靄の底には、こころが沈んでいる

靄、あわいの底 ― side story 「陽はまた昇る」
湯気のあわいに視界が霞む。
「あっちい…」
扉を開けると、渇いた空気が体を撫で、汗がひいていく。浴場の湯気が英二と共に、脱衣場へ流れ込み室内が霞んだ。
扉を閉めると靄は治まっていく。やや晴れた靄の向こうに、小柄な人影が現れた。
「湯原か?」
振り返る人影に、すっと笑みを浮かべ英二は歩み寄った。
「…なに?」
湯原は少し眉しかめ、一歩体を引いた。
「いや、俺の着替。そこなんだって」
そんなに嫌うなよと呟きながら、タオルに手を伸ばす。
湯原は手早く体を拭き、ジャージを履きながら抑揚無く言った。
「俺、宮田って苦手だし」
「あー、そうですか」
するりと躱し英二は、隣を見ながら口を開いた。
「今日は、ありがとうな」
「なんの話?」
湯原は身仕度の手を止めないが、構わず英二は続けた。
「さっきの立てこもりの時さ、肩貸してくれた」
「礼を言われる様な事じゃない」
ジャージを履いた英二は、体ごと隣へ向合った。その気配に湯原の視線が動く。
タオルを握ったまま、英二は話しかけた。
「俺さ、あの時ほんとに、膝が立たなかった」
ゆっくり瞳を瞬かせ、湯原が振り向く。黒めがちの瞳が英二を見上げ、やや厚い唇が問いかけた。
「やっぱり、怖かった?」
「ああ、怖かった」
頷き英二は、率直に言った。
「だから、肩寄りかかった時、安心した」
「…そうか」
ありがとうと重ねて礼を告げると、ふと英二は湯原の肩を見た。
「華奢そうなのに、力あるんだな。お前」
「急に、なに?」
英二は感心そうに、ふうんと小さく声をあげた。
問うように見つめる黒目がちの瞳に、英二は首を傾げた。
「お前、着痩せするんだな。湯原」
「…ん、よく、言われる」
ちょっと眉しかめ湯原は、目を逸らしながら体背けるように、Tシャツに腕を伸ばした。
その右腕に、指の感触が触れる。
「…え、」
振り返った湯原の目に、白く長い指が置かれている。黒目がちの瞳を見開き、英二を見詰めた。かまわず英二は、その腕を離さない。
「あ、ちょっと触らせて」
湯原の黒めがちの瞳が揺れたが、そのまま英二は腕を掴んだ。
固い弾性の感触に掌が押し返される。やっぱり、と感心したように英二は軽く頷いた。
「筋肉質なんだな、意外と」
すごいなと英二は笑いかけたが、もがくように掌から腕は抜かれた。逃れた右腕を左手で庇うように掴むと、湯原は英二を見上げた。
「やたら、触るなよ」
黒目がちの瞳から、きつく視線が投げられた。
その額を、濡れたままの前髪が覆っている。普段は露わにした聡明な額が隠れて、きれいな二重瞼と黒目がちの瞳が際立つ。いつもは硬質に感じる湯原の顔が、やけに繊細に見えた。
意外と、かわいい顔してんじゃん
そう思った時、軽い既視感に英二は眉を歪めた。
― 勁い、黒目がちの瞳
「あ、」
入寮前の下見に来た、あの時だ。
確かめるように隣を見ると、素早くTシャツを着終えた湯原は、襟元をタオルで拭っている。その横顔を、英二は確かに知っていた。
「なあ、湯原」
「まだ、なにかあるの」
素っ気ない態度にも、構わず英二は続ける。
「入寮前にさ、校門で会っているよな。俺達」
湯原の手が止まった。黒目がちの瞳は微かに揺れたが、また手は動かす。
「…ああ、」
やっぱり、と英二は髪を掻き上げた。
「制服貸与の時さ、俺が振り返って話しかけたの。覚えているか」
「ん、」
そっぽ向いたまま、湯原の手がまた止まる。その横顔を見つめ、英二は言った。
「俺あの時、無視かよって言ったけど。お前、無視したわけじゃないんだろ、本当は」
湯原は黙りこくっている。英二は畳みかけるよう続けた。
「俺が初対面の顔したから、お前、途惑ったんだろ」
そうだろうと問いかけると、湯原は顔をこちらに向け瞳を上げた。視線を外さぬよう、英二は口を開いた。
「髪、」
黙ったまま、視線だけで湯原が問いかける。一つ瞬き、英二は一息に言った。
「ばっさり切ったな、前髪まで。印象変わっていて、解らなかった」
黒目がちの瞳がゆっくり瞬き、英二を見、また伏せられる。
その唇から少しかすれた声が洩れた。
「…たくなかったから」
「え、?」
かすれた声は小さく、英二は聞き返した。一瞬、逡巡が湯原の顔を掠める。
それでも湯原は、今度は明確に答えた。
「顔で、舐められたくなかったから」
― 結構かわいい顔、してんだからさ
あの時の言葉か。英二は首筋に掌を当てた。
黙ったまま、英二を見詰める硬質な視線。「かわいい」は、こんな硬い目をするような男が、ただ言われて喜ぶ言葉だとは、言えそうにない。
口の端を曲げ英二は、ごめん、と詫びた
「…いや、気付かせてもらって、良かったから」
詫びはいらないと呟き、湯原はその綺麗な二重瞼を伏せた。その奥で、瞳が微かに揺れているのが、隣立つ近さで見てとれる。英二はふと微笑んで、言った。
「湯原のこと舐めている訳じゃない。でも、好きだな」
「…え、」
「お前の顔、俺は好きだけど」
伏せた瞳が大きく見上げられた。見開かれた瞼の二重が、より鮮やかに浮かんでいる。英二は悪戯ぽく笑った。
「ほら、やっぱりかわいい」
「…んだよ、お前」
黒目がちの瞳を少し尖らせ、湯原は睨んでくる。だが、うなじは紅潮に染め上げられていく。
きれいだな
その紅色に英二の目は惹かれる。
注がれる視線に、途惑ったような湯原の手が、首筋を庇うよう隠した。
男のうなじなんか、なんで俺、見るんだ
解らない、なんだか調子が狂う。英二は首筋を撫でながら、我ながら首傾げたい思いだった。特に何の言葉も浮かばないまま、何か話しかけようと口を開いた。
「あ、湯原、」
湯原の唇が一瞬開いた。
「…」
だが言葉は零れず、すぐ唇は引き結ばれた。黙りこくったまま身仕舞をすると、湯原は廊下への扉に手を掛けた。
「…おやすみ」
ぼそっと呟き、湯原は出ていった。
「あ、」
急いで荷物を掴み、英二も廊下へ出た。やや照明が落とされた廊下は、薄暗い。
それでも視線の先、湯原の姿はすぐに捕まえられた。窓から薄く月明かりが射す廊下を、小柄な背中は少し性急な足音で去っていく。
「…」
何も言えないまま、小柄な背中は廊下の角を曲がり、視界から消えてしまった。遠くで扉が開く音が鳴り、足音も消えた。
なにやってんだ、俺
ため息をつき、廊下の窓に英二は凭れた。やはり調子がおかしい。肩口に顎を乗せるよう、窓の外を見上げた。
見上げた先の中空に、大きく月が架かっている。
きれいだな
月を見たのは久しぶりな気がする。しばらく見上げると、踵を返し英二は部屋へ向かった。
自室の扉に手をかけた時、左隣の扉の下、淡く漏れた光が目に入る。
あいつ、何してるんだろう
一瞬迷った後、英二は自室の扉を押しあけた。

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湯気のあわいに視界が霞む。
「あっちい…」
扉を開けると、渇いた空気が体を撫で、汗がひいていく。浴場の湯気が英二と共に、脱衣場へ流れ込み室内が霞んだ。
扉を閉めると靄は治まっていく。やや晴れた靄の向こうに、小柄な人影が現れた。
「湯原か?」
振り返る人影に、すっと笑みを浮かべ英二は歩み寄った。
「…なに?」
湯原は少し眉しかめ、一歩体を引いた。
「いや、俺の着替。そこなんだって」
そんなに嫌うなよと呟きながら、タオルに手を伸ばす。
湯原は手早く体を拭き、ジャージを履きながら抑揚無く言った。
「俺、宮田って苦手だし」
「あー、そうですか」
するりと躱し英二は、隣を見ながら口を開いた。
「今日は、ありがとうな」
「なんの話?」
湯原は身仕度の手を止めないが、構わず英二は続けた。
「さっきの立てこもりの時さ、肩貸してくれた」
「礼を言われる様な事じゃない」
ジャージを履いた英二は、体ごと隣へ向合った。その気配に湯原の視線が動く。
タオルを握ったまま、英二は話しかけた。
「俺さ、あの時ほんとに、膝が立たなかった」
ゆっくり瞳を瞬かせ、湯原が振り向く。黒めがちの瞳が英二を見上げ、やや厚い唇が問いかけた。
「やっぱり、怖かった?」
「ああ、怖かった」
頷き英二は、率直に言った。
「だから、肩寄りかかった時、安心した」
「…そうか」
ありがとうと重ねて礼を告げると、ふと英二は湯原の肩を見た。
「華奢そうなのに、力あるんだな。お前」
「急に、なに?」
英二は感心そうに、ふうんと小さく声をあげた。
問うように見つめる黒目がちの瞳に、英二は首を傾げた。
「お前、着痩せするんだな。湯原」
「…ん、よく、言われる」
ちょっと眉しかめ湯原は、目を逸らしながら体背けるように、Tシャツに腕を伸ばした。
その右腕に、指の感触が触れる。
「…え、」
振り返った湯原の目に、白く長い指が置かれている。黒目がちの瞳を見開き、英二を見詰めた。かまわず英二は、その腕を離さない。
「あ、ちょっと触らせて」
湯原の黒めがちの瞳が揺れたが、そのまま英二は腕を掴んだ。
固い弾性の感触に掌が押し返される。やっぱり、と感心したように英二は軽く頷いた。
「筋肉質なんだな、意外と」
すごいなと英二は笑いかけたが、もがくように掌から腕は抜かれた。逃れた右腕を左手で庇うように掴むと、湯原は英二を見上げた。
「やたら、触るなよ」
黒目がちの瞳から、きつく視線が投げられた。
その額を、濡れたままの前髪が覆っている。普段は露わにした聡明な額が隠れて、きれいな二重瞼と黒目がちの瞳が際立つ。いつもは硬質に感じる湯原の顔が、やけに繊細に見えた。
意外と、かわいい顔してんじゃん
そう思った時、軽い既視感に英二は眉を歪めた。
― 勁い、黒目がちの瞳
「あ、」
入寮前の下見に来た、あの時だ。
確かめるように隣を見ると、素早くTシャツを着終えた湯原は、襟元をタオルで拭っている。その横顔を、英二は確かに知っていた。
「なあ、湯原」
「まだ、なにかあるの」
素っ気ない態度にも、構わず英二は続ける。
「入寮前にさ、校門で会っているよな。俺達」
湯原の手が止まった。黒目がちの瞳は微かに揺れたが、また手は動かす。
「…ああ、」
やっぱり、と英二は髪を掻き上げた。
「制服貸与の時さ、俺が振り返って話しかけたの。覚えているか」
「ん、」
そっぽ向いたまま、湯原の手がまた止まる。その横顔を見つめ、英二は言った。
「俺あの時、無視かよって言ったけど。お前、無視したわけじゃないんだろ、本当は」
湯原は黙りこくっている。英二は畳みかけるよう続けた。
「俺が初対面の顔したから、お前、途惑ったんだろ」
そうだろうと問いかけると、湯原は顔をこちらに向け瞳を上げた。視線を外さぬよう、英二は口を開いた。
「髪、」
黙ったまま、視線だけで湯原が問いかける。一つ瞬き、英二は一息に言った。
「ばっさり切ったな、前髪まで。印象変わっていて、解らなかった」
黒目がちの瞳がゆっくり瞬き、英二を見、また伏せられる。
その唇から少しかすれた声が洩れた。
「…たくなかったから」
「え、?」
かすれた声は小さく、英二は聞き返した。一瞬、逡巡が湯原の顔を掠める。
それでも湯原は、今度は明確に答えた。
「顔で、舐められたくなかったから」
― 結構かわいい顔、してんだからさ
あの時の言葉か。英二は首筋に掌を当てた。
黙ったまま、英二を見詰める硬質な視線。「かわいい」は、こんな硬い目をするような男が、ただ言われて喜ぶ言葉だとは、言えそうにない。
口の端を曲げ英二は、ごめん、と詫びた
「…いや、気付かせてもらって、良かったから」
詫びはいらないと呟き、湯原はその綺麗な二重瞼を伏せた。その奥で、瞳が微かに揺れているのが、隣立つ近さで見てとれる。英二はふと微笑んで、言った。
「湯原のこと舐めている訳じゃない。でも、好きだな」
「…え、」
「お前の顔、俺は好きだけど」
伏せた瞳が大きく見上げられた。見開かれた瞼の二重が、より鮮やかに浮かんでいる。英二は悪戯ぽく笑った。
「ほら、やっぱりかわいい」
「…んだよ、お前」
黒目がちの瞳を少し尖らせ、湯原は睨んでくる。だが、うなじは紅潮に染め上げられていく。
きれいだな
その紅色に英二の目は惹かれる。
注がれる視線に、途惑ったような湯原の手が、首筋を庇うよう隠した。
男のうなじなんか、なんで俺、見るんだ
解らない、なんだか調子が狂う。英二は首筋を撫でながら、我ながら首傾げたい思いだった。特に何の言葉も浮かばないまま、何か話しかけようと口を開いた。
「あ、湯原、」
湯原の唇が一瞬開いた。
「…」
だが言葉は零れず、すぐ唇は引き結ばれた。黙りこくったまま身仕舞をすると、湯原は廊下への扉に手を掛けた。
「…おやすみ」
ぼそっと呟き、湯原は出ていった。
「あ、」
急いで荷物を掴み、英二も廊下へ出た。やや照明が落とされた廊下は、薄暗い。
それでも視線の先、湯原の姿はすぐに捕まえられた。窓から薄く月明かりが射す廊下を、小柄な背中は少し性急な足音で去っていく。
「…」
何も言えないまま、小柄な背中は廊下の角を曲がり、視界から消えてしまった。遠くで扉が開く音が鳴り、足音も消えた。
なにやってんだ、俺
ため息をつき、廊下の窓に英二は凭れた。やはり調子がおかしい。肩口に顎を乗せるよう、窓の外を見上げた。
見上げた先の中空に、大きく月が架かっている。
きれいだな
月を見たのは久しぶりな気がする。しばらく見上げると、踵を返し英二は部屋へ向かった。
自室の扉に手をかけた時、左隣の扉の下、淡く漏れた光が目に入る。
あいつ、何してるんだろう
一瞬迷った後、英二は自室の扉を押しあけた。












