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今日の筆洗

2019年03月24日 | Weblog

 その八歳の男の子はナイジェリアから家族とともに米国にやって来た。過激派組織ボコ・ハラムによる迫害の危険。安全に暮らしたいと願う家族は国を離れるしかなかった。二〇一七年六月のことだ▼男の子はニューヨークにあるホームレス施設から小学校に通うことになった。貧しい生活。少年はその中で一つの楽しみを見つけた。たまたま先生から手ほどきを受けたチェスである▼深く考えることが好きだった少年はみるみる腕を上げていく。学校のチェス特別プログラムは家族の事情と少年の中のなにかを悟った学校側の配慮によって参加費は免除された。その少年、タニトルワ・アデウミ君。今月上旬、ニューヨーク州大会の世代別部門で優勝したそうだ。チェスを覚えてわずか約一年での快挙である▼「熱中できるもの、夢中になれるものを早く見つけて」。イチローさんが引退会見で子どもたちに向けてそう語っていたのをふと思い出す▼その少年の優勝は素晴らしい。が、それ以上にこの話でうれしいのは少年が困難な状況においても自分の才能を開花させ、打ち込めるものに出会えたことである。チェスを教えた先生、温かく見守った家族や手助けをする人に恵まれたという事実である▼少年の幸運を祝福したい。と、同時に不安定な生活の中で、夢どころではない子どもが世界中に大勢いる事実をまたかみしめる。

 
 

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今日の筆洗

2019年03月23日 | Weblog

「棺(かん)を蓋(おお)いて事(こと)定まる」。中国由来の言葉は言う。人の真価は死後、棺(ひつぎ)のふたを閉じてようやく決まる、輝かしい功績に対しても、失策に対しても、生前に下されるのはかりそめの評価であるかもしれないと。一国の指導者に当てはまる言葉だろう▼棺のふたを閉じて四十年以上たってその評価に変更が加えられようとしている人物がいる。スペインの独裁者として知られたフランコ総統だ。同国政府は先週、その墓を六月に移設すると発表した▼現在の国立慰霊施設はふさわしくないと、普通の墓に移すのだという。墓地を開き、本当に棺を取り出すのだというから驚きだ。独裁者としての評判は国際的に知られた人物であろう。ヒトラーらファシスト勢力の助けを得ながら、激しい内戦に勝利し、その死まで独裁体制を貫いた▼一方でヒトラーの参戦要求を巧みにかわし、国が第二次世界大戦に巻き込まれることから逃れた。功を強調する筆は重くなるが、凄惨(せいさん)な大戦の外に、国を置いた大功をたたえる声がある。墓地の移設をめぐっても、国内で賛否が対立しているそうだ▼移設を決めたのは、反フランコの流れをくむ左派政権である。右派が総選挙で政権を取り返せば、先行きが分からなくなる可能性もあるという。対立の芽のようだ▼棺のふたを閉じてどれほどで真価は定まるのか。歴史認識の難しさがスペインにもある。

 

スペインの軍人で、1936年に人民戦線内閣に対する内戦を開始し、その過程で独裁権力を握り、39年春までに内戦を終結させる。第二次世界大戦では中立策をとり、戦後の47年以降は終身統領として全体主義体制を続け、1975年に死去した。

 本名はフランシスコ=フランコ=イ=バーモンテ。スペインの陸軍参謀長だった1936年、人民戦線内閣の成立に対して非常事態宣言を要求したが、入れられず左遷され、軍部反乱が開始されるとモロッコに渡りベルベル人部隊を組織してジブラルタルからスペイン本土に侵攻、スペイン内戦の立役者となった。ヒトラーのドイツとムッソリーニのイタリアの軍事支援を受けて人民戦線政府軍と戦い、1937年10月に新政府樹立を宣言し、ついに39年3月に人民戦線政府を倒して独裁的権力を掌握した。以後ファシズム体制をつくりあげたが、第2次世界大戦では中立を維持し、戦後も独裁体制を継続した。1947年には終身統領の地位につき、いわゆるフランコ体制といわれる独裁を続け、反共産主義を掲げて民主主義を否定、国民の自由な言論を抑圧し続けた。1975年のフランコの死はスペインの民主化の契機となり、スペインは王政復活という形でフランコ時代に終わりを告げた。

モロッコで頭角を現す

 フランコが軍人として頭角を現したのはモロッコにおいてだった。スペインは北モロッコのリーフ地方の首長アブデル=クリムとのリーフ戦争で、1921年のアヌアルの戦いでの大敗などのように苦戦が続いていた。苦戦するスペイン軍の中で目立った働きをしたのが、1910年にトレドの士官学校を卒業してモロッコに配属されていたフランコだった。その作戦の巧妙さと仮借ない残虐さがフランスのモロッコ征服者リヨテ元帥も褒めたほどで、軍功によって昇進し、わずか32歳で将官となり外人部隊の指揮をとった。

アストゥリアスの蜂起を鎮圧

 1931年のスペイン革命で共和国政府が成立すると軍制改革が行われ、フランコが校長をしていた士官学校は閉鎖され、彼はバレンシア諸島に追いやられた。フランコは自由主義も共産主義者もフリーメーソンに動かされていると信じて同一視し、共和国政府への反感を募らせた。アサーニャ内閣が倒れ、右派内閣が成立してファシストが復活するとフランコも将軍として中枢にもどり、1934年に左派労働者がアストゥリアス蜂起を起こすと、モロッコのムーア人部隊を投入することを提案して、それによって蜂起を鎮圧するのに成功した。次いでフランコは軍最高位の参謀総長に任命された。

人民戦線政府に対する反乱開始

 1936年2月、人民戦線が選挙に勝利して共産党を含む人民戦線内閣が成立すると、フランコは戒厳令を主張したが政府に拒否され、次いでアサーニャ大統領から参謀総長の地位を解任され、離島のカナリア諸島守備隊長に左遷された。任地に赴任する前、右派の将軍たちと謀議を重ね、政府打倒のクーデタ計画に加わった。7月17日、軍部グーでターが宣言されると、フランコはカナリア諸島からモロッコに入り、挙兵して全土に反乱の声明文を放送した。スペインでよく見られた軍による蜂起宣言(プロヌンシアミエント)を発したのである。ただし、フランコは最初から反乱軍の中心だったわけではなく、当初はモラ将軍やラジオ将軍として知られたラジオ出演が大好きなデ=リャーノらに後れを取っていた。しかし、フランコがドイツ・イタリアの援助を得るのにパイプとなったことから反乱軍の主導権を獲得、両国から援助された船舶でモロッコの現地部隊を本土に移送することに成功して反乱軍が全土の半分を制圧するに至った。

独裁権力を獲得

 1936年10月1日に一種のクーデタで勝手に「国家元首」を名乗り、陸海空の三軍を指揮する「大元帥」となり、ヒトラーの総統(フューラー)を真似てカウディーリョ(統領)と呼ぶことを決めた。この時43歳だったフランコは、ヒトラーやムッソリーニと異なり、自力で独裁者となったのではなく、軍人としての地位を高め、推されて独裁者となった感が強く、またその国家観もプリモ=デ=リベラや隣国ポルトガルで1932年に成立したサラザール独裁政権を手本とする反共産主義国家を標榜するだけであった。

スペイン戦争

 フランコ軍はほぼ全土の西半分を制圧したが、数ヶ月で全土を支配するという当初のもくろみは、政府軍と国際義勇兵、ソ連軍の支援を受けた政府軍の抵抗によって崩れた。特にマドリード攻略には手こずり、1937年3月にはグァダラハラの戦いで大敗した。そのためフランコは攻撃目標をスペイン北部のバスク地方などに転じ、ドイツ軍に要請してゲルニカなどを空爆、さらに陸上部隊で侵攻し、バスク地方を制圧した。政府軍はイギリス・フランスの不干渉政策によって不利な戦いを強いられ、ソ連の支援は人民戦線内部の亀裂の要因ともなって次第に追い詰められていった。1938年夏、エブロ側での政府軍の反撃を撃破し、39年1月にバルセロナを陥落させ、3月28日にマドリードに入城してスペイン戦争を終わらせた。4月1日、フランコは勝利を宣言した。

ファランヘ党

 戦争を有利に進める中、独裁者としての支持基盤を確立するため、1937年4月、それまでの右派政党であるファランヘ党や王党派を統合して「統一ファランヘ党」を作り上げ、唯一の公認政党として総統を支える組織に仕立てた。またカトリックを復権させ、教会を国家の一つの柱とするカトリック国家への復帰を謳った。ファランヘ党は党員を拡大し、約百万に達した。

第二次世界大戦での中立策

 独裁権力を獲得し、内戦を終結させたフランコは、国際的にはドイツ・イタリアのベルリン=ローマ枢軸との防共同盟などの関係を強め、国際連盟を脱退した。しかし、1939年9月、第二次世界大戦が始まるとフランコはスペインの中立を宣言した。これはスペインが内戦で疲弊したため、対外戦争を行う余裕がなくなっていたことが第一の理由であるが、実際には有利な時期に参戦して分け前を得るチャンスを狙っていたのであった。事実、フランスがドイツに占領されると、フランス領モロッコを狙い、自由港とされていたタンジールを占領している。イギリス、アメリカはスペインに中立を守らせるため、さまざまな工作をした。
 1940年10月、フランコはヒトラーと会談したが、参戦の見返りとしてアフリカ植民地の拡大という要求を出したため、ヒトラーが躊躇して実現しなかった。スペイン国内ではファランヘ党が参戦を主張し、41年6月、ドイツがソ連に侵攻すると「青い旅団」と呼ばれる義勇兵1万8千を派遣、レニングラードなどでソ連軍と戦っている。しかし、ドイツ・イタリア枢軸の敗北が濃厚になると、フランコは中立を再宣言し、イギリス・アメリカへの接近を図った。このようにフランコは巧妙に正式な参戦を回避しながら、勝利の分け前にあずかるろうとしたのであった。
   → 戦後のフランコ
 

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今日の筆洗

2019年03月22日 | Weblog

 富士山をえがくのはどんな画家でもできるけれど、楽器で表現するのは大変なことで…。邦楽奏者の言葉を目にしたことがある。その困難に挑み、乗り越えるのが達人なのだろう▼美しさ、うまさ、完ぺきであること…。絵でも言葉でもなく、バットの一振りで表現してきた人ではないか。米大リーグ・マリナーズのイチロー選手である▼多くの一振りが、よみがえってくる。「中前打ならいつでも打ちます」。そんな言葉が、冗談や大口ではないと思えたオリックス時代。伝説的なピート・ローズ氏の通算安打記録を抜いたころの打席。日本を世界一に導いたあの意地の適時打…▼「小さなことを積み重ねることが、とんでもないところに行く唯一の道だということ」(『イチロー積み重ねる言葉100』)。振り子のようにくり返し、築き上げた安打の数々は次の世代さらにその先の世代の日本人選手の道しるべになっただろう。はるか遠くに通じる大きな道をつくって、現役を退く。昨日の試合後、明らかになった▼かつて「今の僕は日本の野球なしには作れなかったと思ってます」と話している。地元のバッティングセンターなどで磨いた技は驚異的な打撃術に至った。今季も、不振に陥っていた開幕前から、向上心を見せ続けている▼「日本人も世界の頂点を極められること」。見事に表現し抜いた野球人生であっただろう。

 
 

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今日の筆洗

2019年03月20日 | Weblog

 「われわれの間では普通ムチで打って息子を懲罰する。この国ではめったに行われない。ただ言葉によって譴責(けんせき)するだけである」「注目すべきことに、家庭でも子供を打つ、叩(たた)く、殴るといったことはほとんどなかった」。かつてのある国の印象である。かくも子に優しき国はどこか▼答えは江戸期の日本である。当時来日した複数の欧州人がそう語っている。思想史家、渡辺京二さんの『逝きし世の面影』の中に紹介されている。当時の欧州では体罰があたりまえで、日本人が体罰を使わぬことを不思議がっている▼時代は変わって昨日。政府は親権者のしつけに際し体罰を禁止する児童虐待防止法と児童福祉法の改正案を閣議決定した▼相次ぐ、しつけの名を借りた虐待事件を踏まえての判断だろう。体罰の定義があいまいな点など問題もあるが、親の暴力に泣き、命を落とす子がいる現状を思えば、法制化は理解できる▼やっかいなのは江戸期はともかく親の体罰が長い間容認されていた過去である。親にたたかれた経験のない人を見つけるのが難しいという世代もある▼体罰と手を切る。それは難しい挑戦になる。戸惑いもあろうが、決意と自信をもって挑むしかあるまい。かつての欧州人の言葉を信じるなら、われわれの先輩たちはもともと子どもに寛大で「手で打つことなどとてもできることではない」ほどなのである。

 
 

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