Ommo's

古い曲が気になる

清高くんとビールを飲む

2008-06-21 | 日記・エッセイ・コラム
アビイ・ロード アビイ・ロード
価格:¥ 2,548(税込)
発売日:1998-03-11

浜田省吾ファンの同士は、ハマダチというらしい。知らなかった。面白いね。帯広では、浜田省吾だけのラジオ番組があると言うし、十勝毎日新聞の成田融さんの情報では、帯広のホーリーズという店で浜田省吾のコピーバンドばかりのライブがあって、たいへんな熱気だったそうだ。帯広は熱いね。

浜田さんが帯広のステージの上で、帯広は特別な町、と言う。初期の3年間くらいは、年に何度もライブをやっていた。住吉さんがやっていたスナックでも歌ったし、銀馬車グループの居酒屋へんてこりんでも歌った。HBC帯広局にも出たし、NHK帯広局「夕べのひととき」にも出た。ローカルだが、じつに密度の濃い活動をつづけていたのだ。

日本で最初にホールが満員になったのは、帯広市勤労者福祉センターの300席の会場だったし、帯広市民会館大ホールの1380席がいっぱいになったころ、まだ札幌では、500席の道新ホールが埋まらなかった。そして、東京では、日本青年館の一階だけ(座席970席)使ってコンサートをひらいていた。東京武道館公演のまえに、帯広では、市民会館の二日間の公演があったのだから、道東の人口16万の町にしては、驚異的なことじゃないか。

 

きのうは、10数年ぶりに、似内清高くんと日本橋の丸善で待ちあわせて、八重洲の居酒屋でビールを飲んだ。似内清高くんは、なくてはならないサウンドコーナーの『無給』のスタッフだった。高校一年生のときから、店に来ない日はないくらいだった。「今日、清高クン、きませんね」、夜9時の閉店まで顔をださないと、店のみんなが心配した。

清高くんのように、毎日のようにレコード屋にやってくる少年少女が、たくさんいた。学校帰り、制服のままやってきて、夕飯にいったん家にもどって、私服に着替えてからまたやってくる。

そんな若者たちが、盆正月の忙しいときやコンサートのときに力を貸してくれた。とくに清高くんは、正月に大活躍した。