朝日新聞(←クリック)に【死刑か、それとも無期懲役か――。被告の運命を劇的に分ける二つの刑の境目の基準を、裁判所はどこに求めようとしているのだろう。最高裁第三小法廷が20日、「光市母子殺害事件」の上告審判決を言い渡す。殺人罪などに問われた元少年(25)に対する二審・広島高裁の無期懲役判決が見直される公算が大きくなっている。】という記事が出るなど,死刑のあり方について関心が高まっています。個人的には,死刑には反対です。主な理由は,死刑も殺人だからです。国家による殺人を認めることには賛成できないのです。
もちろん,被害者の遺族が「殺してやりたい」と思うことは自然なことだと思うし,残忍な犯行ぶりなどから社会から抹殺するべきだと思うことも不合理なことではないと思う。
しかし,私たちは一定のリスクを許容して生活をしています。分かりやすいのが交通事故です。年間8000人以上が亡くなっています。事故後24時間以上経過した後亡くなった方を含めると,いまでも1万人以上が死亡しています。また、負傷者は,年間100万人以上で,日本に住む人の100人に1人が、1年に1回、何らかのかたちで交通事故の被害に遭っているということになるのだそうです(ここ参照←クリック)。
そして,交通事故をなくすのは極めて簡単で,自動車をなくせばいいのです。
もちろん,自動車をなくすわけにはいきません。経済力を維持するためには,自動車はなくてはならないものになっていると考えられているからです(個人的には,自動車を減らすこと,より安全な環境をつくることは可能だし,そのような目標に向けて努力することは大切だと思いますが…)。
この自動車事故のリスクはあくまでも一つの例です。言いたいことは,社会生活を営む以上,一定のリスクを許容せざるを得ないのであり,殺人についても,殺人をする人を事前にこの社会から「間引く」ことなんてできないのです。
もちろん,事前の話をしているのではない,殺人を犯した以上は間引いても構わない,殺人を犯した以上責任をとってもらう,殺人を犯す人が出ないように見せしめる必要がある,ということなのでしょう。
ただし,犯罪が起きたことにいかに対処するかという場面においても,リスクという点では,むしろ,合法的殺人が維持されることの方が大きいと思うのです。
権力は濫用されます。権力を行使する人がいい人であっても濫用されることはあります。捜査という密行性が必要で,外のチェックが利きにくい分野にあっては特にそうです。
死刑制度を維持することは,間違った人を合法的に殺してしまうリスクを残すことになります。ある人が確実に真犯人だということは,神様でもない限り分かりません。
合法的殺人によって無実の人が殺される可能性を残すデメリットと,死刑によって得られるメリットを比較すると,やなり,死刑制度は廃止されるべきだと思うのです。
朝日新聞には【死刑かどうかを分ける最大の要素は「殺害人数」だとされている。】【被害者が1人なら無期懲役以下、3人以上なら死刑というのが通常だ。】と書かれています。
私の頭には,1万人という交通事故死亡者の数字が浮かんできて離れないのです…。
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もちろん,被害者の遺族が「殺してやりたい」と思うことは自然なことだと思うし,残忍な犯行ぶりなどから社会から抹殺するべきだと思うことも不合理なことではないと思う。
しかし,私たちは一定のリスクを許容して生活をしています。分かりやすいのが交通事故です。年間8000人以上が亡くなっています。事故後24時間以上経過した後亡くなった方を含めると,いまでも1万人以上が死亡しています。また、負傷者は,年間100万人以上で,日本に住む人の100人に1人が、1年に1回、何らかのかたちで交通事故の被害に遭っているということになるのだそうです(ここ参照←クリック)。
そして,交通事故をなくすのは極めて簡単で,自動車をなくせばいいのです。
もちろん,自動車をなくすわけにはいきません。経済力を維持するためには,自動車はなくてはならないものになっていると考えられているからです(個人的には,自動車を減らすこと,より安全な環境をつくることは可能だし,そのような目標に向けて努力することは大切だと思いますが…)。
この自動車事故のリスクはあくまでも一つの例です。言いたいことは,社会生活を営む以上,一定のリスクを許容せざるを得ないのであり,殺人についても,殺人をする人を事前にこの社会から「間引く」ことなんてできないのです。
もちろん,事前の話をしているのではない,殺人を犯した以上は間引いても構わない,殺人を犯した以上責任をとってもらう,殺人を犯す人が出ないように見せしめる必要がある,ということなのでしょう。
ただし,犯罪が起きたことにいかに対処するかという場面においても,リスクという点では,むしろ,合法的殺人が維持されることの方が大きいと思うのです。
権力は濫用されます。権力を行使する人がいい人であっても濫用されることはあります。捜査という密行性が必要で,外のチェックが利きにくい分野にあっては特にそうです。
死刑制度を維持することは,間違った人を合法的に殺してしまうリスクを残すことになります。ある人が確実に真犯人だということは,神様でもない限り分かりません。
合法的殺人によって無実の人が殺される可能性を残すデメリットと,死刑によって得られるメリットを比較すると,やなり,死刑制度は廃止されるべきだと思うのです。
朝日新聞には【死刑かどうかを分ける最大の要素は「殺害人数」だとされている。】【被害者が1人なら無期懲役以下、3人以上なら死刑というのが通常だ。】と書かれています。
私の頭には,1万人という交通事故死亡者の数字が浮かんできて離れないのです…。
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そういう事実を書いたことの,どこが「表現に少し気をつけて下さい」なのか,私には理解ができません。それ以上でも以下でもないです。
なお,残念な事に,最高裁は広島高裁への差し戻しを行いました。一人殺せば無期懲役で,三人以上なら死刑なら,二人殺せば裁判所の判断に任せるというのがこれまでの判例でしょう?
最高裁の判断は,死刑の拡大につながるものであり,私も残念だと思っています。
【死刑を回避した2審判決の量刑は甚だしく不当で、破棄しなければ著しく正義に反する】…
この頃,私が同じ goo ブログの方々へTBを送ると,しばしばTBが届かないので,goo 当局によるフィルタリングがなされているのだなと気づいてはいます。
goo 当局のフィルタリングが思想統制になったと感じれば,いずれブログを他のサーバへ移すだけです。
さて,本題ですけど,最高裁は判断停止状態になっているのではと考えます。浜田裁判長の退官は一身上の理由なのでしょうか。ヤメ蚊さんはその辺の情報をお持ちかと思いますので,教えて頂けたらうれしく思います。
それにしても「著しく正義に反する」なんて,普通の人が聴いたら誤解しますよ,絶対に。私も患者さんや患畜の飼い主に対しては,絶対にジャルゴンを出さないようにと気を使ってました。だけど,法曹の世界は未だにジャルゴンをマスコミに垂れ流しなんですね。たまたま弁理士の受験勉強を始めて,何だこれは,の毎日だったり。(^^;)
ブログの中で、現代社会が交通事故被害者を社会的なリスクとして許容している点を比較に挙げて説明されている点なのですが、この点に疑問を覚えました。
交通事故被害者と殺人事件被害者を似た存在と捉えてのご意見だと思うのですが、個人的な意見からすれば、この場面で交通事故被害者と同じ位置に置かれているのは死刑を執行される被告人とも言えるのではないでしょうか。交通事故は、車の利用という不可避の利便の代償として起こっているといえるように、死刑は、犯罪の抑止という不可避の公益の代償といえると思うからです。
もっと言えば、犯罪は、自動車利用と同じような不可避の利便を生むでしょうか?
交通事故という、ある意味不可避の社会的損害とのアナロジーで考えるという着想は大変勉強になりましたが、そこからの帰結は正反対になるのではないかと思います。ご意見伺えればありがたく思います。
【死刑は、犯罪の抑止という不可避の公益の代償といえると思うからです。】ということですが,【刑罰は、犯罪の抑止という不可避の公益の代償】というのならば,肯定しますが,死刑が犯罪の抑止という不可避の公益の代償といえ,よって結論が正反対になる…というのは,死刑以外の抑止方法の存在を無視した議論ではないでしょうか?
以前に刑事政策の勉強をしている時に、死刑制度の
メリットとデメリットの問題を色々と考えたのですが
勉強すればするほど迷いが深くなってしまいました。
おそらく日本に、今の無期懲役よりも、もう少し重い
禁固刑があれば、国民の納得も得られやすいのかも
知れないと思ったりもしますが。収容施設の状況や、
コストの問題などを言われると、難しいところです。
山口市の事件に関しては、少し人民裁判のようになって
しまっている感じがして、懸念しています。
少年法や刑罰の趣旨や理念、刑事裁判、弁護制度の
あり方など、何か大事なところがポ~ンと抜けてしまって
「あいつは悪い。死刑だ」という感じになっていることに
ある種の危機感を覚えます。<弁護士が死刑制度に反対
だということ自体も、批判の対象になったりとか。>
もうすぐ裁判員制度が始まるわけですが、これでうまく
行くのかな~と心配になっている今日この頃です。