山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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大城・小城(井上城)②

2016-12-30 21:25:55 | 山城ー信州
大城に向かいます。


第一堀切

第二堀切

上から堀切を見下ろしています。

大城の城壁

帯曲輪が守り

本丸西下の帯曲輪は広くなっています。

本丸、西から見ています。

自分の所領の拡大と領地と連絡するための山城と窺えます。

本丸を東から見ています。

本丸東下の副曲輪

浅い空堀と東曲輪

東曲輪の東下の切岸

次回 東尾根

井上氏の領国展開

 室町末期から戦国時代にかけて、井上氏の封建領主制は発展をみせ、井上に居館を構える惣領家のほかに綿内の小柳・楡井・狩田・八町、水内郡の長池・高田などに庶子家を分出している。このうち、綿内は井上氏の穀倉地帯となる重要な所領であり南に備える前線でもあった。そこで、この地には有力な庶家がおかれていた。武田信玄が北信濃に進出してくる弘治二年(1556)当時には、綿内の地に井上左衛門尉、小柳に井上出羽守満直がいたことが知られる。
 井上氏は信濃源氏の名族ではあったが、総じてその領主的発展は停滞をみせており、高梨・須田氏らに圧迫されることも多かった。応仁二年(1468)、井上政家は須田郷へ押し寄せたが逆に打ちまけて多数の討死者を出している。翌年には、狩田で高梨政高と戦ったため狩田は不作となっている。合戦の結果は伝わっていないが、相手が強剛高梨氏であることを思えばおそらく勝味はなかっったことであろう。一方、応仁三年(1469)から文明七年(1475)のころに、綿内を領する井上政満が亘理と小柳の諏訪上社頭役を勤めたことが知られる。
 応仁から文明年間は、応仁の乱に始まった中央の戦乱が地方に拡散していって、戦国時代に入った時期であった。信濃でも、守護小笠原家に内訌が起り、守護政秀が一族に討たれるなど下剋上が始まっている。北信濃の地も戦国的様相が深まっていき、井上氏・須田氏・高梨氏らの間でも領主的対立が激しくなり、井上氏も戦国争乱の時代の波に翻弄されるようになるのである。 武家家伝より


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