なカードがあまりないので、原爆のことはかなり有力なカードだったでしょうね」と三木さん。

自ら開発した原子爆弾の威力を知りたいアメリカ。戦争に負けた日本。原爆を落とした国と落とされた国。二つの国の利害が一致した。


アメリカがもっとも欲しかったものは・・・

原爆投下から2カ月。アメリカの調査団が入ってくると、日本はその意向を強く受けて、調査に力を入れるようになる。小出中佐にかわって、アメリカとの橋渡し役を務めるようになったのが、東京帝国大学の都築正男教授だった。放射線医学の第一人者で、当初から陸軍とともに調査にあたってきた。

報告書番号14。都築教授が陸軍と共同で作成したこの報告書の中に、同時アメリカが最も必要としていたデータがあった。原爆がどれだけの範囲にいる人を調べた記録だ。対象となったのは、広島市内で被ばくした17000人の子どもたちだった。どこで何人死亡したのか、70か所で調べたデータが記されている。

爆心地から1.3キロにいた子どもたちは、132人中50人が死亡。0.8キロでは、560人全員が死亡している。8月6日の朝、広島市内のあちこちで、大勢の子どもたちが学徒動員の作業に駆り出されていた。同じ場所でまとまって作業をしていた子どもたちが、原爆の殺傷能力を知るためのサンプルとされたのだ。

調査の対象となった一つが、旧広島市立第一国民学校(現段原中学校)だ。そこに通っていた佐々木妙子さん、77歳。当時1年生で、空襲に備えて防火地帯を作る「建物疎開」の作業に動員されていた。学校には慰霊碑が建てられている。屋外で作業にあたっていた175人が被ばくした。佐々木さんのすぐ隣にいた親友、上田房江さんも亡くなった。

「ほんとごめんね。うちだけ生きてから。一生懸命、それこそお国のためじゃないけれど、疎開の作業に出て、帰るときには姿もないようなことではあまりにむごいですよ」

報告書によると、第一国民学校の1年生175人のうち108人が死亡。佐々木さんを含む67人が重傷となっている。

都築教授たちが調査を行った背景に、アメリカからの要請があった。アメリカ調査団の代表オーターソン大佐がこのデータに強い関心を示していた。
ワシントン郊外にあるアメリカ陸軍病理学研究所、日本からのデータはすべてここに集められた。
オーターソン大佐は調査の結果を、「原爆の医学的効果」と題する6冊の論文にまとめていた。

研究所所員
「第6巻には子どもたちの被害のデータがあるので、政治的配慮から機密解除が遅れました」


17000人の子どもたちのデータから得られたのは1枚のグラフだった。爆心地からの距離と死者の割合を示す死亡率曲線だ。原爆がどれだけの人を殺傷できるのか、世界で初めてあらわされたこのグラフは、アメリカ核戦略の礎となった。

こうしたデータを元に、同時、アメリカ空軍が行っていたシミュレ―ションがある。ソ連の主要都市を攻撃するのに、広島型原爆が何発必要かを算出し、モスクワ6発、ウラジオストク3発、スターリングラード5発という試算を出していた。

オーターソン大佐の研究をひきついだカリフォルニア大学名誉教授ジェームズ・ヤマザキ氏94歳は、死亡率曲線は、広島・長崎の子どもたちの犠牲がなければ得られなかったと指摘し、次のように語った。

「革命的な発見でした。原爆の驚異的な殺傷能力を確認できたのですから。アメリカにとって極めて重要な軍事情報でした。まさに日本人の協力の賜物です。貴重な情報を提供してくれたのですから。」

建物疎開の作業中に被ばくし、多くの同級生を失った佐々木妙子さん。友人たちの死が、日本人によって調べられ、アメリカの核戦略に利用されていたことを初めて知った。

「ばかにしとるね、いいたいです。私は。手を合わせるだけのことです。私はもう何もできません。」


アメリカのためにだけ調査がつづけられた

日本が国の粋を集めて行った原爆調査。参加した医師はどのような思いで被爆者と向かい合ったのか。山村秀夫さん、90歳。都築教授ひきいる東京帝国大学調査団の一員だった。当時、医学部を卒業して2年目だった山村さん。当時、調査はすべてアメリカのためであり、被爆者のためという意識はなかったという。

「結果は日本で公表することももちろんダメだし、お互いに持ち寄って相談することもできませんから、とにかく自分たちで調べたら全部、向こうにだすと」

山村さんが命じられたのは、被爆者を使ったある実験だった。報告書番号23、山村さんの報告だ。被爆者に血圧を上昇させるアドレナリンを注射し、その反応を調べていた。「12人のうち6人はわずかな反応しか示さなかった。」山村さんたちはこうした治療とは関係ない調査を毎日行っていた。調べられることはすべて調べるというのが、調査の方針だったという。

「生きている人が生体にどういう変化が起きているか、少しでも何かの手がかりを見つけて調べるということで、そのときはそれしか考えられなかった。今となってみたら、もっと他にいい方法があったのかもしれないけれど、今と社会的な状況が全然違いますから・・・」


亡くなった被爆者も調査の対象になった。亡くなった被爆者は仮設の救護所などに運ばれて次々と解剖されたという。200人を越す解剖結果は14冊におよぶ報告書にまとめられている。そのうちの1冊に子どもの解剖記録が残されていた。報告書番号87。解剖されたのは、長崎で被ばくし、亡くなったオノダマサエさん。11歳の少女だった。

マサエさんの遺体はどのようないきさつで提供されたのか。長崎にいる遺族を訪ねた。おいにあたる小野田博行さん。正枝さんが解剖された経緯を、博行さんは、父、一敏さんから聞いていた。被ばくした正枝さんは、長崎市中心部の救護所に運ばれていた。兄、一敏さんがかけつけたとき、正枝さんは高熱にうなされ、衰弱しきっていたという。

「亡くなる数時間前に、兄ちゃん、家に連れて帰って・・・その言葉が最後の言葉だったようですね」と博行さん。

一敏さんは、正枝さんの遺体をおぶって連れて帰ろうとすると、救護所の医師たちが声をかけてきたという。

「将来のために、妹さんを解剖の方に預けてもらえないかと言われたようです。一度は断ったのですが、やはり親父もたくさんの亡くなった人を見ていますから、渡す気になったのではないかと思うのですよね。将来のためにという思いで」

被爆者のためにと預けた正枝さんの遺体。その後、どうなったのか、家族に知らされることはなかった。


正枝さんたち被爆者たちの解剖標本は、報告書と同時に、アメリカにわたっていた。放射線が人体に与える影響をより詳しく調べるために利用された。そして昭和48年、研究が終わったあとに、日本に返還され、今は広島と長崎の大学に保管されている。

小野田正枝さんの標本が長崎大学にあることが分かった。博行さんが写真でしか知らない正枝おばさん。正枝さんは肝臓や腎臓などを摘出され、5枚のプレパラート標本になっていた。

「これがおばさんですかねえ。こんな形でお会いするとは思いもしませんでした・・・」

アメリカでつけられた標本番号は249027。原爆被害の実態を伝えて欲しいと提供された11歳の身体が、被爆者のために生かされることはなかった。

原爆投下直後から始められていた国による被害の実態調査。この65年間、その詳細が被爆者に明らかにされることはなかった。平成15年からあいついだ原爆症の集団訴訟。自分たちの病気は原爆によるものだと認めて欲しいという被爆者の訴えに対して、国はその主張を退けてきた。


医学生の手記に綴られた入市被ばくの実態

30年以上、被爆者の治療に携わり、原告団を支えてきた医師の斉藤紀(おさむ)さん。181冊の報告書の中に、被爆者の救済につながる新たな発見はないか。斉藤さんが注目したのはある医学生が書いた手記だった。報告書番号51。ここにこれまで国が認めてこなかったある被ばくの実態が綴られていた。

手記を書いたのは門田可宗(よしとき)さん。当時19歳。山口医学専門学校の学生だった。門田さんが広島市中心部に入ったのは原爆投下の4日後だった。直接被ばくをしていないにもかかわらず、門田さんに原爆特有の症状があらわれた。いわゆる入市被ばくだ。長年、国は入市被ばくによる影響はないとしていた。しかし門田さんの手記に書かれていたのは、直接被ばくした人と同じ症状だった。

「8月15日、熱が39度5分まであがる。8月17日、歯茎とのどの痛みが増してくる。」

さらに8月19日、門田さんを不安に陥れる症状が襲う。体中に多数の出血斑が現れたのだ。

「私も原爆の被害者なのか。いや、そうではない。8月6日、確かに私は広島にいなかったではないか。不安のあまりその日は眠れなかった」

8月30日、門田さんは、被爆者の症状を記した新聞記事を目にする。そこに書かれていたのは、「全身に斑点状の出血があり」という自分と同じ症状だった。

「私の症状被爆者の症状とまったく同じではないか。ああ、なんということだ。私も原爆の被害者になってしまったのだ。」


斉藤さんは、門田さんの報告書がありながら、国がこれまで入市被ばくの影響を否定し続けてきたことに憤りを感じている。

「これまで言われてきた入市被爆者には原爆症はないのだという考え方が、根底から実は覆ってしまうというような意味をこれはもっている。そういった意味で65年もうずもれていた。うずもれさせられていた」と斉藤さん。


入市被ばくした女性の訴え

原爆症訴訟で、長年、国を訴えてきた被害者の中にも、門田さんと同じように入市被ばくした女性がいた。斉藤泰子さん(享年65歳)、3年前に被ばくが原因とみられる大腸がんで亡くなられた。

当時4歳だった泰子さんが、母、幾(いく)さん、97歳に連れられて疎開先から戻ったのは、原爆投下の五日後のことだった。親戚を探して爆心地近くに入り、一緒に歩き回ったという。
暫くすると泰子さんに、高熱や下痢など、被ばくによると思われる症状がでてきた。

幾さんは語る。
「連れて来なければそんなことはなかっただろうと思うのですけれど。ほんと悪かったなあと、今でも後悔しています。」

その後、白血球が減少するなど、原爆の後遺症に悩まされた泰子さん。59歳のとき、大腸がんを発症した。原爆症と認めて欲しいと訴えたが、国は被ばくはしていないと退け続けた。4年前、泰子さんは最後の法廷にのぞんだ。そのときの言葉だ。

「私は現在、末期がんで、余命いくばくもないと医師から言われております。もう私には時間がありません。国は、私のような入市被爆者の実態を分かっていません。多くの入市被爆者が、私以上に苦しんでいます。」

勝訴判決が出たのは、泰子さんが亡くなってから3ヶ月後の、平成19年のことだった。幾さんは、門田さんの報告書の存在がもっと早く分かっていれば、泰子さんが生きているうちに、救済されたのではないかと思っている。

「本当に、間に合いませんでした。かわいそうですよね。遅すぎましたね」と幾さん。


門田さんの思い

一人の医学生が書いていた入市被ばくの報告書。筆者の門田さんが岡山で生きていた。どのような思いで手記を綴ったのか。斉藤医師が聞きたいと訪ねた。

門田可宗(よしとき)さん、84歳。65年間、原爆の後遺症の恐怖と闘い続けてきた。心臓や腎臓や患い、療養中だった。

「日記を見ますと、8月19日に先生は出血に気がつかれていますが、ご記憶にありますか」「ありますよ。胸の辺りに皮下出血がありまして、こりゃいかんと、非常に危ぶんだんです。その当時はわかりませんので。」
「こうして訳されてアメリカにあることは」「まったく知らなかったですね。」

門田さんによると、日記を書いたのは山口の医学学校に戻ってからだった。山口まで訪ねてきた東京帝国大学の都築教授に日記を書くように進められたと言う。

「当時、研究者で名前がナンバーワンで出てきたのは都築先生ですからね。わざわざ山口医専おいでになったんです。直接面談しましたね、いろいろと質問されましてね。
そのときに、「今から日記を詳細につけるように」と言われたんですね。それで日記だけはずっとつけようと思ったのです。オーターソンというアメリカの軍医がきて、熱心に僕の日記を求めていることも分かった」

報告書の最後に門田さんは自らの意思を記していた。

「原爆症の研究のため、私はこの手記を書いた。もしこの手記が役立つようであれば非常に幸せである」。

「僕が残しておかないと誰が残すんだという気持ちがありましたね。医学に携るものとして多少、具体的なことを書いておかないと」。


一人の医師の使命として、自らの被ばく体験を後世に残そうとした門田可宗さん。その思いは、届かなかった。

65年前に失われた多くの尊い命。そして生き残った人たちが味わった苦しみ。その犠牲と引き換えに残された記録が、被爆者のために生かされることはなかった。世界の唯一の被爆国でありながら、自らの原爆被害に眼を向けてこなかった日本。封印されていた181冊の報告書が、その矛盾を物語っている。

コメント (1)
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