STONEWALK HIROSHIMA

ストーンウォーク・ジャパン2005のその後をお知らせします。

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「ストーンウォーク・ジャパン2005」1周年に寄せて(3)

2006年08月11日 | Weblog

(写真説明)米国からの主要メンバー。2005年8月6日、世界平和記念聖堂で、碑石が搬入された後に撮影。

多くのボランティアに支えられて

川嶋擁子 

ストーン・ウォーカーが7月2日、長崎爆心地公園をヒマワリ合唱団に見送られて目的地、広島平和記念公園にゴール・インしてからもう1年になりつつあります。

 振り返ってみますと、色々な思い出がゆっくりと私の胸中を昨日の出来事のように1コマ、1コマと通りつつあります。

 私個人が実際に行動を取ったのはたった34日間でした。この34日間の準備のために数え切れない5県の方々が計り知れないほどの時間とエネルギーを費やしてくださいました。

 ウォーカーの後には矢野氏がご自分の車で疲れた方、傷ついた方々のために乗せてくださり、又、休み時間には小粒のウメボシ、砂糖にひたした薄切りのレモンの皮をエネルギー回復のために配って居られました。私も何回も食べさせていただきました。それだけじゃありません。矢野氏はお腹具合の悪かった方や疲れ切ってる足やヒザを温灸で治療してくださいました。

 山本ご夫妻には車で多くのスーツケースを運び、一緒にケーソンを曳き、押し、ウダル暑さの中で「頭と首に!」と云ってアイスパックを。又、水のビンをわけてくださいました。

 橋本氏にも私個人の家族が言葉で云い表せないほどにお世話になりました。ストーンウォーカーのために汚れた洗濯物を集めてコインランドリーに持っていってくださいました。ある朝の事でした。私が自分の選択したスモックとスラックスを乾してあった大部屋へ取りに行きますとそれ等にきっちりとアイロンがかかって居りました。後程知った事は、橋本氏が、ストーン・ウォーカーが疲れているので、アイロンがかけてある服を着ると疲れもやわらぎ、気もちも良いことだろうと云ったやさしい思いやりの精神でした。

 ご自身もすっかり疲れて居られるのもかかわらず、チョウ・ホワン氏は、献身的にストーン・ウォーカーの足の水ぶくれを毎夜治療して居られました。私にはどなたかが差し入れしてくださった五本指のソックスのお陰で水ぶくれができず、チョウ氏に治療していただけなかった事が残念でした。ニコ・ニコ。彼が胸にぶら下げてる警笛、ピッ!ピッ!と、空にもとどく合図にあわせて台車を曳き、押して出発したのも忘れがたいです。又、日本山妙法寺上人たちの仏に加護を願う祈りの唱えも、今でも私の耳にひびいいて居ります。

 こうやって書き出しますと切りがありませんが、ボランティアの皆々様、若い、美しい5県の通訳たちは、ある日々は体が溶けてしまう様な日照りのもとで、又、ある日々は強風やドシャ降りの中で、坂に来れば彼女たちの「ワッショイ!」掛け声で元気づけ、励ましてくださいました。

 中村助教授にはストーンウォークの永久安置所を、はぐれてしまった愛する我が子を探す様にして見つけてくださいました。広島市長からストーンの平和記念公園安置拒否を受け取ったドット様は「国に持って帰ろう!」と決心していましたが、ある朝、彼女は私に安らんだ声で「未だ公表はしていないけど安置する場所がみつかったのよ!良いニュースだわ!」と申されました。この「良いニュース」の裏には中村助教授と役員の方々のねばり強い努力があったのを忘れるべきではないでしょう。ストーンがピースカテドラルに安置された時、中村助教授は、私の心をゆさぶる程に感動した言葉を申されました。「これから私はストーンのsurrogated motherになりますね!」と。

 ピースアビーとピースフルトモロウズの全くよき理解者であった長崎、佐賀、福岡、山口そして広島の皆々様、あなたたちの心からの支えで私も無事歩くことができ、60年前からの個人的約束を果たす事ができました。皆々様、大変におつかれ様でございました。

 ケープ・コッドの夏の夜が深くなった静かな勉強部屋の片隅で皆々様、一人一人の献身、親切、そして愛情を再びかみしめながら深くお礼を申しあげて居ります。       

ヨーコ・カワシマ・ワトキンズ

ケープ・コッド、マサチューセッツで

 

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