山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

新潟、山梨、長野、群馬、栃木、埼玉県などの埋もれた城跡を探索しております。カテゴリ「城郭一覧」で簡単にアクセス。
 

丹生城②

2018-05-20 18:29:27 | 山城ー上州
曲輪2から曲輪13・曲輪11へ

本丸と二の丸との間の空堀

空堀を通って南側に出ます。

曲輪2と曲輪13の東裾の道を進みます。

右上が曲輪2、下段が曲輪13、両方の曲輪は薮です。

曲輪13の西側斜面

斜面下方に段曲輪

下方から見上げれば、城壁が二段に備えています。

曲輪13から曲輪11へ移動します。

曲輪11

曲輪11から南尾根を下ると腰曲輪

空堀と土塁

土塁の南下に南尾根腰曲輪

腰曲輪Ⅱ

腰曲輪Ⅲ
次回本丸から東尾根の曲輪7周辺

岩松氏の分裂

 直国のあとは満国(経家の子泰家の子ともいう)が継ぎ、満国の妹は新田義宗の室となり容辻丸を生んだ。満国は容辻丸を寵愛し、実子の満氏が早世すると容辻丸を養子として家督を譲った。成長した容辻丸は岩松満純と名乗り、鎌倉府に出仕して治郎大輔に任じた。
 応永二十三年(1416)、前管領上杉禅秀(氏憲)が鎌倉公方足利持氏に謀叛を起した。世に「禅秀の乱」と呼ばれる争乱で、禅秀の女を室に迎えていた満純は、甲斐の武田信満らとともに禅秀に加担した。乱は緒戦こそ禅秀方が優勢であったが、やがて幕府が持氏を支援して兵を出すと禅秀方の敗北となった。鎌倉から上野に奔った満純は残党を集めて再挙を計ったが敗れ、鎌倉竜ノ口において斬罪に処された。
 満純のあとは直国の孫持国が継ぎ、満純の嫡子土用丸は世良田の長楽寺で剃髪し源慶と称し甲斐の武田方に走った。さらに、源慶は濃守護土岐持益のもとに隠れ、のち将軍足利義教に召されて上洛した。
 禅秀の乱後、持氏は禅秀に加担した諸将を討伐、それは、京都御扶持衆と呼ばれる諸将にもおよんだ。この持氏の行動は幕府にとって看過できるものではなく、両者の対立は一触即発の状態となった。事態は管領上杉氏らの奔走によって、ひとまず和睦ということになった。しかし、持氏と幕府の関係はともすればぎくしゃくとしたものであった。そのような正長元年(1428)、将軍足利義持が死去した。義持の嫡男で五代将軍であった義量もすでに死去しており、義持の猶子であった持氏は将軍職を望んだ。ところが、くじ引きによって義持の弟で青蓮院門跡であった義教が将軍に選ばれた。これに失望した持氏は、以後、ことあるごとに義教と対立した。
 そして、永享十年(1438)、義教と決定的対立となり、敗れた持氏は滅亡した。いわゆる永享の乱であり、義教のもとにあった源慶は還俗を許され、新田治郎大輔岩松太郎家純と名乗り、京勢として関東へ下向した。間もなく、持氏の遺児安王丸・春王丸を擁した結城氏朝が挙兵すると、家純は幕府方の大将として活躍、岩松氏の家督となった。ここに、岩松氏は持国の「京兆家」と家純の「礼部家」*とに分裂したのである。

 岩松氏と丹生城主、新田景純との関係

後閑氏は戦国時代に上野国碓氷郡の後閑城を支配した氏族で、岩松成兼あるいは新田景純とその子信純から後閑を称したと伝わる。
先祖を新田氏の棟梁新田義貞の末弟・四郎義重と称した。また『姓氏家系大辞典』(太田亮、1963年)によれば、義一―重兼―兼重―義景―義行―行兼―景純という系譜を伝えるという[2]。ただし義一は新田義貞の子(「新田族譜」)とも里見氏後裔たる大島義政の弟(『上野国志』)ともされる。
一方で後閑氏は岩松氏の後裔とする説がある。岩松氏は室町時代に京兆家と礼部家に分裂しているが、この両家それぞれを先祖とする説がある。先祖を京兆家とする説では、岩松二郎(岩松持国の子)が上野国甘楽郡丹生を領し、その子が新田景純であるとする(『系図纂要』)。礼部家説では、岩松明純の子・顕純が丹生に領地を得て土着し、子の憲純の末裔が新田景純であるとする(『関東地方の中世城館』)


ウィキペディアより


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。