夢農園(野菜作り)
おめでとうございます 本年も宜しくお願いいたします。
農園を始めて、五年目に入り野菜作りも、どのような野菜を作るか、大体決まってきました。空豆、エンドウ豆は、去年の内に植えて少しずつ大きくしていきます。
今年始めて農園に行ったら、雪が降っていて野菜に霜よけに掛けている寒冷紗の上に雪が積もっていました。今年、一番にすることは寒冷紗の上に乗って いる雪を落とすことでした。
隣の建築やさんに新年の挨拶をして話をしていると、今年は、今までないほどの雪が降ったと話しておられました。30㌢位、積もったそうです。水道管も凍って水も出なかったそうです。これから、まだ、まだ寒い日が続きそうです。この日の収獲は、大根2本収獲して早々と帰ってきました。
収穫物
年末にお正月に使うお雑煮大根と、赤カブと、白カブを収穫してきました。農園の隣の建築やさんにお雑煮に入れる大根を食べて貰いました。持ち帰り、家でも何軒かお隣さんに食べて貰いました。少し大きくなっていて一安心しました。寒いので余り成 長していないので 、どうかなと心配していましたが、大きくなっていてひとあんしんでした。
赤カブは綺麗な色になっていました。カブは土の上に出て大きくなっています。白いカブは、だしでやわらかく炊いてから、鶏のミンチであんかけにして食べたらとても美味しかったです。
橿原神宮(かしはらじんぐう)
神武天皇が橿原宮で即位したという日本書記の記事にもとづいて創建された神社。睡蓮、菊の名所。大和三山のひとつ、
畝傍山の東南もとに広大な新城をもつ。祭神は媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)で、初代天 皇される神武天皇が橿原宮に即位したという『日本書記』の記事にもとづき、明治23年(1890年)に創建された。
京都御所の賢所(かしこどころ)、新嘉殿(しんかでん)を移して本殿、御饌殿(みけでん・後に神楽殿としたが焼失)とのえられた。文化殿(ぶんかでん)は天理市の武家屋敷を移築し たもの、濃い緑を背に桧皮葺きの外拝殿、内拝殿、本殿が一直線に並び、荘厳な雰囲気をかもしています。
白砂とのコントラストも美しい です。神殿の東側に約500種類、15万本の樹木が茂る橿原森林遊苑、南に四季おりおり色を映す深田池がある。畝傍山の北東にあるのは静寂につつまれた神武天皇陵。つつじは4月下旬~5月下旬、睡蓮は6月。菊10月中旬 ~11月下旬。菊花展が開催されています。
橿原神宮に、一月二日に新春祈願に参拝しました。何時もの年より人が少ないようでした。お
賽銭を上げるときも中々一番前に行けなかった
のですが、今年は、人がまばらで一番前まで行けました。今年も良い年で有りますように、と拝んできました。池のそばに行くと鳥が気持ち良さそうにスイスイと泳いでい
たので、池の周りを散策して回りました。天気も良いし気分も爽快でした。おいなりさんにもお参りしました。おいなりさんに行くまでの路に、寒桜が咲いていました綺麗でした。
越塚御門古墳
越塚御門古墳は、明日香村大字越小字塚御門194番地に所在する終末期 古墳です。古墳のある周囲は「真弓崗・越智崗」と呼ばれる地域で岩屋山古墳はこれまで文研資料等でも紹介されたことはなく、新規に検出された古墳です。
飛鳥時代の・斉明天皇(594~661)の陸墓とする奈良県明日香村の牽牛子塚古墳(7世紀後半)の約20メートル南東で新たに棺を納める石室が見つかり、同村教育委員会は、この石室周囲を地名から「越塚御門古墳」と名付けた、と発表した。石室の位置関係など
が、斉明天皇の 墓の前に、息子である中 大兄皇子(後の天知天皇)の娘「大田皇女」が葬られたとする奈良時代の歴史書「日本書記」の記途と符合しており、専門家は日本書紀の記
途と符合しており、専門家は日本書紀の記途を裏付ける歴史的な発見として注目している。歴 史的な発見として注目している。
「大田皇女を埋葬」新たな石室は棺を置く床石と、それを覆う天井石を組み合わせたドーム状。幅3㍍。奥行3・5㍍、高さ2.・6㍍。天井石は壊れ、一部しか残っていなかったが、床石はほぼ完全な状態で出土した。
棺台を囲むように幅2㌢の排水溝が彫られていた。棺そのものはなかったが、石室内から漆膜片や鉄釘が見つかり、中の棺は朱塗りの木簡だったと見られる。牽牛子塚古墳の石室と同様に出入り口が南側で、その前には小石敷いた墓路(長さ4㍍、幅1㍍)があった牽牛子古墳のために設置された土地の一部を取り壊して造られていることから、同古墳より後に造られたという。牽牛子塚古墳は9月、村教委の調査で当時の天皇家の墓特有の八角形墳と判明しました。
石室には二人分の棺を置く場所があった。日本書記には斉明天皇と、その娘の間人皇女を合葬したという味方を強めていた。さらに今回、合葬用の石室の前から新たに石室が見つかったことで、石室の位置関係などから、日本書紀に書かれている斉明天皇と娘の間人皇女、孫の大田皇女の墓であることが裏付けられたとしています。
大田皇女は飛鳥時代の政治改革「大化の改新」の立役者・中大兄皇子の娘。夫は中大兄皇子弟・大海人皇子(後の天武天皇)だが、夫の即位前、二人の子供を残して他界したとされている。
日本書紀の記載が裏付けられた発掘成果で、これで牽牛子塚古墳が斉明天皇陵だとはっきりした。大田皇女の墓は、斉明天皇陵から見える近い場所にありました。
越塚御門古墳が、二日間、十時から四時まで公開するとテレビで放送していました。去年、新聞にも載っていて公開するのを待っていたので、2日目の、公開の日に見に行きました。行ったら待ち時間が1時間ですと、係の人が言われました。道路に1時間も並び、太陽の影になったら寒くて中々進まない中、隣に並んだ人と大田皇女の話をしたり、飛鳥時代の女帝斉明天皇の話をしたり、その場で、逢った人と楽しく語りながら、古墳を見に行きました。石室は、溝が掘ってあったり、形状は鬼の俎・雪隠(明日香村の大字平田・野口)にあるのと同様の物です。見る時間はわずかな時間でしたが、楽しい時間でした。
夢農園の家の門作り
雪が積もっていて、中々農園に毎日行くことが出来ませんが、少し ずつコンクリートを固めて石段を造っています。