Ommo's

古い曲が気になる

帯広市長選

2010-04-17 | 日記・エッセイ・コラム

                     

北海道・帯広市長選、あす投票なのかな。

自民党系の候補には、中川昭一夫人が応援についている。同時に行われる市議補選には、中川昭一さんの秘書が立候補している、という。中川昭一さんの弔い合戦がはじまっている。頑張ってほしい。

いま、わたしは、目の前の中川昭一カレンダーを見ながら、キーボードを打っている。

日本じゅうの人々は、民主党の本性を、見てしまった。政権交代して、すでに8ヶ月。なにかいいことが、あったか? 景気回復は、先進国で日本だけ取り残されて、失業者があふれ、日米関係はグダグダだ。脱税首相、不動産屋幹事長。まるでナチのような独裁政党、なんにも変わらない利権体質。選挙のエサにしたキレイ事は、全部、ウソ。逮捕・起訴されても辞めない国会議員たち。日本に、倫理観という語は消えた。

おまけに、鳩山は、天まで怒らせ、春もこない。4月だというのに、きょうは東京で、雪だ。

いま、日本じゅうに吹き荒れる風は、完全に、非民主党、反民主党だ。帯広市民の良識とは? じつに興味がある。

おそらく、あと3年は、この政権はもたないだろう。もちろん、鳩山政権はすぐに瓦解する。民主党主体の政権自体が、衆議院議員任期いっぱいもたないだろう。すべてに、あまりにも、幼稚だ。そして、政権党としての基本的な清潔感も、倫理観もない。経済成長プランもない。バラマキの福祉政策だけでは国家成長はないんだ。民主党の、その場しのぎの幼稚な政策では、国家が溶解するか、あるいは政権が崩壊して投げ出すか、だろうな。

いま、それに国民が気づいている。


江田議長、ポーランド訪問中止

2010-04-17 | 日記・エッセイ・コラム

                   

江田参議院議長の、ポーランド大統領の国葬のため訪問は、アイスランドの火山噴火によるヨーロッパの空港封鎖で中止だそうだ。まだほかの国の首脳は、出席中止を発表していないようだ。オバマ大統領が、どうやってポーランドに入るのか、興味がある。隣国・韓国の首相も、出席を発表していた。http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010041700005


ポーランド大統領国葬

2010-04-16 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                              

寒い! 寒いとボヤく気にもならないほど、寒い。きょうの東京、最高気温、7度。雪がちらつき、4月としては50年ぶりの低温だという。今夜は、大雪警報も出ている。ひどい春だ。

この異常低温は、すべて、Loopy鳩山のせいだ。このクズ政権を選んだ愚民たちのせいだ! 鳩山と小沢、そして、テレビ・新聞に煽られて、ロクに考えもせず、民主党に投票した日本人は、天に呪われてしまったのだ。

と、あまりの寒さに、今夜も、このジジイは、八つ当たりするのであった。

                                 

なぜだ? なぜ、鳩山由紀夫は、18日のポーランド大統領の国葬に参列しないのだ? 各国は、大統領、首相、国家元首クラスの出席を決定している。だが、日本政府から派遣されるのは、江田参議院議長だ。議長といっても、対外的には、いち国会議員にしかすぎない。大統領・首相とは立場が、まるでちがう。EUの重要な国家であるポーランドの大統領国葬に対して、非礼じゃないのか。

首相自ら行く必要もない国際会議に、夫婦で、政府専用機で出かけて行く Loopy鳩山は、なぜ、ポーランド大統領の葬儀に参列しないのだ? こうした、この政権の外交センスの欠如が、大きく国益を損なっているのじゃないのか? 

国会開会中であっても、鳩山首相は、毎週日曜日、パーティだファッション・ショーだリゾートホテルだ、と夫婦で遊びまわっているのじゃないのか? ポーランド国葬の18日は、日曜日だ。世界じゅうから国家首脳が参列する葬儀に、日本国の代表として出席すればいいだろうに。月曜日1日の国会欠席で帰国できるだろうに。まったく、アホが首相になると、国家も国際的アホになってしまう。

                
  ポーランド国葬に、江田議長 http://www.asahi.com/politics/update/0416/TKY201004160349.html                                              
    オバマ大統領、ポーランド大統領国葬に出席   http://www.asahi.com/international/reuters/RTR201004140048.html?ref=reca

                       

いっぽう、岩手県奥州市水沢地区では、18日、小沢・民主党幹事長の両親をしのぶ大法要があるそうだ。民主党関係者、数千人が参列の予定だ、という。鳩山首相は、ポーランド大統領の国葬ではなく、この法要に出席するのだろうか? じつに興味深い。http://www.asahi.com/politics/update/0410/TKY201004090587.html


バカが専用機でやってきた

2010-04-15 | 日記・エッセイ・コラム

                             

きょう発売の週刊文春のトップ記事、タイトルは「バカが専用機でやってきた」。バカとは、もちろん鳩山由紀夫・日本国首相のこと。アメリカは、鳩山に辟易としているようだ。とうぜんの反応だ。http://www.bunshun.co.jp/mag/shukanbunshun/


奄美群島日本復帰

2010-04-15 | 日記・エッセイ・コラム

                                                                                        

鳩山政権は、普天間基地移設問題で迷走をつづけている。まさにダッチロール状態だ。アメリカのメディアは、鳩山首相をルーピー Loopy 書いている。バカ・アホ・マヌケ・キチガイ・卑怯者、など人を馬鹿にするときの、最大級の表現のひとつだ。フジテレビ、夕方のニュースでは、(くるくる)パーといわれているようなものだ、と報道していた。ホワイトハウスの高官が、鳩山首相をこう呼んでいるのが、新聞記者にもれたのだろう、と。

 ( メディア自身の調査でも、政権の支持率が30%を割った。これでもう、メディアは鳩山由紀夫を擁護しないだろう。大多数の国民は、もう支持してないのだから、手のひら返しに政府を非難・批判しなければ、自分らがマヌケになる。客の意思(民意)に反して、いつまでも政権にすりよっていては、自分らの商売にかかわる)。

  ワシントン・ポスト紙が鳩山首相を酷評 http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20100415/plt1004151614002-n1.htm

  哀れでますますいかれた鳩山首相 http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20100415-OYT1T00362.htm

                   

鳩山政府は、沖縄・普天間基地の移設先の候補に、唐突に、徳之島を名指した。しかし、奄美群島の激烈な祖国復帰運動を知っていれば、徳之島に米軍基地をつくるなどという発想は出てこないはずだ。アメリカは、沖縄よりずっと前に奄美群島の統治を諦めて日本に返還しているのだ。1953年(昭和28年)のことだ。

沖縄とおなじように、戦後、奄美群島はアメリカ領になった。日本は外国だから、鹿児島に行くのも、密航になった。アメリカは、集会や出版を禁止した。

しかし、奄美群島祖国復帰運動は、激しかった。奄美の人々の日本に対する帰属意識は、強烈だった。学校では、米軍支配下の琉球政府が提供する教科書をつかわず、日本から密かに持ちこんだ教科書をつかった。14才以上の99.8%の住民が、祖国復帰嘆願書に署名をした。小学生、中学生が血判状をしたため、全島ですべての機能を停止するゼネストを決行した。青年たちは、小舟で鹿児島に密航して、東京に出て、国会や各国大使館で祖国復帰を訴えた。奄美大島祖国復帰会議の泉議長は断食をつづけ、昭和天皇に長文の電報を打って祖国復帰を嘆願した。

こうした激しい祖国復帰運動と反米運動に嫌気をさしたアメリカは、奄美群島統治を諦め、「クリスマス・プレゼントだ」と捨てぜりふを残して、1953年12月25日、日本に返還したのだ。(沖縄返還は、1972年・昭和47年)。

そういう歴史がある奄美群島の徳之島に、鳩山政権は、ふたたび米軍基地をつくろう、という。徳之島の人々が激怒するのも、とうぜんのことだ。

   奄美群島日本復帰 http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/2917/japan/amami.html


2010-04-14 | 日記・エッセイ・コラム

43ッ国を集めた、核サミット。オバマ・アメリカ大統領の政治ショーだ。政治家の商売、偽善だ。アメリカは、もうCSM(非核弾頭ミサイル)の開発を成功しているから、核兵器の維持管理がめんどうなんだ。

この新しい兵器は、いったん宇宙空間まで打ち上げた超合金の塊を、ピンポイントで、地上に撃ち込むという、一見原始的な兵器だが、マッハ6の落下する破壊力は、すさまじい。放射線でまわりを汚染することはない。

アメリカはこの兵器を完成させている。おそらく、ロシアも、中国も持っているだろう。http://www.youtube.com/watch?v=Mvqi6QRGAR4


「明日に架ける橋」は、昭和45年発売

2010-04-13 | 日記・エッセイ・コラム

Blu-spec CD 明日に架ける橋

サイモン&ガーファンクルを世界のトップスターにしたのは、このアルバム「明日に架ける橋 Bridge Over Troubled Water 」だ。グラミー賞6部門受賞、全米No.1じつに10週間。1970年(昭和45年)の発売だ。

日本でもよく売れた。オリコンチャートでは、7週間No.1にあった。北海道・帯広の、わたしの店では、店頭に大きな看板をあげて宣伝した。開店して最初のビッグヒットLPだったのだ。『洋楽のLPも、こんなに売れるのか……』という感慨があった。

このアルバムからシングル「明日に架ける橋」が、全米・全英No.1になった。

 サイモン&ガーファンクル 明日に架ける橋(1969年ライブ) http://www.youtube.com/watch?v=GYKJuDxYr3I 

しかし、残念なことに、このアルバムを最後にふたりはグループを解消した。グラミー賞の授賞式にふたりは出席するが、それを最後に、1981年9月19日、ニューヨーク、セントラルパークで53万人のまえで再び歌うまで、ふたりそろってステージに立つことはなかった。

ベスト盤やライブ盤は、その後も発売されるが、オジリナルのアルバムは、この「明日に架ける橋」が最後になる。だからグループとしては、たった6枚のアルバムを残しただけなのだ。しかし、「明日に架ける橋」から11年後、セントラルパークに53万人もの人々が、たったひとつのグループをみるために集まったのだから、いかにアメリカ人に愛されていたかわかる。

わたしは、この翌年、1982年、後楽園球場で再結成したサイモン&ガーファンクルをみた。感動だった。

サイモン&ガーファンクルは、ことしも積極的にツアーをやっている。4月・5月は北米ツアーだ。スケジュールは、下のオフィシャルサイトにあるので、貯金をはたいて出かけてみてはどうだろう。

  サイモン&ガーファンクル オフィシャルサイトhttp://www.simonandgarfunkel.com/index.html


「ライク・ア・ローリング・ストーン」と「サウンド・オブ・サイレンス」の関係

2010-04-12 | 日記・エッセイ・コラム

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1963年11月22日、アメリカ大統領ジョン・F・ケネディーが、白昼、テキサス州ダラスの街のなかで射殺された。

ポール・サイモンは、この事件にショックをうけて、すぐに詩を書き、曲をつけた。その曲を、小学生のときからの親友、アート・ガーファンクルにみせた。ふたりで歌うことにした。それが「サウンド・オブ・サイレンス」だ。ふたりは、クイーンズとコロンビア、学校は違うが大学生だった。

ふたりは10代のとき、流行りのエバリー・ブラザーズやジャン&デーンのような、ロックンロール・デュオを組んでレコードデューしたことがあった。トム&ジェリーだ。ビルボードのトップ40に入るヒット曲もあった。

  トム&ジェリー Baby Talk http://www.youtube.com/watch?v=yNwDYYl5uk8

しかし、もともとミュージシャン志望でないアート・ガーファンクは、名門コロンビア大学に入り、ポール・サイモンは、クイーンズ大学に入って、トム&ジェリーは解散した。

(アート・ガーファンクルは、ポップス界随一のインテリだ。大学院を出ていて、芸術史の博士号と、数学の博士号をもっている)。

ポール・サイモンは、クイーンズ大学でキャロル・キングやジェリー・ゴフィンと音楽をつづけて、曲を書き、コーヒーハウスで歌っていた。

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ポール・サイモンの歌う「私の兄弟 He Was My Brother」を聴いて、コロムビア・レコードに誘ったのが、トム・ウイルソンだった。トム・ウイルソンは、ハーバード大学をでたあと、ジャズのサン・ラとセシル・テーラーをプロデュースしてデューさせ、コロムビア・レコードに入って、ボブ・ディランのプロデュースをしていた。

ポール・サイモンは、かってのトム&ジェリーの相棒、親友アート・ガーファンクルを誘って、サイモン&ガーファンクルのファーストアルバムをコロムビアで制作した。プロデュースは、もちろんトム・ウィルソンだ。しかし、ちっとも売れない。(売上3000枚と書いてある文もあるが、これはメーカーの出荷数じゃないかな。全米の小売店で実売した枚数は、もっとずっと少ないのじゃないかな)。

このまったく売れなかったアルバムが、「水曜の朝、午前3時」。のちに60年代の傑作といわれるLPだ。名曲「サウンド・オブ・サイレンス」も入っている。

   アルバム「水曜の朝、午前3時」の The Sound of Silence http://www.youtube.com/watch?v=pDYxgDO5bCI

水曜の朝、午前3時(紙ジャケット仕様)

アルバムが発売になっても、まったく反応がないので、サイモン&ガーファンクルは、また解散した。アート・ガーファンクルは、大学院の勉強にもどり、ポール・サイモンは、ヨーロッパに放浪の旅にでた。ヨーロッパ・イギリスのコーヒー・ハウスやクラブで、弾き語りをして生活した。

パリ、コペンハーゲン、ロンドンと流れ歩き、イギリスには長く留まった。このとき、ポール・サイモンにギターを習ったイギリスのミュージシャンがたくさんいるという。のちに「メロー・イエロー」などのヒットをとばすドノバンもそのひとりだった。

イギリス・サセックスのコーヒーハウスで歌っているときに恋人ができる。キャシー・シティー Kathy Chitty 。「キャシーの歌 Kathy's Song 」で歌われる、キャシーだ。このとき、キャシー17才、ポール・サイモン22才、ふたりは、アメリカに渡りバスで旅をした。

青春だ。60年代70年代、最高に成功したシンガー・ソングライターのひとり、ポール・サイモンも、恋人とバスでアメリカを旅していたことがある。

ふたりは、イギリスにもどり、ポール・サイモンは、ロンドンでソロ・アルバムを制作している。このときも「サウンド・オブ・サイレンス」をレコーディングしている。ここでは、完全にギター1本でポールのボーカルだけ、しかも、ワンマイク、つまりボーカルもギターも、ひとつのマイクで録音している。ポールが足で床を踏んでリズムを刻む音が入っている。おそらく、この形が、ポール・サイモンの「サウンド・オブ・サイレンス」の理想の表現なのだろう。

このイギリス時代の恋人、キャシーは、ソロ・アルバムのジャケットに写っている。失意でイギリスに渡ったポール、そこで出会って、貧しいが才能あふれるミュージシャンを愛したイギリス娘。青春だ。

ポール・サイモン・ソングブック(紙ジャケット仕様)

  「ポール・サイモン・ソング・ブック」の The Sound of Silence http://www.youtube.com/watch?v=DzsaE68IfXI

いま、わたしは、このイギリスで録音したポール・サイモンのソロの「サウンド・オブ・サイレンス」が好きだ。

ポール・サイモンがイギリスに渡り、アート・ガーファンクルは大学院にもどって、グループは消滅した。だが、プロデューサーのトム・ウイルソンは、サイモン&ガーファンクルを諦めなかった。ふたりに無断で、LPの音源にロックバンドをミックスして、フォーク・ロック・バージョンにして「サウンド・オブ・サイレンス」を発売することにした。

ボブ・ディランの「ミスター・タンブリンマン」を、バーズがロック・バージョンにしてヒットしていたことが、「サウンド・オブ・サイレンス」をロック版にしてシングル発売しようと思った動機だと、トム・ウィルソン自身がいっている。

そのとき、トム・ウィルソンは、ボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」のシングルをレコーディングしていた。そのバンドで、「サウンド・オブ・サイレンス」のバックを演奏してもらった。その演奏とLPのマスターをミックスして、シングルをつくった。

デイランのシングル「ライク・ア・ローリング・ストーン」の録音は、1965年(昭和40年)6月15日・16日と記録されているから、「サウンド・オブ・サイレンス」のロック・バージョンのバック・バンドも、このどちらのかの日にレコーディングされたのだろう。

こうして、「サウンド・オブ・サイレンス」のロック・バージョンは、イギリスにいるポール・サイモンにも、アート・ガーファンクルにも、無断で制作され、発売された。

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このロック・バージョンのシングル盤発売を聞いて、ポール・サイモンは激怒した、といわれる。とうぜんだ。だが、勝手につくったのは大問題だが、トム・ウィルソンの判断が、商業的には正解だった。ロック・バージョンの「サウンド・オブ・サイレンス」は、ヒットチャートを急上昇して、トップになったのだ。

イギリスのポール・サイモンに、プロデューサーのトム・ウィルソンから連絡が入る。ヒットチャートのトップだ、アメリカに帰ってこいよ、サイモン&ガーファンクルをやろうよ!

シングルがチャートを上昇すると、ちっとも売れなかったアルバム「水曜の朝、午前3時」が、爆発的に売れだした。

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ボブ・ディランと、プロデューサー、トム・ウィルソン。

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プロデューサーのトム・ウィルソンは、コロムビアをやめたあと、マザー・オブ・インベンションをデビューされ、フランク・ザッパをロック界のカリスマにする。しかし、1978年、心臓発作で急死した。トム・ウィルソンがプロデュースしたボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」は、2004年ローリングストーン誌の、史上最も重要な500曲の第1位だ。

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左で立っているのがフランク・ザッパ、右で電話をかけているのが、プロデューサー、トム・ウィルソン。

  全米No.1になったシングル盤のThe Sound of Silence  http://www.youtube.com/watch?v=0khTIzXkjeg

しかし、やはりポール・サイモンは、ロック・バージョンが意に沿わないのか、ライブでこの曲は、ギター1本でやる。ある意味、皮肉なものだ。この、作者ポール・サイモンに無断でつくられたロック・バージョンがなければ、サイモン&ガーファンクルの栄光はなかったのだから。

アーティストとプロデューサーとの立場の違いが、明快にわかる事例でもある。

 ライブのTHe Sound of Silence  1967年モンタレー・ポップ・フェス http://www.youtube.com/watch?v=h-S90Uch2as&feature=related

 サイモン&ガーファンクル 「キャシーの歌」http://www.youtube.com/watch?v=Q60YKfPKdjQ

 ボブ・ディラン Like A Rolling Stone http://www.youtube.com/watch?v=4hr_G3e0rgI&feature=related

 バーズ Mr.Tamburime Man http://www.youtube.com/watch?v=0cBS9j-SgJQ&feature=fvst


カチンの森

2010-04-12 | 日記・エッセイ・コラム

                  

ポーランド大統領の墜落事故で、ポーランド国民は喪に服している。http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00175306.html

ポーランド大統領一行は、カチンの森事件の犠牲者を追悼する式典に向かっていて、ロシアのスモレンスク空港で墜落した。

「カチンの森事件」とは、ソ連軍が犯したポーランド人大虐殺事件だが、ソ連は、ナチ・ドイツの犯行だと一貫してしらを切ってきた。だから、ソ連から金を提供されてきた日本の新聞・出版、マスコミ界、そして左翼は、徹底して無視してきた。やっと、最近、プーチンがソ連の犯行だと認めたが、ソ連の犯罪であって、ロシア人に責任はないと言っている。もろん、プーチンは謝罪などしない。「不幸な事件だ」と、まるで人ごとだ。

1939年、ポーランドは、ソ連軍に破れて25万人以上の軍人と政治家、ジャーナリスト、一般市民が、ソ連軍によって連行された。ポーランド政府の再三の抗議で、捕虜が釈放されて帰国したが、連れ去られた人たちの10分の1、わずか2万7000人でしかなかった。残りの22万人以上のポーランド人は、二度とロシアから帰って来なかった。

1943年、ロシアに侵攻したドイツ軍が、スモレンス郊外、カチンの森林のなかで、多数の虐殺死体を発見した。遺体はみな、ポーランド軍将校の制服を着ていた。後ろ手で針金で縛り、後頭部から銃弾を撃ちこむ処刑は、ソ連赤軍の常とう的方法だった。ドイツ政府は、ソ連の残虐性を宣伝するために、ドイツ軍に発掘をさせ、4400体を発見する。しかし、戦況は変わって、ソ連軍がドイツ軍をロシアから敗走させた。

イギリス軍は、ドイツ軍の無線を傍受していて、カチンの森でソ連軍によるポーランド人の虐殺死体を、ドイツ軍が発見したことを知っていた。チャーチル首相にも報告されていた。チャーチルから、アメリカ大統領ルーズベルトにも知らされた。しかし、戦争真っ最中に、同盟国ソ連の犯罪を暴く必要はない、と両首脳は判断した。無視したのだ。

ソ連は、カチンの森の虐殺は、ナチ・ドイツの蛮行だ、と主張しつづけた。あろうことか、ドイツの戦争犯罪を裁くニュールンベルグ裁判でも、ソ連は、カチンの森事件を、ドイツ軍の、人道に対する恥ずべき犯罪だ、と断罪したのだ。アメリカもイギリスも、このソ連の恥ずべき主張を支持したのだ。敗戦国の哀しさ、ドイツ人が無罪を主張して、ソ連赤軍の犯行だと言っても、ムダだった。

こうして、60年いじょうの時が過ぎた。スターリンのポーランド人処刑命令書が発見・公開されて、やっとプーチンが、カチンの森虐殺は、ソ連軍の犯行だった、と認めた。最近のことだ。

ロシアには、カチンの森のように、ソ連軍によってポーランド人が埋められたところが、まだまだ知られずにたくさんあるのだろうな。

日本では、ソ連崩壊まで、新聞・マスコミ・左翼に、ソ連の金が多量に流れていたから、ソ連の犯したカチンの森事件は、タブーだった。学校の世界史で教えることなどけっしてないだろう(カチンの森事件を、ナチ・ドイツがやった虐殺と教える教員はいても、共産ソ連の戦争犯罪だと教える教員は、日教組・北教組にはいないだろうな)。いまも、マスコミのれんちゅうは、ソ連赤軍の犯罪は、タブーじゃないのか? カチンの森事件追悼式の説明をきちっとしたテレビ・ニュースがあったろうか?


鳥取市長選挙、また民主党が負けた

2010-04-11 | 日記・エッセイ・コラム

                            

また負けた。民主党は、地方選挙で連戦連敗だ。きょうは、民主党総力戦といっていた鳥取市長選があった。自民党・公明党推薦の現職、竹内功氏が、当選確実だ。赤松農水大臣が現地いりして応援していた元朝日新聞記者の民主党推薦候補は、敗れた。地方の経済を左右する国家予算を握っている政権与党なのに、地方選挙で、毎週負けつづけているこの現実。

テレビ・新聞が、どれほどかばってみても、民心は、民主党政権から離れた、ということだ。マスコミは、いつまでも権力にすりよっていると、まったく信頼を失うだろう。(すでに、インターネットで情報をとる若者たちは、テレビ・新聞を、まったく信用していないが)。権力を批判できないマスコミなど、もう商売ができなくなる、ということだ。それをテレビのやつが、一番わかってない。いまでも、小沢・鳩山を擁護するコメンテーターやキャスターたちの気持ちの悪いこと。

http://www.asahi.com/politics/update/0411/OSK201004110031.html

http://www.nnn.co.jp/news/100409/20100409028.html

佐賀県武雄市の市長選挙も当確がでた。現職、樋渡啓祐氏が当確だ。民主党推薦候補は、負けた。http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2010041100177

岡山県浅口市の市長選挙では、民主党県連常人幹事で、菅直人副総理の義兄の姫井均氏が、自民党系の栗山康彦氏に敗れた。菅直人が、応援に現地入りしたから、負けたのかな? 現政権の財務大臣の兄が、市長選挙に勝てない……?http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2010041121483888/

                    

さすがに、もともと反自民の傾向が強い東京多摩地区、東京都多摩市の市長選では、民主・社民・共産推薦の阿部ひろゆき氏が勝った。だが、反民主党票が、みんなの党と自民党、ふたつに割れたのが、敗因だろう。注目すべきは、みんなの党の候補・遠藤ちひろ氏が、自民党推薦候補より高得票で、民主・社・共産推薦阿部氏に肉薄していることだろう。みんなの党と自民党の、非民主党票が、60.6% だ。http://www.city.tama.lg.jp/gyoseiiinkai/senkyo/10910/010913.html

栃木県日光市・市長選は、自民党系現職が勝ち、民主・社民推薦候補は、負け。http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100411-00000047-mai-pol

栃木県益子町の町長選では、民主党国会対策委員長・山岡賢次参議院議員の秘書・田崎氏が惨敗。http://www.shimotsuke.co.jp/news/tochigi/top/news/20100411/307869


小沢は、秘書が逮捕・起訴されているという自覚がない

2010-04-10 | 日記・エッセイ・コラム

                   

小沢は予定していた訪米を中止した。オバマ大統領との会談を迫り、米政府関係者が激怒したらしい。とうぜんだろう。「大統領は、秘書が逮捕されている国会議員とは、会えない」という、アメリカの常識だ。

もう日本には、こういう普通の常識もない。逮捕・起訴されても、国会議員でいるやつもいる。原始社会だね。http://sankei.jp.msn.com/politics/situation/100410/stt1004102202012-n1.htm


レコードジャケットの、アベドン

2010-04-10 | 日記・エッセイ・コラム

                      

LPジャケットは、30センチ×30センチのサイズで、CDより大判だったから、デザイナーも、写真家も、そこで活躍できた。

ヴォーグのファション・フォトグラファー、リチャード・アベドンの作品にも、LPジャケットがある。

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エドガー・ウインター

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ビートルズのポスターも、アベドンの作品だ。

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このビートルズのポートレートも、アベドン撮影。

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わがジャニス・ジョップリン。

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 アベドンの60年代、という作品集は、コダックのページにある。http://www.pdngallery.com/legends/legends9/

 リチャード・アベドン・ファンデーション  http://www.richardavedon.com/

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ボブ・ディラン

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サイモン&ガーファンクル

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リチャード・アベドン自身。

                    

アベドンらしい有名な写真。

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「サウンド・オブ・サイレンス」、オリジナルは、ポール・サイモンのギターだけ

2010-04-09 | 日記・エッセイ・コラム

                                                          

桜が咲いたというのに、毎日寒いせいか、風邪がぬけない。最悪だったのは、二日くらいまえだったが、まだ微熱を感じる。この一週間、酒も飲まず、夜の散歩をやめていた。だが、これじゃイカン。今夜は、厚着をしていつものように長い散歩にでた。酒の肴も用意して、これから飲む。そして、風邪を吹き飛ばす。

Blu-spec CD 卒業-オリジナル・サウンドトラック

  映画「卒業 The Graduate 」 スカボロー・フェア  http://www.youtube.com/watch?v=nIoGOgqs_20

                  

サイモン&ガーファンクルは、日本では、映画「卒業」の音楽で大ブレークした。1968年(昭和43年)のことだ。

     映画「卒業」 エンド・シーン http://www.youtube.com/watch?v=i9eIXN6Sp40&feature=related

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この1968年にCBSソニーが創業して、最初の新譜がサイモン&ガーファンクルのシングル「サウンド・オブ・サイレンス」だった。それまでアメリカのコロムビア・レコード(CBS)は、日本コロムビアが発売していた。このレコードも、先に日本コロムビアから発売されていた(二度発売されたことがある)。

だから、このCBSソニー盤の「サウンド・オブ・サイレンス」は、再々発売になる。映画のヒットで、日本でもこの曲が大ヒットしたのだから、創業したばかりのCBSソニーには、貴重なカタログだった。

そしてCBSソニーのLPの初回新譜もサイモン&ガーファンクルのサントラ盤「卒業」だったのだ。わたしは、このLPが発売になったときに、北海道・帯広駅前の小さいレコード屋の 店長になった。世の中は、まだ歌謡曲全盛のころで、帯広の街にはレコード店がひしめいていた。新参のわたしの店は、洋楽をメインにするしかなかったので、サイモン&ガーファンクルは、貴重なヒットだった。

そして、できたばかりのCBSソニーと契約している店は、まだ帯広市内で、わたしたちの店だけ、というときがあった。サイモン&ガーファンクルやアンディー・ウイリアムスは、サウンドコーナーでしか買えない、というわけだった(CBSソニーのピーターとか、フォーリーブスも。もちろんマイルス・デイヴィスのコロンビア盤も)。

わたしが開店した当時の帯広のレコード店分布は……駅ビルのステーション・デパートにサウンドコーナー本店、西2条にいくと、加藤電機、河合楽器、及川電気、ムジカ、藤丸デパートのレコード売り場、広小路の栄陽堂、大通りに国原楽器……人口16万の市の、あの小さい商店街に、これだけの数のレコード屋が密集して営業していた。

当時は、邦楽つまり歌謡曲がレコード商売の圧倒的な主流で、そのジャンルは、これだけたくさんの店が、ガチガチに競い合って売っていた。それぞれ顧客もつかんでいた。わたしは、既存の店が力をいれてないもの、在庫をしてないジャンル、つまり洋楽を売るしか道がなかった。それに、わたしは、演歌・歌謡曲・ムード歌謡に興味がなく、まったく無知だった。(もし、当時メジャーの、歌謡曲の、ぴんから兄弟やクールファイブや青江三奈などのレコードだけを売らなきゃならないのなら、きっと、レコード屋をつづけることはできなかった)

わたしにとって、サイモン&ガーファンクル、そしてビートルズは、なつかしい音楽というレベルを超え、生活を支えてくれた恩人だ。開店した当初は、まるでヒマで、一日LP1枚にシングル2枚なんて売上がめずらしくなかった。その数少ない貴重な売上が、ビートルズやサイモンとガーファンクルだった。

モンタレー・ポップ・フェスが終わったばかり、そして、ウッドストック・ロック・フェスの年だ。アメリカもイギリスも、ロックやR&Bやジャズが、最高に熱い時代だったから、高校生や中学生がほしいレコードは、どんどん発売になる。だが、高かった。あまりにも高かった。毎日、学校帰りに立ち寄って、エサ箱をあさる学生さんが、それはたくさんいた。そうして毎日通って、小遣いを貯めて買うレコードの候補をしぼるのだろう。

どれくらいレコードが高かったか? 下の写真のシングルが、日本コロムビア盤の「サウンド・オブ・サイレンス」だ。右上『45rpm』の下に、370円と定価がある。1966年(昭和41年)の発売だ。わたしは、この翌年(1967年)、札幌の大学に入った。その札幌の下宿が、2食付月5000円だった。高卒の初任給は、まだ1万円になってないはずだ。その時代に、シングル370円、LP1800円~2000円だったのだから、高校生や中学生にとって、どれほど高額だったか。レコード、そして、音楽は、貴重で、高価なものだったのだ。

(いまは、音楽が、簡単に手に入って、もう何のありがた味もない。それが、いいのか、悪いのか。ジジイとしては、こんな時代に10代、20代を送らないで良かった、と思うだけだ。音楽に枯渇して飢えていた、あの、むかしがよっかたな、と老人は、むかしを懐かしむわけだ)。

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日本での「サウンド・オブ・サイレンス」の大ヒットは、映画「卒業」が封切になった1968年のことだ。だが、その2年前、1966年には全米No.1ヒットになっていたのだ。サイモン&ガーファンクルは、映画が世界で大ヒットするまえに、すでにアメリカ、イギリスでは売れていたのだ。

上のシングルの写真は、1966年に発売になった日本コロムビア盤だ。しかし、全米No.1のヒットも、日本ではあまり売れなかった。このシングルのコピーに、「トラディショナル・フォーク・ソングを唄う ニュー・グループ」なんて書くくらいだから、売れないのも納得できる。この曲の斬新さ、このグループの凄さを、売り手側が、ちっともわかってない。

(B面の、We've Got A Groovey Thing Goin' が、「はりきってゆこう」という邦題なのも、どうなんだろうな。歌詞の内容以前に、商品として、A面の「サウンド・オブ・サイレンス」のタイトルやジャケット写真と、視覚的にも、語感・語呂でも、整合性があるのだろうか? 「はりきってゆこう」?) 

サイモン&ガーファンクルは、トラディショナルではない。すべてオリジナルだ。「フォーク・ソング」というジャンルにいれるのさえ、疑問がある。生ギターでやるから、フォーク・ソング? トラディショナル・フォーク・ソングとは、1950年代に、ハリー・ベラフォンテが「ダニー・ボーイ」を歌ったりするやつ。歌いつがれてきた民衆歌、民謡だから、トラディショナル・フォーク・ソング。(日本だと、江差追分や南部牛追い歌なんかが、トラディショナル・フォーク・ソング)。

          

アメリカの全米ナンバー・ワンになった「サウンド・オブ・サイレンス」シングル盤のジャケット。おなじ盤の、日本のジャケット・デザインが上のやつ。どっちを買いたいだろう? (しかし、なぜ、日本コロムビアは、このままのデザインを使わなかったのだろう?)

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アメリカ・コロムビア・レコードは、CBSレーベルの日本での販売に不満をもっていて、ソニーと提携した、といわわれる。ジャズでも、ロックでも、新しくムーブメントが起こっているときで、アメリカ・イギリスでは、レコードビジネスが活況を呈している時代に突入していた。だが、日本コロムビアは、売り物の演歌、歌謡曲が豊富だったし、長い歴史で制作してきたオール・ジャンルのカタログをそろえていたから、CBSレーベルを日本国内で売り切れなかったのだろうな。

 

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「サウンド・オブ・サイレンス」の全米ヒットには、おもしろい逸話がある。オリジナルの「サウンド・オブ・サイレンス」は、ポール・サイモンの生ギター一本で、ドラムスやエレクトリックな楽器は入ってない。

オリジナルのレコードと近いライブ映像がある。まず、それを見てほしい。つづきの話は、またあす。

  サイモン&ガーファンクル Sound of Silence http://www.youtube.com/watch?v=eZGWQauQOAQ

キャロル・キングの友だちだったポール・サイモンが、このヒットで栄光をつかむまでに、十代から長い年月がかかっていたのだ。その話も、またあした。

水曜の朝、午前3時(紙ジャケット仕様)