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近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

縄文人の謎・ロマン 宮城県石巻市の“南境貝塚”とは!

2007年09月01日 | 歴史
南境貝塚は、石巻湾口に近い北岸にあり、標高10~20mほどの丘陵鞍部に立地する。

 大正初期・1910年代以降しばしば発掘調査が実施され、特に1966年から68年にかけて5次にわたる発掘調査の結果、縄文早期末の土器をはじめ、中期末から後期初頭を中心とし、晩期末にわたる時期の厖大な遺物が出土した。

遺跡の面積は、東西120m・南北150mほどで、斜面一帯に広く貝層が分布していたが、貝層を形成したのは縄文中期末から後期初頭であったと云う。





写真は、本貝塚遺跡現場。
本貝塚は、石巻市と河北町との境界に所在し、北上川東岸の丘陵に立地する八幡神社の北側にある。
大正初期に毛利氏(毛利コレクションとして保存)が最初に発掘した。

その後開田目的のため、県による本格的発掘調査が行われ、貝層は長さ30mほど、厚さも2.2mにも達する堆積状態で、貝殻はハマグリを主体に62種類のほか、土器・石器・骨角器・貝製品など多様にわたる遺物が検出された。







写真は上から、骨角器製釣針、錨型釣針及び回転式離頭銛。
釣針が最も多く検出されたが、中でもほんの一時期ではあったが、写真のような、“錨型釣針”が注目される。

又“南境型離頭銛”も数多く出土し、中でも縄文後期初頭の、“回転式離頭銛”が注目される。

 というように時期により、漁具の形態が変化し、漁労環境・棲息魚類の変化に適応した結果であったと見られる。

それにしても漁労対象の主体は、釣り漁労の対象とされた体長50cm以上のスズキ、刺突漁労の対象とされたマグロが主役であったと見られる。



写真は、本貝塚遺跡の貝層。
縄文海退が進捗するにつれ、縄文中期末には大形であったハマグリが、後期初めには小形化していった。
と同時にアサリ・シオフキなど泥土性の貝類が増加した。

そして後期中葉以降は、ヤマトシジミが中心となり、自然環境が急速に変化し、汽水化現象が明らかにされている。









写真は上から、本貝塚から出土した、壷・香炉型土器・皿型土器及び土偶。

土器では、摩消文・渦巻文などの特徴を注目して下さい。
縄文早期末の土器をはじめ、生活必需品であった、石鏃・石匙・石槍・石斧・石錘など多量に検出された。
写真の通り、祭祀用として土偶片も出土している。

しかし住居址は未発見の状況で、遺構としては、土坑墓・貯蔵穴が僅かに検出された程度に留まっている。

昭和40年代に開田工事が行われ、以降段状に造成された大規模な改良工事により、貝塚遺跡は壊滅的な状況に追い遣られた。

しかし後継者不足もあり、減反政策の煽りで、現状では耕作されていない場所が散見されるだけに、破壊されてしまった貝塚遺跡が今となっては偲ばれる。


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