山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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氏族の追跡(長野氏)⑧

2016-06-04 19:58:33 | 氏族の追跡
戦国の争乱と榛名地域(榛名町史)

三、方業から業政へ

憲業の跡を継いだのは誰であろうか。「長野氏系図」の一つは、憲業について「無子、弟信業長子業氏を子とす」とあり、信業について「兄憲業に継いで箕輪城に住す」とみえる。これによると、憲業死後、箕輪城に信業、室田(鷹留城)に信業の長子業氏が入ったかのようである。事実、業氏の子孫は鷹留城主の系統となる。憲業は実子がなかったため弟の信業に後事を託したとみられる。
 ところでほかの系図には憲業の弟としては方業が見える。この方業については確かな史料によって存在が確認される。むしろ信業については確かな史料はない。大永七年(1527)の上杉家中の抗争で、長野左衛門太夫方業が厩橋長野宮内少輔とともに東西から惣社蒼海城を攻め、長尾顕長に圧迫を加えた。この時、長尾方の徳雲軒性福を内応させたが、性福から出された返書の宛名には「箕輪へ」とあり、方業は箕輪城に居たことがわかる。方業の官途名が左衛門太夫であり、文明期にみえた為業との関わりが考えられる。方業は為業系の人物で、箕輪長野氏の嫡系とみられる。
 方業の後、箕輪城主として業政がみえる。「雙林寺伝記」に初めて業政が登場する。この記事によると、白井長尾家では大永七年十二月に景英が没した。その四十九日の法要が行われた翌年正月二十四日に、景英の嫡男の景誠が野心の家臣によって殺害され、白井長尾家の血統が絶えた。そこで景誠の母の弟にあたる業政が白井に乗り込み、長尾家家臣らとともに惣社長尾家から景房を招いて家督としたという。

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