山城めぐり(兄弟ブログ biglob)

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たて茂沢城②

2018-10-03 22:22:56 | 山城ー信州
曲輪4から本丸へ

三段の段曲輪を抱える曲輪(本丸では、私見)から曲輪4を見下ろしています。

曲輪4に立って見ています。

曲輪4から振り返って三段の段曲輪を抱える曲輪の城壁を見ています。

曲輪4の南側に尾根が下っていて

尾根を下ると宮坂氏の縄張り図では本丸が見えてきます。

縄張り図は「信濃の山城と館」佐久編

曲輪1(本丸)は広大です。

曲輪1から振り返って、曲輪4の城壁を見ています。

曲輪1の北側、縄張り図で曲輪1・2・3は南に茂沢川、北に湯川が流れていて茂沢川は深い渓谷をなしていて、湯川は川幅広く守りやすい地形ではあります。

次回 曲輪2・3・6

たて茂沢城の城主は不明確ですが、茂沢に隣接した佐久市の平尾に平尾依田氏があり、この一族依田伊賀守長久が関連している可能性と、長倉保は茂沢の北に位置し、領主武田伊豆入道光蓮や長倉郷内に存在した阿江木氏などを考慮してみる必要があると、宮坂氏は著書で記しています。

平尾依田氏
室町時代前後から、在地の依田氏は、佐久郡に進出していく。平尾、平原などに進出し、平尾氏、平原氏等を名乗った。信濃守護・小笠原氏の分流である、大井氏に従臣した影響によるところが大きい。大井氏が佐久を所領していたためである。ただし、依田氏の佐久郡・芦田への進出を巡り、大井氏に従臣した時期における論争がある。在地の依田氏が大井氏に恭順したのは、永享8年(1436年)に小笠原氏・大井氏との戦いに敗れた後とする解釈がある。その一方で、幕府8代将軍・足利義政が発した、御教書を以って、依田氏の芦田進出の時期を判断する立場もある[15]。足利義政の記したところの「芦田下野守」は、依田氏の同時期の系図・系譜には存在しない[16][17]、永享元年(1429年)には、鎌倉時代より続く大井法華堂の先達職に依田氏が就任していた[18]、等の史実に裏付けられたうえで、信濃守護小笠原氏・大井氏の陣営にあった、依田右衛門尉経光が永享8年(1436年)に芦田に進出して芦田氏を名乗った[19]とする。これによれば、依田氏は、在府での地位を賭するような、足利義政の不興を買う振る舞いはせずに、大井氏との関係を良好に保っていた。足利義政の命を受けて[20]、信濃守護小笠原氏・大井氏陣営が戦ったのは、滋野氏の流れを汲む、芦田氏、海野氏、根津氏であった。 ウィキペディアより






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