大いなるものにゆだねて~私のアルジュナへ

バガヴァッド・ギーターの中の、クリシュナとアルジュナの対話を現代風に紐解く。悩める全人類に贈る究極のメッセージ。

今のアルジュナ(26日)を読んで~献身(バクティ)の道

2010-03-28 04:54:56 | 日記
今のアルジュナ(26日)を読んで

憐れみに覆われ悲しみに満たされて憂いをたたえ涙にあふれたアルジュナの目は、まさにバガヴァッド・ギーター第2章1節のアルジュナの状態と同じものだと感じました。
第2章
詩節1:サンジャヤは言った。
このように悲哀を感じ、涙に満ちた眼を曇らせて沈みこむ彼にクリシュナは次のように言った。
詩節2:聖バガヴァッド(クリシュナ)は告げた。
危急に際し、この弱気はどこからあなたに近づいたのか。アルジュナよ、それは高貴な人の好まぬもので、天に導かず、不名誉をもたらす。
アルジュナよ、女々しさに陥ってはならぬ。あなたにふさわしくない希小なる心の弱さを捨てて立ち上がれ。敵を焼き尽くすものよ。

この後、アルジュナは尊敬するクリシュナに帰依できる状態にまで高まります。この高まっていくという依存の状態になるまで、アルジュナはクリシュナに問い続けます。
そして、詩節7では、悲哀のために本質は損なわれ、ダルマ(義務)に関して戸惑い、私はあなたに問う。善と悪とを私にはっきり教えていただきたい。私はあなたの弟子である。あなたに寄る辺を求める私を教え導いてくれ。
詩節8:というのは、感官(五感)を涸らす私の悲しみを取り除くものを知らない。たとえ、地上において比べることのできない繁栄した王国を得ても、また神々さえ支配する力を得たとしても。

真実を探求する人間が身動きできない状態に陥りそれに浸り沈みますが、それは、生命に対する根本的な解決策が見出せないからです。
これまでの自分の小さな意識、価値が、広がり深くなるとき、築き上げた古い価値が崩壊します。
この状態にならなければ英知は授けることができません。
進んで受け入れようとする人にしか英知は伝えられません。
それはその準備ができているかどうかで判断されるのです。
この準備の状態とは、師を信頼して一途に献身しているかどうかで判断されるのです。
また弟子のほうも、師の心に自分の心を合わせ努力するからこそ、師に喜ばれ愛されます。
そして英知は流れ始めます。
人を愛するという気持ちと、人を殺すという行為さえも、愛の光の中で統一されるほどの意識状態に達することが必要です。
愛するという気持ちと殺すという気持ちの間にあるギャップの意識状態に達することが必要です。
しかし、涙を浮かべた憂いのある目は最高に輝いています。その心は機敏な状態が維持され愛が溢れています。
尊主クリシュナはアルジュナに優しく励ましながら啓発へと導きます。
アルジュナは相対世界の中のギャップの中で戸惑っていますが、尊主クリシュナは、「それはたいしたことではない」と微笑みながら本質を語り始めます。
ここに愛の流れを感じます。
この愛の流れが一度始まると止まることなく流れ続けます。

人の価値観はその意識のレベルによります。外見がどのようなものでも、ブランドもので着飾っても、その意識を知ればどのような価値で外見を作っているのかがわかります。
例えば時間の観念もその意識レベルによって異なっています。
この、1分1秒の刹那をどう感じるかは人それぞれ違っていて当たり前なのですが、ほとんどの人が自分の価値基準に照らし合わせることしかできていません。
そのように自分の価値基準しか持てない視野の狭い人間にとって、真実の「私」の価値は偉大です。それは通常の時間の観念を超えています。
真実の「私」の価値とは崇高です。真実の「私」の価値とは光の道を歩くことです。真実の「私」の価値とは「神」を知り、「神」を求め、「神」にひれ伏し、「神」との一体を成し遂げることです。自分の内側に崇高な価値を認めることができます。
自分の内側に崇高な価値を認められるようになると、今の「私」が想像しえる可能性の価値が広がっていきます。知るということがあり、気付くというインスピレーションが高まります。

真剣に情熱を持って「私は知りたい!」と望むとき、その人は知る道を歩いているといえます。すでに知っている(英知在る)人の言っていることが最初はピンとこなくても、「私は知りたい!」と強く願えば知っている人が進んでいる同じ光の道を歩んでいることになります。

後は時間の問題です。その人の人生は必ず光で満たされます。

アルジュナのブログ
http://ameblo.jp/kurisyunaarujyuna/day-20100326.html