「わたしは平和を求めている。対立が起きるのは、わたしに逆らう者がいるからだ」
文藝春秋「紅茶を注文する方法」土屋賢二 p190 より
さる哲学者の奥様の言葉ですが、なかなか鋭いのではないか、と個人的に思ってます。
この「わたし」の部分を「最も客観的な基準」である「遺伝子」に置き換えたのが、議長サイドの発想だったのではないかな、と思います。
この「客観性」をどの程度評価するかというところで、議長とそのプランの評価が変わってくるかなぁ、と思います。
私個人は、運命プランは、
プランに従うか従わないか、という新たな対立軸を作るだけだと思っているのですが・・・従わない者は撃つ、というのでは、結局いたちごっこになるのでは、と思います。
運命プランは、作中で示された平和な世界へのひとつの答えであると同時に
その提唱者である議長を「父」として、
その「父」が与える「擬似的な幸福」を拒否して
自分の真に望むのもを選びとれるか、というのが作品としての流れだと思います。
議長に望むものの代用品をもらった子供達・・・
アスラン、シン、ミーア、レイ
彼らはそれぞれの形で議長を拒否しました。
アスランは脱走という形で、シンは、撃たれなかったオーブを受け入れることで、
ミーアは、「議長のラクス」である自分の命よりも「大好きなラクス」の命を守ることで、そしてレイは議長を撃つことで。
キラやラクスは、なにも与えられていなかったからこそ、
はじめから議長に敵対する形で登場し、そして最後の選択の部分では省かれていたのかな、と思います。
戻りまして、議長の最も客観的な基準を打ちたて、それに反するものを排除する、
という発想と対立をなすのが、オーブ及びAAの発想でした。
それが、オーブの理念である他者不干渉主義です。
「なにとどう戦わなければならないのか」
この「なに」に安易になにかをいれないことがキラが「わかった」ことなのではないでしょうか。なにかを撃てば、という発想自体を否定するのがキラだったのではないか、と思います。
キラ達が「対ロゴス戦」に参加しようとしなかったのは興味深いです。
なにかを撃って得られるもの、に懐疑的だったのではないかな、と思います。
キラ達の担うテーマに、コクピットはずしの戦い方や、戦場に乱入して武装の強制解除というのは、直接は関係ありません。
キラ達は、そういうやり方で戦争や世界を解体しようとしていたわけではなく、
あくまでオーブの理念をつなげるための手段としてあの方法をとったのだと思います。
キラの暴力は、かなり対物療法的ですが、
キラ自身、自分にできるのはそのくらいだ、という諦観があったのかもしれません。キラの暴力によって守られたラクスやカガリがなにをなすか、というのが主題なのだと思います。
キラが守ろうとしたオーブの理念は、
議長のやり方とは全く様相の違う発想。
他国の争いに介入しない、いわば「線引き」をするのがその発想なのかな、と思います。
デストロイによる民間人への無差別大量虐殺を例外とすれば、
キラはラクスとカガリがらみでしか動いていないわけで、
運命プランによる「客観的な基準」とオーブの理念による「武力行使の線引き」
が運命作中における、ふたつの提示だったのかな、と思います。
文藝春秋「紅茶を注文する方法」土屋賢二 p190 より
さる哲学者の奥様の言葉ですが、なかなか鋭いのではないか、と個人的に思ってます。
この「わたし」の部分を「最も客観的な基準」である「遺伝子」に置き換えたのが、議長サイドの発想だったのではないかな、と思います。
この「客観性」をどの程度評価するかというところで、議長とそのプランの評価が変わってくるかなぁ、と思います。
私個人は、運命プランは、
プランに従うか従わないか、という新たな対立軸を作るだけだと思っているのですが・・・従わない者は撃つ、というのでは、結局いたちごっこになるのでは、と思います。
運命プランは、作中で示された平和な世界へのひとつの答えであると同時に
その提唱者である議長を「父」として、
その「父」が与える「擬似的な幸福」を拒否して
自分の真に望むのもを選びとれるか、というのが作品としての流れだと思います。
議長に望むものの代用品をもらった子供達・・・
アスラン、シン、ミーア、レイ
彼らはそれぞれの形で議長を拒否しました。
アスランは脱走という形で、シンは、撃たれなかったオーブを受け入れることで、
ミーアは、「議長のラクス」である自分の命よりも「大好きなラクス」の命を守ることで、そしてレイは議長を撃つことで。
キラやラクスは、なにも与えられていなかったからこそ、
はじめから議長に敵対する形で登場し、そして最後の選択の部分では省かれていたのかな、と思います。
戻りまして、議長の最も客観的な基準を打ちたて、それに反するものを排除する、
という発想と対立をなすのが、オーブ及びAAの発想でした。
それが、オーブの理念である他者不干渉主義です。
「なにとどう戦わなければならないのか」
この「なに」に安易になにかをいれないことがキラが「わかった」ことなのではないでしょうか。なにかを撃てば、という発想自体を否定するのがキラだったのではないか、と思います。
キラ達が「対ロゴス戦」に参加しようとしなかったのは興味深いです。
なにかを撃って得られるもの、に懐疑的だったのではないかな、と思います。
キラ達の担うテーマに、コクピットはずしの戦い方や、戦場に乱入して武装の強制解除というのは、直接は関係ありません。
キラ達は、そういうやり方で戦争や世界を解体しようとしていたわけではなく、
あくまでオーブの理念をつなげるための手段としてあの方法をとったのだと思います。
キラの暴力は、かなり対物療法的ですが、
キラ自身、自分にできるのはそのくらいだ、という諦観があったのかもしれません。キラの暴力によって守られたラクスやカガリがなにをなすか、というのが主題なのだと思います。
キラが守ろうとしたオーブの理念は、
議長のやり方とは全く様相の違う発想。
他国の争いに介入しない、いわば「線引き」をするのがその発想なのかな、と思います。
デストロイによる民間人への無差別大量虐殺を例外とすれば、
キラはラクスとカガリがらみでしか動いていないわけで、
運命プランによる「客観的な基準」とオーブの理念による「武力行使の線引き」
が運命作中における、ふたつの提示だったのかな、と思います。