癒しの庭Ⅲ

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死んでいる人がどうして書けるの?

2008年06月11日 | Weblog
   
  https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/b0/173091132c94e623d4e88d0aefe8b4b2.jpg

  昨日のお話の続きです。
  昨日、お隣の市の「老犬神社」みんなで訪れました。

  神社内の壁に古文書のコピーが額に入って掲げられています。タイトルは「免状証文の事」と書いてあります。定六が「又鬼(またぎ)」であることの証文です。この証文を書いた人は「南部大膳太夫信長」であり花押も押されています。

                定六とシロの伝説(老犬神社の由来)

  定六とシロの伝説を裏付ける貴重な古文書のようですが、変なことがあります。この証文の日付は慶長九年と書いてあります。

  しかし、慶長九年には南部信直さんは死んでいるのです。どの資料を見ても九戸の乱で勝利した信直さんは、慶長四年に亡くなっているのです。

   慶長四年に亡くなった信直さんが、慶長九年にどうしてこの証文を書くことが出来るのでしょうか。信直さんが年号を間違って書いたのでしょうか、それとも後年誰かがこの証文を勝手に(贋作、にせもの)書いたものでしょうか。

  短絡的な結論は避けますが、どうにも気になる神社です。

 

  参考までに信直さんは以下のような方です。ネットで「南部信直」と検索するとたくさんのことが分かります ・・・


 南部信直(1546~1599)  南部氏は清和源氏、新羅三郎義光を先祖とする。義光から4代目の光行が甲斐国南部庄の地頭となり南部氏を称した。 この光行のころ、既に奥州征伐の功績により奥州五群を領したとも言われるが詳細は不明で、それから5代目の祐政が興国年間(1340~45)、盛岡に居城したと言われ、この頃あたりからは奥州五群を領していたのは確実のようである。  南部氏は豪族として近隣を従えたが、信直は祐政とは従兄弟にあたる信長から7代の後裔。天文15年(1546)、南部一方井に生まれた。南部氏の一族で田子城主・石川高信の庶子だったが、南部晴政の跡継ぎとなった。しかし、晴政に実子晴継が生まれたため田子城に戻った。天正10年(1582)、晴継が若死にしたので、再び南部氏の当主となり、三戸城に移ったが、信直の本家相続には一族や重臣の間に多くの異議があり、さらに九戸政実の影も影響し、小競り合いもあったという。 斯波氏を威圧した後、天正18年(1590)の小田原征伐のとき参陣して秀吉に会い、津軽氏の謀叛を訴えたがとりあげられなかった。翌年、九戸政実の叛乱に会い、これを討つと九戸城を修築して福岡城と名を改めここに移った。ついで盛岡に築城の工を起こしたが、その完成を見ずに、福岡城で没した。慶長4年(1599)10月5日。54歳。