山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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腰越城④

2018-08-13 21:41:40 | 山城ー武州
二の丸から二の丸南下曲輪


二の丸西虎口

二の丸

二の丸東側から下り、右上に進めば南下曲輪へ通じ、左手に進めば最初の横堀へつなぐ通路に通じています。

前の写真での右上に進むと、この階段を下りる道となり

左手を下ると

二の丸南下曲輪

現在地は違います。二の丸の南下にある半月の曲輪を南下曲輪と言っております。

この階段に戻って左手に進むと

階段が伸びて

ここを右手に進めば、初めの記事1の横堀に通じています。


二の郭に戻ります。

ここを登れば本丸ですが次回とします。

松山城の興亡②
松山城も北条氏康に奪われた。しかし憲重の娘婿の太田資正が同年9月にこれを奪還して松山城に入った。だが10月に本家の兄が死去した資正は12月に太田氏本家を継ぐために岩付城(岩槻城)に戻ることになり、縁戚である朝直に松山城を預けた(資正の妻は朝直の従兄弟にあたる)。だが、朝直は資正から離反し、松山城ごと後北条氏に従った。

太田資正①
生涯
大永2年(1522年)、扇谷上杉氏の家臣・太田資頼の次男として誕生。
はじめ、父や兄・資顕と同じく扇谷上杉氏に仕えた。天文5年(1536年)の父の死後は、兄が家督を継いだが、資正は資顕と不仲であったため、岩付城を出て舅の難波田憲重と松山城に住んでいたとされる。その後、兄は相模国の北条氏への従属に傾いていくが、資正は憲重らと共に扇谷上杉氏に仕え続けた。その後、天文6年(1537年)、憲重は北条氏との戦いで3人の息子と甥の隼人正を失ったため、資正は憲重の婿養子として松山城の継承権を得たとされている[2]。
天文15年(1546年)、主君・上杉朝定が北条氏康との決戦である河越夜戦で討死を遂げ、扇谷上杉氏が滅亡する事態となった。資正は松山城を退いて、横瀬氏支配下の上野新田に逼塞する。天文16年(1547年)9月、北条氏の隙を突いて松山城を急襲して奪回。同年10月に兄が死去すると、12月に当主不在の岩付城を攻め、実力で家督を継いだが、親北条派の一部の家臣が離脱して北条氏に走ったといわれる。しばらくして、すぐに北条側が巻き返し、松山城を任せていた上田朝直は北条氏に寝返り、岩付城も囲まれたため、天文17年(1548年)1月に北条氏に降った。その後、天文23年(1554年)4月に父も用いていた受領名である美濃守を名乗っている。
 この頃、相模北条氏は甲斐武田氏、駿河今川氏と三国同盟を結び、北関東では北条氏と越後上杉氏との抗争が展開されていたが、資正は北条家臣として、主に常陸国方面で戦った他、横瀬氏や白河結城氏・伊達氏などとの間で北条氏の取次を務めている。また、北条氏康も資正が名門太田家の末裔である事に配慮して、名目上は古河公方・足利義氏の家臣として処遇し、資正の嫡男・氏資と自分の娘との婚約を行った。しかし永禄3年(1560年)、越後国の上杉謙信が大軍を率いて関東に侵攻してくると(小田原城の戦い)、12月には資正もこれに応じて[3]上杉軍の先鋒を務めるなど、北条氏から明確に離反・敵対するようになる。これに対し、氏康は資正に対する報復のため、何度も武蔵岩付城、松山城に攻め寄せた[4]。 なお、上杉氏傘下の時期においても、里見氏や那須氏との間で取次を務めている。一方で永禄6年(1563年)7月2日には朝廷より民部大輔に任じられており。これは北条氏による懐柔策とする説ともいわれているが、資正の姿勢が変わることはなかった。 ウィキペディアより










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