大いなるものにゆだねて~私のアルジュナへ

バガヴァッド・ギーターの中の、クリシュナとアルジュナの対話を現代風に紐解く。悩める全人類に贈る究極のメッセージ。

23日のアルジュナの日記を読んで~自分の存在価値

2010-03-24 06:29:23 | 日記
23日のアルジュナの日記を読んで~自分の存在価値

人の「存在」は、またその思考回路の中に、自分の価値(自分自身)を外側からの反応で認めたいという錯覚の欲求があるようです。
実はそうではないのに、なぜか?
自信がないのでしょうが、残念ながら多くの方々がそうだと思うのです。
まるで「私」という「存在」は、環境に作られてきたと思っているようです。

この万人に与えられている「私」は、もっとも感謝すべき、奇跡的な「存在」で、
この「存在」は、「神」そのものです。
これは崇高で、私たちは「神」の存在まで高まることができます。
その可能性を秘めた奇跡的な「私」なのです。
それをほとんどの人が知らずに生きています。

バガヴァッド・ギーターの6章まで読めば明らかになるのですが、私たちは、「神」の内で生かされ、「神」を知り、それと一体となるために生きています。
それは内側に、極微に、もっとも静かに「存在」しているため、通常の意識では捉えられないかのようです。
しかし、私たちはそれと共に生きてきたし、今も生きています。
これに気付き、それを知り、それと一体になれば、あの最高の無限を知ります。

ここでクリシュナを演じさせていただいている3歳の頃の「私」は、自分の体験や思考、感情さえ客観的に観察する内側向きの心が在りました。
心の中に自然に芽生える色々な感情や様々な考えがとても不思議だったし、どう発展し、どう解消されていくのかを密かに見守ったり、また大人にダイレクトに質問したりと、今から思えば変わった子供でした。

ある時、私のこころの中に不安という得体の知れない状態が発見されました。
それは毎日毎日、朝起きると同時に確認されていました。
私は不思議に思い、憂鬱な気持ちの中、母や祖父に聞いてみました。
子供ながらに、多分これは不安という言葉で表現するのが一番伝わりやすいだろうと思い、
祖父に、「おじいちゃん、わたしの心の中の不安は何?この不安はみんなの心の中にも在るの?」
祖父は満面の笑みを浮かべながら、「大丈夫、大丈夫。お前の心の中に不安はないよ。」と言いながら私を抱きしめてくれていました。もちろん納得できず、実直な子供が屈折した人生を歩みかけたことはいうまでもありません(笑)。
それから15年以上過ぎた頃、私は自分の子供抱きしめながら、いつの間にか心の中の不安が消えていたことに気付きました。この、不安が消えたという現象は自然に進行していたのか、ある日突然なくなっていたのか考えました。

私たちの遺伝子は、古い記憶を深く刻んでいます。
そしてその太古からの記憶を抱えて今を生きています。
その記憶の中には善も悪も、幸福も不安も、たくさんの記憶を含有しています。そして私たちの神経系はその記憶と共に対応を学んできました。
だから、今の私たちの心の中に太古の記憶が蘇ってもおかしくはありません。
愛されて育ってきた1970年代の3歳児の心の中にも、言い知れぬ不安が蘇ることは決して不思議なことではないと。
そして、幸福が心の中を占領し始めるころ、また人を守り育てるという慈愛に満ちた責任感が生れる時、心の中に強さが育ち、不安というどうでもよいものが消えてなくなっているという心の現象を、「私」は確認し、人間の崇高さを少しずつ学んできました。
不安というものが、あたかもなかったかのように心を取り扱える強さは、果たしてどこからやってくるのでしょうか?そして、この強さを土台にした経験される自信、慈愛、信頼、責任感などの質はまさに「神」に含まれる質です。
バガヴァッド・ギーターにもあるように、私たちは、「神」を知り、「神」に近づき、「神」に愛され、「神」と一体するために生れてきています。
これは経験上間違いありません。
この至福の状態は、ただ、「私」の「実存」、極微のレベルへの感謝からの展開です。
実は皆それを生きています。失ったように見えるのですが、忘れてしまっているだけです。この無知が、社会現象となるうつ病や自殺という状態まで至ってしまうというなんとも愚かな現象が起きているのです。
この無知はとてつもなく言い知れない恐怖まで生み出す最悪なものです。
この至福の状態を、ただ、「私」の「実存」、極微のレベルへの感謝の状態が失われてしまっているから苦しみ恐怖し憑依され最悪を生み出すこととなるのです。
なんと愚かなことでしょうか。
愚かさという錯覚から地獄に落ちる人間は、何のために生れてきたのか真実を追究することさえできなくなってしまうようです。
まだましな人の場合でも、自分の価値を周りの人の反応でしか量れないようでは、いつまで経っても幸せを発見することはできないでしょう。
純粋な子供でさえ幸せを発見できる能力が与えられているのに、二十歳も過ぎた大人が幸福に至れないということは絶対にないはずです。
「私」が生かされている意味をシンプルにひも解いてみましょう。
答えは万人の、一人ひとりの心の中からしか出てこないのです。
進化した人の助言や聖書の言葉でさえ、きっかけを与えているだけです。
進化していない人の意識は進化した人の言葉の意味がわかりません。
まず、耳を傾け、思いを凝らし、自分の心を超えた真我に照らし合わせてみましょう。
そもそも真我が何かわからないという人のために、
神意は、アルジュナに質問をさせるでしょう。

気付きはあなたの中にあります。
あなた自身が「神」そのものなのです。

アルジュナのブログ
http://ameblo.jp/kurisyunaarujyuna/day-20100323.html