激しい雨がふる 閉じ籠めた涙を、あふれさせて

驟雨、邂逅の瞑目 ― side story「陽はまた昇る」
激しい雨が窓を叩く。
夕方から急に降りだした雨は、まだ止まない。漆黒の空、雨の軌跡は白く果てがない。
薄暗い廊下の窓、見上げて英二は呟いた。
「明日は、晴れてくれよな」
窓を離れ、英二は学習室に向かった。
学習室を覗き込むと、探していた背中はすぐに見つかる。
誰もいない静かな室内、湯原は4人掛けの広い机いっぱいに資料を広げ、メモをとっていた。
これ全部に目を通したのか
俺も負けてられないなと感心しながら、英二はその前の椅子をひいた。
音に湯原は目を上げ、また資料に視線を落とす。沈黙は是認だと解釈し、英二は座ると頬杖をついた。
すぐ目の前で、ふっさりとした黒髪に蛍光灯の薄青い光がかかっている。
やわらかそうな髪だな
眺めながら、英二は口を開いた。
「明日のメシ、どこ行きたい?」
「…え?」
資料から湯原の顔が上がった。黒目がちの瞳が、微かな途惑いを見せている。
かまわず英二は、当然の事のように言った。
「外泊日に奢る約束、しただろ」
「そう、だった?」
忘れんなよと焦れた口調で英二は続けた。
「ほら。この間の、証拠探しの時」
「あ、」
思い出したような湯原の表情に、気を良くして英二は笑顔を浮かべた。
「何、食いたい?リクエストしてよ」
「いいよ、気にしなくて」
湯原の声音が途惑うが、いいんだってと英二は断定する。
「俺が、借り作りたくないの。で、何食う?」
「いや。あれだって、俺が知りたかっただけだし」
ぼそりと言った湯原に、そんなに嫌うなよと英二は笑った。
「マジで奢りたいの。犯人じゃないって信じてくれてさ。俺、嬉しかったんだ」
「だから、そうじゃないって」
いいからもう奢らせろよ、笑いながら英二は立ち上った。
「予定空けとけよ。すっぽかし無し、だからな」
押しつけるように言い、じゃ明日と告げて英二は廊下へ出て行った。
カーテンを明けると晴れた朝が広がった。
淡い雲の合間に青色が眩しい。植込みの樹木、瑞々しい緑が目に鮮やいだ。
「お。雨、あがったな」
微笑んだ英二は、スーツのジャケットに腕を通す。久しぶりのスーツは、肩が少しキツくなっていた。おやと肩を掴むと、硬質の弾力が掌を押し返す。
ちょっと筋肉、ついたかな
遠野教官のシゴキは辛いしキツいが、役に立っているらしい。
ネクタイを締め終えると、着替を入れた鞄を持ち、扉を開ける。そして隣の扉を叩いた。
「湯原、入るぞ」
返事待たずに扉を開くと、何かにぶつかった。なんだと部屋を覗き込むと、額を押さえた湯原が眉顰め立っていた。
「痛…」
「ごめん、大丈夫か」
つうっ 血が一筋、額の掌から流れる。
「見せて、」
頬を両手ではさみ上向かせると、前髪の生え際に傷が出来ていた。小さい傷だが、見るそばから血が溢れ始める。
英二はポケットに手を突っ込み、ハンカチを取り出した。
「医務室、行こう」
傷にそっとハンカチを当て、軽く押す。
湯原は血が滲んだ掌を見つめ、淡々と言った。
「扉の角で、切ったんだな」
「冷静に言ってる場合かよ、ほらハンカチ押さえてろ」
自分と湯原の鞄を持ち、英二は小柄な肩を扉の外へ押し出した。
朝食時だったが、運よく校医は在室中だった。
処置を終えた手を洗いながら、立花校医は振り返り微笑んだ。
「出血の割に傷は小さいから、すぐ治るわよ。まだ若いんだし」
「ありがとうございました」
絆創膏に滲む血の翳が、痛々しい。礼を言う湯原の額を見、校医は手を拭うと、
「ちょっと失礼」
ささっと手早く湯原の前髪を整えた。ふっさりと前髪は秀でた額にかかる。絆創膏は見えなくなった。
「この方が傷の保護にもなるでしょ」
絆創膏を外したら触らないようにしてねと、立花校医はにっこり笑った。そして軽く小首を傾げ、湯原の顔を覗き込んだ。
「湯原君、前髪あるほうが似合うわね」
「…え、」
黒目がちな瞳に複雑な色が微かにゆらいだのを、英二は見止めた。
なんだよ
胸裏が、ちらっとざわつく。
なんだか解らない、英二は二つの鞄を掴むと湯原の腕をとった。
「朝礼に遅れる、いくぞ」
小柄な背を隠すように廊下へ連れ出し、ありがとうございましたと英二は扉を閉めた。
腕を掴んだまま、英二は足早に歩いていく。
なんで俺、苛つくんだ
我ながら怪訝さに、奥歯をきつく噛締める。その顔を、湯原が見上げた。
「なんで宮田、不機嫌なの」
「いや、別に」
ふうんと興味無さそうに呟き、ちゃんと歩けるからと湯原は腕を解いた。
「鞄、返して」
「…おう、」
歩きながら渡すと、ぼそり湯原が呟いた。
「ラーメン、食いたいかな」
「え、」
振り返ると、黒目がちの瞳が見上げ、無愛想な声が続けた。
「奢ってくれるんだろ」
視線を前へ抛りなげた湯原の、足取りが少し速くなる。その首筋が微かに紅潮していた。
おう、と英二は笑った。
「うまいラーメン屋、行くぞ」
高層ビル縫う街路樹を、喧騒が流れる。
久しぶりに歩く道を、英二は見回した。この街は、土曜日でもスーツ姿が多い。
ビル群を闊歩するスーツ姿は、社会人らしい爽やかな色気が眩しく見えた。
外出時はスーツ着用なんて、嫌だと思っていたけど
社会人らしい空気も悪くないか。
ネクタイを少し緩め、英二は隣を振り返った。
「店開くまで時間、ちょっとあるんだけど。何したい?」
「本、見に行きたいかな」
じゃあ南口方面だなと、並んで歩きだした。
「何か探してる本があるの?」
「まあ、それもあるけど」
いつもは資料と、教本ばかり眺めている湯原が、買う本。なんとなく英二は気になった。
大型書店に着くと、開いた自動ドアから冷房が頬を打つ。
「あー、やっぱスーツは暑かったよな」
ジャケットを脱ぎ、ほっと英二は一息ついた。
「何の本、探すの」
「6階、かな」
答えながら、湯原はエスカレーターに向かう。
乗口の案内板で「6階 洋書 洋雑誌 語学書 芸術書」の文字が英二の目に入った。
フロアに降りると、迷わず湯原は歩いて行く。
少し棚を見回し、腕を伸ばした。だが目指す本に手が届かない。
「どの本?」
すっと隣に立つと、英二は湯原を見遣った。
「一番上の、紺色の背表紙」
「これ?」
英二の手に易々と紺青の表装が納まった。表題が目に入る。
『Le Fantome de l'Opera』
頁を開くと、アルファベットが見慣れない単語を連ねていた。フランス語だろうか。
頁を閉じ、湯原に手渡した。
「湯原、原書で読むんだ」
「その方が雰囲気、伝わりやすいから」
会計を済ませ時計を見ると、調度良い時間になっている。
目当ての店へ歩きながら、紙袋から湯原は本を出した。満足げに表紙を見詰め、表紙の見返しを開く。
そんなに読みたかったんだなと、英二は覗き込んだ。
「原書で読むって、面倒じゃない?」
「まあ、そうなんだけど。語学の勉強にもなるから」
店に着き、まだ客は少なく待たずに座れた。オフィス街らしく周りもスーツ姿が多い。
温かい湯気と気取らない空気が、寛いだ気分にさせた。
「湯原、大学ではフランス語とっていたんだ」
「宮田は何だった?」
「俺は、英語とドイツ語。ドイツ法学があってさ」
他愛ない話をしながらラーメンを啜る。その湯原の手元に、英二の目が止まった。
箸の持ち方、きれいだな
寮の食堂では、だいたい同じ席に座っている。向かい合っての食事は、初めてだった。
そういえば、ペンの持ち方も良い。母親の躾が細やかだったのだろう。
女手一つで育てた日々は、多忙だったに違いない。湯原の母の、端正な生き方が伺われた。
「なに、ぼんやりしてんの」
「あ、」
「ラーメン、延びてるぞ」
英二は手元を見、ああ、と頷いて手を動かした。
前を見ると、湯原は持ちあげた丼から飲干している。その喉元を見ながら、英二は呟くようにいった。
「湯原の母さん、素敵なひとなんだろな」
食べ終えた丼と箸を揃え、湯原は英二の顔を見た。
「まあ、そうだけど。…なに、急に」
「躾がきちんとしているのは、親のお蔭だろ」
飲み干した丼を持ったまま、英二は言った。
「お前の動きって、きれいだよな」
「え、」
途惑ったような声に、英二は笑った。
「じゃ、行くか」
言いながら丼を置き、ごちそうさんと英二は手を合わせた。
立ち上りながら湯原の丼を見ると、きれいに空になっている。
口に合ったみたいだな、英二は微笑んだ。
支払って暖簾を潜ると、街の喧騒が取巻く。音の洪水の中で、湯原が声を掛けた。
「ごちそうさま」
「どういたしまして、って。なんかラーメンだけじゃ、悪いな」
「いや、うまかったから」
英二を見上げ、かすかに湯原が微笑んだ。
笑うとまた、かわいいな
じゃ良かったと返事しながら、通りを見渡すと一軒の店が目に入った。
「湯原。お前、この後も時間、あるよな」
「ん。実家に帰るだけ、だけど」
「じゃ、ちょっと買い物つきあってくれる?」
にこっと笑いかけると、返事を待たずに英二は歩き出した。
湯原も並んで歩く。
扉を開けると昼時の為か、他に客もない店内は静かだった。店員らしき女性と目が合う、英二は声をかけた。
「こんにちは。男物のシャツはどの辺りですか?」
こちらです、と愛想よく彼女は2階へ案内してくれる。明るい陽光が店内を照らす。
お見立てしましょうかという店員に、にっこり英二は微笑んだ。
「いや、ゆっくり見させてもらって、いいかな?」
さっと頬赤らめると、遠慮なくお声かけてくださいねと一礼し、階下へ降りて行った。
足音が消えると、ぼそっと湯原が呟いた。
「タラシ、」
英二は、ふふんと鼻先で笑った。
「言っただろ。俺は、選り取り見取りだって」
ちょっと首傾げ英二は、湯原の顔を覗き込んだ。
「なに、ヤキモチ?」
「誰がだ。さっさと選べよ」
窓際に凭れると湯原は、外へと視線を投げてしまった。その前髪に陽射しが零れて、瞳を隠している。
ふっと微笑んでから、英二はシャツを選び始めた。
「湯原ってさ、サイズMだよな」
「…ん、そうだけど」
何気なく答えた湯原を、英二は鏡の前に立たせた。
「これ、どう?」
白いシャツが湯原に当てられる。鏡を一瞥し湯原は、肩越しに振り返った。
「いいと思うけど、…お前に当てて見ないと」
「じゃ、これで決まりな」
英二はさっさと階段を降り始めた。
宮田のやつ、なんだろう。訝しがりながら湯原が階下へ着いた時には、英二はもう店の扉に立っていた。
「ほら、行くぞ」
通りへ出ると、はいと紙袋を手渡した。黒目がちの瞳が、途惑った色を浮かべて英二を見る。
「なに?」
「脱走した夜にさ、お前のシャツ汚したろ。その詫び」
顰に深めた二重の奥で、瞳が途惑い濃くした。
「そんなの、いいよ」
「借りは作りたくないの。それに俺、Lサイズだから」
絶対返すんじゃないぞと、英二は笑顔を向けた。
湯原の唇が開きかけて閉じ、また躊躇いがちに開いた。
「じゃ、ありがとう」
おう、と言って笑った英二の、視線が止まった。
その視線を湯原も追うと、派手目の若い女が立っていた。
「行こうぜ、」
湯原の腕を掴んで、英二は歩き出した。
その背中を女の声が呼びとめる、だが英二の足は止まらない。
悲しげな声。湯原が振り返ると、彼女は泣きながら呼んでいる。隣の顔を湯原は見上げた。
「宮田、呼んでるよ」
英二は答えず、足を速めた。その切れの長い瞳に薄く紗がかかっている。
湯原は唇を結ぶと、ただ隣を歩き続けた。
大きな公園の前で、ようやく英二の足は止まった。
「腕、痛いんだけど」
湯原の声に、英二は驚いて隣を見た。がっちりと、湯原の腕を自分の手が掴みこんでいる。
「あ、…ごめん」
慌てて離すと、湯原は腕をさすった。英二は遠慮がちに腕に触れた。
「痛む?」
「平気。それより、ここ入るのか」
公園には、立派な門は開いていた。その奥に入場ゲートが見える。
たしか入場料がいるんだよなと考えていると、今度は湯原が腕を引いた。
「入ろ」
「え、?」
ちょっと驚いて英二は隣を見た。
「せっかく前まで歩いたんだ。入らないと、損だろ」
湯原は、大人2名と告げて支払い、チケットを受け取った。一枚を英二に手渡す。
「シャツ、これでチャラな」
ちょっと唇の端をあげて、湯原は笑った。
緑の瑞々しい光が、地面に落ちかかる。歩きながら、湯原は梢を見上げた。
「俺、初めて入った」
宮田は来た事あるのと問われ、何度か来たと答えた。そう、と湯原は少し微笑んだ。
「都心に、こんな所あるなんて俺、知らなかった」
いいところだな、と湯原が続ける。
「山歩きとか、小さい頃は行ったりも、していたんだけど」
いつもより湯原が話してくれる。
さっきの事、気にかけているんだろう。英二はなんだか嬉しくなり、視線を上げた。
豊かに枝伸ばした木の元に、ベンチがある。
「座ろっか」
湯原の腕を引き、腰をおろした。緑含んだ風が、少し火照った頬に心地いい。
ちょっと目を廻らせた湯原が、立ち上ると向こうへ歩いて行った。
どこ、行くんだろ
英二は顔を空に仰向けた。
梢から、光が降りかかる。陽射しの温かさが額に積っていく。
目を細め眺めていると、顔の上に缶コーヒーが差し出された。
「奢ってやる」
いつの間に戻ったのか、隣には湯原が座っている。
少し微笑んで、英二は受け取った。汗ばんだ掌に、ひんやりと快さが浸みる。
「おう、さんきゅ」
プルトップを開けると、香ばしい薫りがふわり広がった。
唇をつけて呷る。一息に半分程を飲みほしていた。
喉、かわいていたんだな
ほっと息をつくと、がさり紙の音が聞えた。
隣を見ると、湯原が紺青色の本を取り出している。ちらっと英二を見遣り、湯原は頁を開いた。
「ちょっと読ませて」
黒目がちの視線を、アルファベットの羅列におとす。
辞書無しで、よく読めるよな
感心して見詰める頬に、緑の翳が落ちている。
なめらかな肌理が、仄明るい木蔭の下で、透けるような艶をみせていた。
きれいだな
木立の静寂に、時折ページを捲る音が響く。
遠くで子供たちの歓声が聞えるが、ベンチの周りは人影なく静かだった。
ゆっくりページを繰る指先が、木漏れ日に光って見える。その指先を英二は、ただ眺めていた。
話さなくても、居心地いいんだよな
安らいでいる自分に、ふと英二は既視感を覚えた。あの時と、同じだ。
英二の口が開いた。
「ごめんな」
黒目がちの瞳が動き、こちらに向き直る。ページを繰る指が止まった。
もう気付いているだろうけど、と英二は続けた。
「さっきの泣いていた女。あれが、この間の元彼女」
「ん、」
「前はさ、昔の女に会って縋られても、軽く躱していたんだ」
湯原はただ静かに聴いている。
緑の枝を風が揺らす音が、話す合間に響く。
「相手に未練があろうが関係ない。相手の気持ち考えないから、平気だった」
ちょっと唇を引き結び、言葉を続けた。
「今はさ、会えば傷つけるの解っているから、顔見たくなかった」
自嘲気味に笑った英二の頬に、緑の翳が落ちた。
「不甲斐ない自分を、思い知らされるな」
きれいな切れ長い目に雫が漲る。英二は目を閉じた。
その瞼に水滴が当たる。
「雨か、」
青空を雲間に見せながら、さあっと水の帳が木々を覆っていく。
湯原は本を鞄に入れ、空を見上げた。
「夕立だ、すぐ止むだろ」
八重に何重に重なる葉が、雨からベンチを守ってくれる。
たちこめ始める靄に、木々が白く霞みに沈んでいく。靄は音を吸い、樹林に静寂が広がる。
ぽつんと湯原が言った。
「今の方が、いいよ」
英二は隣を振り返った。湯原の顔が少し途惑い、だが瞳は逸らさず口を開いた。
「宮田、前よりも良い顔してる」
だから良かったんじゃないかな。落着いた声が続ける。
そっかと英二は微笑んだ。
「ありがとう」
「ん、」
黒目がちの瞳は少し、微笑んでいるように見えた。
こんな風に見詰めてくれるの、初めてだな
隣り合わす顔が近く感じられる。降り籠める雨のせいだろうか。
湯原は空を見上げた。
「雨、早くあがると良いな」
紗がかった視界は、やわらかい。その為か普段より、声もやわらかく響く。
「ああ」
隣の横顔を、英二は間近く眺めた。おろした前髪の下で、黒目がちの瞳が際立って見える。
やっぱり、かわいいな
雨の水気と樹葉の緑に、なめらかな頬が透ける白さで浮かんで見える。
淡く沈む空気の中、睫毛に烟る水滴が幽かに光った。
「湯原、」
「なに?」
こちらを向いた黒い瞳が、靄に潤んで見える。
前髪、靄、どちらの為なのか。湯原の顔は今、やけに繊細できれいだった。
「傷、どうだ」
「平気、」
見せてみろと、湯原の額を掻きあげた。やわらかな黒髪が、英二の白く長い指に絡まる。
「お前、やっぱり前髪あるほうが、似合うよ」
「…そうかな」
少し笑うと、湯原はまた黙って前を眺めた。
雨に淡く煙る樹林の緑が、横顔の輪郭をやわらかく縁取る。
なんで俺は、湯原の事、きれいに見えるんだろう
もう、今日が初めての事ではない。
無言でも居心地良いのと、関係があるんだろうか。そう思った時、ことんと胸裡が落着いた。
隣の空気を俺は好きなんだ
なんだ、そういう事か。英二は微笑んだ。
なんだか、調子が狂う、その調子に合わせてみたい気もする。
その脳裡を、警察学校の規則が掠めた。
『警察学校内の男女交際は禁止』
同性が想定されていないが、同じ事だ。
不安が脳裡を廻る。その眼前を、驟雨が白く埋めていく。樹間から流れる冷気が頬撫でる。
視界の端から隣を見ると、湯原は静かに辺りを眺めていた。
―俺は絶対に警察官にならなきゃいけない理由があるんだ
―死なない警察官になりたい
湯原の邪魔はしたくない。叶えてほしい。
自分自身も警察官になる事を、今はもう諦められないだろう。
無言でも、居心地が良い隣
どんなに得難いものか、知っている。寂しがりの自分は、きっと手放せない。
気持を誤魔化す事など、出来そうになかった。
言い訳して諦める事も、たぶん出来ない。
英二は目を瞑った。
―求める事は、しない
覚悟が肚に落ちるのを、閉じた目の中で待つ。
驟雨の冷気が頬を撫でていくのを、淡い眼の底で感じていた。
「こんな所で寝たら、風邪ひくよ」
目を開けると、この数カ月で見慣れた顔が、覗き込んでいた。
寝てないよと答え、ふっと英二は微笑んだ。
「雨、上がりそうだな」
英二は、空を見上げた。夕陽映した金色の雲と、その合間から青空が覗いている。
きれいだな
ふいに熱が溢れ、切れ長い眦を涙が零れた。
髪掻きあげる手の影で、指で密やかに涙払う。涙は指に絡まり、肌の奥へ沁みいった。

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驟雨、邂逅の瞑目 ― side story「陽はまた昇る」
激しい雨が窓を叩く。
夕方から急に降りだした雨は、まだ止まない。漆黒の空、雨の軌跡は白く果てがない。
薄暗い廊下の窓、見上げて英二は呟いた。
「明日は、晴れてくれよな」
窓を離れ、英二は学習室に向かった。
学習室を覗き込むと、探していた背中はすぐに見つかる。
誰もいない静かな室内、湯原は4人掛けの広い机いっぱいに資料を広げ、メモをとっていた。
これ全部に目を通したのか
俺も負けてられないなと感心しながら、英二はその前の椅子をひいた。
音に湯原は目を上げ、また資料に視線を落とす。沈黙は是認だと解釈し、英二は座ると頬杖をついた。
すぐ目の前で、ふっさりとした黒髪に蛍光灯の薄青い光がかかっている。
やわらかそうな髪だな
眺めながら、英二は口を開いた。
「明日のメシ、どこ行きたい?」
「…え?」
資料から湯原の顔が上がった。黒目がちの瞳が、微かな途惑いを見せている。
かまわず英二は、当然の事のように言った。
「外泊日に奢る約束、しただろ」
「そう、だった?」
忘れんなよと焦れた口調で英二は続けた。
「ほら。この間の、証拠探しの時」
「あ、」
思い出したような湯原の表情に、気を良くして英二は笑顔を浮かべた。
「何、食いたい?リクエストしてよ」
「いいよ、気にしなくて」
湯原の声音が途惑うが、いいんだってと英二は断定する。
「俺が、借り作りたくないの。で、何食う?」
「いや。あれだって、俺が知りたかっただけだし」
ぼそりと言った湯原に、そんなに嫌うなよと英二は笑った。
「マジで奢りたいの。犯人じゃないって信じてくれてさ。俺、嬉しかったんだ」
「だから、そうじゃないって」
いいからもう奢らせろよ、笑いながら英二は立ち上った。
「予定空けとけよ。すっぽかし無し、だからな」
押しつけるように言い、じゃ明日と告げて英二は廊下へ出て行った。
カーテンを明けると晴れた朝が広がった。
淡い雲の合間に青色が眩しい。植込みの樹木、瑞々しい緑が目に鮮やいだ。
「お。雨、あがったな」
微笑んだ英二は、スーツのジャケットに腕を通す。久しぶりのスーツは、肩が少しキツくなっていた。おやと肩を掴むと、硬質の弾力が掌を押し返す。
ちょっと筋肉、ついたかな
遠野教官のシゴキは辛いしキツいが、役に立っているらしい。
ネクタイを締め終えると、着替を入れた鞄を持ち、扉を開ける。そして隣の扉を叩いた。
「湯原、入るぞ」
返事待たずに扉を開くと、何かにぶつかった。なんだと部屋を覗き込むと、額を押さえた湯原が眉顰め立っていた。
「痛…」
「ごめん、大丈夫か」
つうっ 血が一筋、額の掌から流れる。
「見せて、」
頬を両手ではさみ上向かせると、前髪の生え際に傷が出来ていた。小さい傷だが、見るそばから血が溢れ始める。
英二はポケットに手を突っ込み、ハンカチを取り出した。
「医務室、行こう」
傷にそっとハンカチを当て、軽く押す。
湯原は血が滲んだ掌を見つめ、淡々と言った。
「扉の角で、切ったんだな」
「冷静に言ってる場合かよ、ほらハンカチ押さえてろ」
自分と湯原の鞄を持ち、英二は小柄な肩を扉の外へ押し出した。
朝食時だったが、運よく校医は在室中だった。
処置を終えた手を洗いながら、立花校医は振り返り微笑んだ。
「出血の割に傷は小さいから、すぐ治るわよ。まだ若いんだし」
「ありがとうございました」
絆創膏に滲む血の翳が、痛々しい。礼を言う湯原の額を見、校医は手を拭うと、
「ちょっと失礼」
ささっと手早く湯原の前髪を整えた。ふっさりと前髪は秀でた額にかかる。絆創膏は見えなくなった。
「この方が傷の保護にもなるでしょ」
絆創膏を外したら触らないようにしてねと、立花校医はにっこり笑った。そして軽く小首を傾げ、湯原の顔を覗き込んだ。
「湯原君、前髪あるほうが似合うわね」
「…え、」
黒目がちな瞳に複雑な色が微かにゆらいだのを、英二は見止めた。
なんだよ
胸裏が、ちらっとざわつく。
なんだか解らない、英二は二つの鞄を掴むと湯原の腕をとった。
「朝礼に遅れる、いくぞ」
小柄な背を隠すように廊下へ連れ出し、ありがとうございましたと英二は扉を閉めた。
腕を掴んだまま、英二は足早に歩いていく。
なんで俺、苛つくんだ
我ながら怪訝さに、奥歯をきつく噛締める。その顔を、湯原が見上げた。
「なんで宮田、不機嫌なの」
「いや、別に」
ふうんと興味無さそうに呟き、ちゃんと歩けるからと湯原は腕を解いた。
「鞄、返して」
「…おう、」
歩きながら渡すと、ぼそり湯原が呟いた。
「ラーメン、食いたいかな」
「え、」
振り返ると、黒目がちの瞳が見上げ、無愛想な声が続けた。
「奢ってくれるんだろ」
視線を前へ抛りなげた湯原の、足取りが少し速くなる。その首筋が微かに紅潮していた。
おう、と英二は笑った。
「うまいラーメン屋、行くぞ」
高層ビル縫う街路樹を、喧騒が流れる。
久しぶりに歩く道を、英二は見回した。この街は、土曜日でもスーツ姿が多い。
ビル群を闊歩するスーツ姿は、社会人らしい爽やかな色気が眩しく見えた。
外出時はスーツ着用なんて、嫌だと思っていたけど
社会人らしい空気も悪くないか。
ネクタイを少し緩め、英二は隣を振り返った。
「店開くまで時間、ちょっとあるんだけど。何したい?」
「本、見に行きたいかな」
じゃあ南口方面だなと、並んで歩きだした。
「何か探してる本があるの?」
「まあ、それもあるけど」
いつもは資料と、教本ばかり眺めている湯原が、買う本。なんとなく英二は気になった。
大型書店に着くと、開いた自動ドアから冷房が頬を打つ。
「あー、やっぱスーツは暑かったよな」
ジャケットを脱ぎ、ほっと英二は一息ついた。
「何の本、探すの」
「6階、かな」
答えながら、湯原はエスカレーターに向かう。
乗口の案内板で「6階 洋書 洋雑誌 語学書 芸術書」の文字が英二の目に入った。
フロアに降りると、迷わず湯原は歩いて行く。
少し棚を見回し、腕を伸ばした。だが目指す本に手が届かない。
「どの本?」
すっと隣に立つと、英二は湯原を見遣った。
「一番上の、紺色の背表紙」
「これ?」
英二の手に易々と紺青の表装が納まった。表題が目に入る。
『Le Fantome de l'Opera』
頁を開くと、アルファベットが見慣れない単語を連ねていた。フランス語だろうか。
頁を閉じ、湯原に手渡した。
「湯原、原書で読むんだ」
「その方が雰囲気、伝わりやすいから」
会計を済ませ時計を見ると、調度良い時間になっている。
目当ての店へ歩きながら、紙袋から湯原は本を出した。満足げに表紙を見詰め、表紙の見返しを開く。
そんなに読みたかったんだなと、英二は覗き込んだ。
「原書で読むって、面倒じゃない?」
「まあ、そうなんだけど。語学の勉強にもなるから」
店に着き、まだ客は少なく待たずに座れた。オフィス街らしく周りもスーツ姿が多い。
温かい湯気と気取らない空気が、寛いだ気分にさせた。
「湯原、大学ではフランス語とっていたんだ」
「宮田は何だった?」
「俺は、英語とドイツ語。ドイツ法学があってさ」
他愛ない話をしながらラーメンを啜る。その湯原の手元に、英二の目が止まった。
箸の持ち方、きれいだな
寮の食堂では、だいたい同じ席に座っている。向かい合っての食事は、初めてだった。
そういえば、ペンの持ち方も良い。母親の躾が細やかだったのだろう。
女手一つで育てた日々は、多忙だったに違いない。湯原の母の、端正な生き方が伺われた。
「なに、ぼんやりしてんの」
「あ、」
「ラーメン、延びてるぞ」
英二は手元を見、ああ、と頷いて手を動かした。
前を見ると、湯原は持ちあげた丼から飲干している。その喉元を見ながら、英二は呟くようにいった。
「湯原の母さん、素敵なひとなんだろな」
食べ終えた丼と箸を揃え、湯原は英二の顔を見た。
「まあ、そうだけど。…なに、急に」
「躾がきちんとしているのは、親のお蔭だろ」
飲み干した丼を持ったまま、英二は言った。
「お前の動きって、きれいだよな」
「え、」
途惑ったような声に、英二は笑った。
「じゃ、行くか」
言いながら丼を置き、ごちそうさんと英二は手を合わせた。
立ち上りながら湯原の丼を見ると、きれいに空になっている。
口に合ったみたいだな、英二は微笑んだ。
支払って暖簾を潜ると、街の喧騒が取巻く。音の洪水の中で、湯原が声を掛けた。
「ごちそうさま」
「どういたしまして、って。なんかラーメンだけじゃ、悪いな」
「いや、うまかったから」
英二を見上げ、かすかに湯原が微笑んだ。
笑うとまた、かわいいな
じゃ良かったと返事しながら、通りを見渡すと一軒の店が目に入った。
「湯原。お前、この後も時間、あるよな」
「ん。実家に帰るだけ、だけど」
「じゃ、ちょっと買い物つきあってくれる?」
にこっと笑いかけると、返事を待たずに英二は歩き出した。
湯原も並んで歩く。
扉を開けると昼時の為か、他に客もない店内は静かだった。店員らしき女性と目が合う、英二は声をかけた。
「こんにちは。男物のシャツはどの辺りですか?」
こちらです、と愛想よく彼女は2階へ案内してくれる。明るい陽光が店内を照らす。
お見立てしましょうかという店員に、にっこり英二は微笑んだ。
「いや、ゆっくり見させてもらって、いいかな?」
さっと頬赤らめると、遠慮なくお声かけてくださいねと一礼し、階下へ降りて行った。
足音が消えると、ぼそっと湯原が呟いた。
「タラシ、」
英二は、ふふんと鼻先で笑った。
「言っただろ。俺は、選り取り見取りだって」
ちょっと首傾げ英二は、湯原の顔を覗き込んだ。
「なに、ヤキモチ?」
「誰がだ。さっさと選べよ」
窓際に凭れると湯原は、外へと視線を投げてしまった。その前髪に陽射しが零れて、瞳を隠している。
ふっと微笑んでから、英二はシャツを選び始めた。
「湯原ってさ、サイズMだよな」
「…ん、そうだけど」
何気なく答えた湯原を、英二は鏡の前に立たせた。
「これ、どう?」
白いシャツが湯原に当てられる。鏡を一瞥し湯原は、肩越しに振り返った。
「いいと思うけど、…お前に当てて見ないと」
「じゃ、これで決まりな」
英二はさっさと階段を降り始めた。
宮田のやつ、なんだろう。訝しがりながら湯原が階下へ着いた時には、英二はもう店の扉に立っていた。
「ほら、行くぞ」
通りへ出ると、はいと紙袋を手渡した。黒目がちの瞳が、途惑った色を浮かべて英二を見る。
「なに?」
「脱走した夜にさ、お前のシャツ汚したろ。その詫び」
顰に深めた二重の奥で、瞳が途惑い濃くした。
「そんなの、いいよ」
「借りは作りたくないの。それに俺、Lサイズだから」
絶対返すんじゃないぞと、英二は笑顔を向けた。
湯原の唇が開きかけて閉じ、また躊躇いがちに開いた。
「じゃ、ありがとう」
おう、と言って笑った英二の、視線が止まった。
その視線を湯原も追うと、派手目の若い女が立っていた。
「行こうぜ、」
湯原の腕を掴んで、英二は歩き出した。
その背中を女の声が呼びとめる、だが英二の足は止まらない。
悲しげな声。湯原が振り返ると、彼女は泣きながら呼んでいる。隣の顔を湯原は見上げた。
「宮田、呼んでるよ」
英二は答えず、足を速めた。その切れの長い瞳に薄く紗がかかっている。
湯原は唇を結ぶと、ただ隣を歩き続けた。
大きな公園の前で、ようやく英二の足は止まった。
「腕、痛いんだけど」
湯原の声に、英二は驚いて隣を見た。がっちりと、湯原の腕を自分の手が掴みこんでいる。
「あ、…ごめん」
慌てて離すと、湯原は腕をさすった。英二は遠慮がちに腕に触れた。
「痛む?」
「平気。それより、ここ入るのか」
公園には、立派な門は開いていた。その奥に入場ゲートが見える。
たしか入場料がいるんだよなと考えていると、今度は湯原が腕を引いた。
「入ろ」
「え、?」
ちょっと驚いて英二は隣を見た。
「せっかく前まで歩いたんだ。入らないと、損だろ」
湯原は、大人2名と告げて支払い、チケットを受け取った。一枚を英二に手渡す。
「シャツ、これでチャラな」
ちょっと唇の端をあげて、湯原は笑った。
緑の瑞々しい光が、地面に落ちかかる。歩きながら、湯原は梢を見上げた。
「俺、初めて入った」
宮田は来た事あるのと問われ、何度か来たと答えた。そう、と湯原は少し微笑んだ。
「都心に、こんな所あるなんて俺、知らなかった」
いいところだな、と湯原が続ける。
「山歩きとか、小さい頃は行ったりも、していたんだけど」
いつもより湯原が話してくれる。
さっきの事、気にかけているんだろう。英二はなんだか嬉しくなり、視線を上げた。
豊かに枝伸ばした木の元に、ベンチがある。
「座ろっか」
湯原の腕を引き、腰をおろした。緑含んだ風が、少し火照った頬に心地いい。
ちょっと目を廻らせた湯原が、立ち上ると向こうへ歩いて行った。
どこ、行くんだろ
英二は顔を空に仰向けた。
梢から、光が降りかかる。陽射しの温かさが額に積っていく。
目を細め眺めていると、顔の上に缶コーヒーが差し出された。
「奢ってやる」
いつの間に戻ったのか、隣には湯原が座っている。
少し微笑んで、英二は受け取った。汗ばんだ掌に、ひんやりと快さが浸みる。
「おう、さんきゅ」
プルトップを開けると、香ばしい薫りがふわり広がった。
唇をつけて呷る。一息に半分程を飲みほしていた。
喉、かわいていたんだな
ほっと息をつくと、がさり紙の音が聞えた。
隣を見ると、湯原が紺青色の本を取り出している。ちらっと英二を見遣り、湯原は頁を開いた。
「ちょっと読ませて」
黒目がちの視線を、アルファベットの羅列におとす。
辞書無しで、よく読めるよな
感心して見詰める頬に、緑の翳が落ちている。
なめらかな肌理が、仄明るい木蔭の下で、透けるような艶をみせていた。
きれいだな
木立の静寂に、時折ページを捲る音が響く。
遠くで子供たちの歓声が聞えるが、ベンチの周りは人影なく静かだった。
ゆっくりページを繰る指先が、木漏れ日に光って見える。その指先を英二は、ただ眺めていた。
話さなくても、居心地いいんだよな
安らいでいる自分に、ふと英二は既視感を覚えた。あの時と、同じだ。
英二の口が開いた。
「ごめんな」
黒目がちの瞳が動き、こちらに向き直る。ページを繰る指が止まった。
もう気付いているだろうけど、と英二は続けた。
「さっきの泣いていた女。あれが、この間の元彼女」
「ん、」
「前はさ、昔の女に会って縋られても、軽く躱していたんだ」
湯原はただ静かに聴いている。
緑の枝を風が揺らす音が、話す合間に響く。
「相手に未練があろうが関係ない。相手の気持ち考えないから、平気だった」
ちょっと唇を引き結び、言葉を続けた。
「今はさ、会えば傷つけるの解っているから、顔見たくなかった」
自嘲気味に笑った英二の頬に、緑の翳が落ちた。
「不甲斐ない自分を、思い知らされるな」
きれいな切れ長い目に雫が漲る。英二は目を閉じた。
その瞼に水滴が当たる。
「雨か、」
青空を雲間に見せながら、さあっと水の帳が木々を覆っていく。
湯原は本を鞄に入れ、空を見上げた。
「夕立だ、すぐ止むだろ」
八重に何重に重なる葉が、雨からベンチを守ってくれる。
たちこめ始める靄に、木々が白く霞みに沈んでいく。靄は音を吸い、樹林に静寂が広がる。
ぽつんと湯原が言った。
「今の方が、いいよ」
英二は隣を振り返った。湯原の顔が少し途惑い、だが瞳は逸らさず口を開いた。
「宮田、前よりも良い顔してる」
だから良かったんじゃないかな。落着いた声が続ける。
そっかと英二は微笑んだ。
「ありがとう」
「ん、」
黒目がちの瞳は少し、微笑んでいるように見えた。
こんな風に見詰めてくれるの、初めてだな
隣り合わす顔が近く感じられる。降り籠める雨のせいだろうか。
湯原は空を見上げた。
「雨、早くあがると良いな」
紗がかった視界は、やわらかい。その為か普段より、声もやわらかく響く。
「ああ」
隣の横顔を、英二は間近く眺めた。おろした前髪の下で、黒目がちの瞳が際立って見える。
やっぱり、かわいいな
雨の水気と樹葉の緑に、なめらかな頬が透ける白さで浮かんで見える。
淡く沈む空気の中、睫毛に烟る水滴が幽かに光った。
「湯原、」
「なに?」
こちらを向いた黒い瞳が、靄に潤んで見える。
前髪、靄、どちらの為なのか。湯原の顔は今、やけに繊細できれいだった。
「傷、どうだ」
「平気、」
見せてみろと、湯原の額を掻きあげた。やわらかな黒髪が、英二の白く長い指に絡まる。
「お前、やっぱり前髪あるほうが、似合うよ」
「…そうかな」
少し笑うと、湯原はまた黙って前を眺めた。
雨に淡く煙る樹林の緑が、横顔の輪郭をやわらかく縁取る。
なんで俺は、湯原の事、きれいに見えるんだろう
もう、今日が初めての事ではない。
無言でも居心地良いのと、関係があるんだろうか。そう思った時、ことんと胸裡が落着いた。
隣の空気を俺は好きなんだ
なんだ、そういう事か。英二は微笑んだ。
なんだか、調子が狂う、その調子に合わせてみたい気もする。
その脳裡を、警察学校の規則が掠めた。
『警察学校内の男女交際は禁止』
同性が想定されていないが、同じ事だ。
不安が脳裡を廻る。その眼前を、驟雨が白く埋めていく。樹間から流れる冷気が頬撫でる。
視界の端から隣を見ると、湯原は静かに辺りを眺めていた。
―俺は絶対に警察官にならなきゃいけない理由があるんだ
―死なない警察官になりたい
湯原の邪魔はしたくない。叶えてほしい。
自分自身も警察官になる事を、今はもう諦められないだろう。
無言でも、居心地が良い隣
どんなに得難いものか、知っている。寂しがりの自分は、きっと手放せない。
気持を誤魔化す事など、出来そうになかった。
言い訳して諦める事も、たぶん出来ない。
英二は目を瞑った。
―求める事は、しない
覚悟が肚に落ちるのを、閉じた目の中で待つ。
驟雨の冷気が頬を撫でていくのを、淡い眼の底で感じていた。
「こんな所で寝たら、風邪ひくよ」
目を開けると、この数カ月で見慣れた顔が、覗き込んでいた。
寝てないよと答え、ふっと英二は微笑んだ。
「雨、上がりそうだな」
英二は、空を見上げた。夕陽映した金色の雲と、その合間から青空が覗いている。
きれいだな
ふいに熱が溢れ、切れ長い眦を涙が零れた。
髪掻きあげる手の影で、指で密やかに涙払う。涙は指に絡まり、肌の奥へ沁みいった。













コメントここでよろしかったでしょうか。
はじめましてアオと申します。
習作と言われていますが、今進んでいるシリーズとても楽しみに読ませていただいてます。
小説ってすぐに展開を気にしてペースを上げて読んでしまいがちなんですが、描写がとても繊細なんで、ゆっくり読んでいます。
公園?のシーンは本当にゆっくり時間が過ぎているんだなーと思いました。
私も宮田と一緒で湯原の隣に居るような気分でした。安心するといいますか。
宮田が湯原に対してきれいだな、と思うとき私も一緒にきれいだなぁ~と思っています。笑
今回のお話の中で「どんなに手堅いものか知っている~…言い訳してもたぶん諦めることができない」というフレーズが宮田だ!!って思えて…って何を言っているのか自分でも分からないのですが、とにかく宮田だなぁと思ってしまいました。
ドラマも佳境に入ってきましたが、こうしたサイドストーリーが読めてとても嬉しいです。
いつか湯原目線のお話も読みたいな、と思います。
今後もお話を楽しみにさせていただきます。
では、乱文失礼しました。
二人の様子がとても可愛くて、少しずつ惹かれあっていく二人の情景が目に浮かび、とても面白かったです。
素敵な作品を有難うございました。応援していますので、頑張って下さい。
過分なお言葉を頂いてしまい…すみません。
かなり照れくさく、嬉しいです。笑
繊細な感情を書いてみよう、と取組んでいるのがこのシリーズなので、ご指摘ズバリ。
どこが良いのか書いて下さって、たいへん参考になります。また教えて頂けると助かります。
実験的な文章も書くと思いますが、ダメだし・リクエストなど遠慮なく言ってやってください。
一人でも楽しみにしてくれる方がいたら、続けようと思っています。笑
コメントありがとうございました。
面白いって、、すごい嬉しいです。普段は、ガチガチ文ばかり書いているので。面白いって感じて頂ける事は、心から励まされます。
このシリーズは、職場の先輩から聴いた事を書けたらいいなと始めました。
ダメだし等も是非教えてください。
こんなシーン出来る?など課題頂くのも大歓迎です。
コメントありがとうございました。