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緊張緩和と日本の外交

2015-01-26 17:57:37 | 昭和時代
今日は日本の歴史 昭和時代です。
こちらもお久しぶりですね~。(〃'∇'〃)ゝエヘヘ


米ソの対立を軸とした冷戦の下での国際的な緊張関係は1950年半ば頃から緩和していきましたが・・・

1962年・・・キューバ危機 が起こり


1963年・・・部分的核実験停止条約

1964年・・・中国核実験成功


そして、米ソの対立による戦争がまた起こってしまいます。

1965年 ・・・ベトナム戦争
       南ベトナムを支援するアメリカが北ベトナムを爆撃(北爆)など軍事的な介入
     

 いく(19)らなんでも (6)茶は(5)けない ベトナム戦争

※ アメリカは北ベトナムになんと255万トンもの爆弾を落としています。(太平洋戦争で日本が受けた爆弾の量は13万トン)でも、北ベトナムはめげることなく、ジャングルでのゲリラ戦を巧みに戦いアメリカ軍を撃破していきます。

アメリカ本国にてベトナム反戦運動が起きたことなどが原因となり、北ベトナムは大国アメリカに勝利することになります。

※ ベトナム戦争は『米ソの代理戦争』と言われ、ベトナム戦争をめぐって世界各国で大規模な反戦運動が発生し社会に大きな影響を与えました。1973年ニクソン米大統領はアメリカ軍を撤退させましたが、その後も北ベトナム+南ベトナム解放民族戦線と南ベトナムとの戦闘は続き、1975年のサイゴン陥落によってベトナム戦争は終戦しました。(ウィキペディアより)

その後、1976年には、南北ベトナムは統一されてベトナム社会主義共和国が成立しました。


≪べトちゃんとドクちゃんのお話≫

ベトナム戦争では、アメリカ軍が枯葉剤の散布をしたことにより、奇形児がたくさん産れました。
下半身がつながった結合双生児として生まれたベトちゃんとドクちゃんも、枯れ葉剤に汚染された井戸水をお母さんが飲んだためです。ベトちゃんが5歳で急性脳症を発症したため、治療のために日本に緊急移送され手術しました。その後ベトちゃんがが意識不明の重体となり、2人とも死亡してしまう事態を避けるためホーチミン市で分離手術しましたが、その手術を日本赤十字社が支援。手術は成功して、ベトには左足がドクには右足がそれぞれ残され、ドクちゃんには日本から義足が提供されたそうです。その後べトちゃんは26歳で亡くなっちゃうんですが、ドクちゃんは結婚して子どもにも恵まれたそうです。(ウィキペディアより)


同じ年
1965年 日韓基本条約
  大韓民国と国交正常化



佐藤内閣 非核三原則 ・・・「核兵器を持たず,造らず,持ち込ませず」で外交交渉を進め、

日本独立後も引き続き余りかの施政下におかれた沖縄では、
ベトナム戦争にともなう基地用地の接収とアメリカ兵の犯罪増加で、祖国復帰運動が本格化していきました。


1968年 小笠原諸島の返還


1969年 日米首脳会談(佐藤・ニクソン会談)で、「核抜き」の沖縄返還を合意


1971年 沖縄返還協定 調印 佐藤栄作内閣

(1)番(9)しんだ沖縄に こんな嬉しい事ない(71)ねん 沖縄返還♪協定バンザイヾ(´▽`)ノ



1972年5月 沖縄の日本復帰 実現  

・・・覚えてますよ~。子どもながらに、それまで沖縄は車が右側通行で、沖縄に行くにパスポートが必要だったのに驚いた記憶があります。

しかし、多くの県民の期待に反して、広大なアメリカ軍基地は存続することになりました。





1972年 日中共同声明 田中角栄内閣 ・・・中国との国交正常化  (中国:周恩来)

行く(19)ね中国 なに(72)があっても 日中共同声明だもん 



その後も、日中両国は友好関係を深めて・・・

1978年 日中平和友好条約    福田赳夫 内閣 

※ 内容は基本的に日中共同声明の文面を踏襲したものとなっています。主権・領土の相互尊重、相互不可侵、相互内政不干渉が記述されているのが特徴。中国側は賠償金請求を放棄する代わりに、日本側からODA等の巨額な経済援助を引き出しました。(ウィキペディアより)


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