情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)日隅一雄

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新靖国Q16.日本の政治家は、海外、例えば国連の場などで東京裁判史観のような主張をしますか

2007-03-01 06:27:46 | 靖国問題Q&A
Q.靖国参拝に絡んで東京裁判史観とかいろいろ云われていますが、日本の国内だけでなく、海外、例えば国連の場などでも日本の政治家がそのような主張をなすことがあるのでしょうか。


A.全くありません。確かに日本国内においては一部の政治家が声高に威勢のいい言説を語っていますが、これらはいずれも国内消費型ナショナリズムというかナルシズムであって、国際社会にあっては全く通用するものではありません。

      例えば中曽根康弘元首相は、日本国憲法制定当時、
      一、ああ嗚呼戦に打ち破れ 敵の軍隊進駐す
        平和民主の名の下に 占領憲法強制し
        祖国の解体計りたり 時は終戦六ヶ月
      二、占領軍は命令す 若しこの憲法用いずば
        天皇の地位請合わず 涙をのんで国民は
        国の前途を憂いつつ マック憲法迎えたり
と、日本国憲法を批判する歌を作りましたが、1985年10月28日首相として国連総会で演説したときには次のように述べているのです。

      「1945年6月26日、国連憲章がサンフランシスコで署名されたとき、日本は、ただ1国で40以上の国を相手として、絶望的な戦争をたたかっていました。そして、戦争終結後、我々日本人は、超国家主義と軍国主義の跳梁を許し、世界の諸国民にもまた自国民にも多大な惨害をもたらしたこの戦争を厳しく反省しました。日本国民は、祖国再建に取り組むに当たって、我が国固有の伝統と文化を尊重しつつ、人類にとって普遍的な基本価値、すなわち、平和と自由、民主主義と人道主義を至高の価値とする国是を定め、そのための憲法を制定しました。我が国は、平和国家をめざして専守防衛に徹し、二度と再び軍事大国にならないことを内外に宣明したのであります。戦争と原爆の悲惨さを身をもって体験した国民として、軍国主義の復活は永遠にありえないことであります。この我が国の国是は、国連憲章にかかげる目的や原則と、完全に一致しております。
      そして戦後11年を経た1958年12月、我が国は、80番目の加盟国として皆さんの仲間入りをし、ようやくこの国連ビル前に日章旗が翻ったのであります。
     議長!
      国連加盟以来、我が国外交は、その基本の一つに国連中心主義をかかげ、世界の平和と繁栄の実現の中に自らの平和と繁栄を求めるべく努力してまいりました。その具体的実践は、次の三つに要約することができましょう。
      その第一は、世界の平和維持と軍縮の推進、特に核兵器の地球上からの追放への努力であります。
      日本人は、地球上で初めて広島・長崎の原爆の被害を受けた国として、核兵器の廃絶を訴えつづけてまいりました。核エネルギーは平和目的のみに利用されるべきであり、破壊のための手段に供されてはなりません。核保有国は、核追放を求める全世界の悲痛な合唱に謙虚に耳を傾けるべきであります。とりわけ、米ソ両国の指導者の責任は実に重いと言わざるをえません。両国指導者は、地球上の全人類・全生物の命を断ち、かけがえのないこの地球を死の天体と化しうる両国の核兵器を、適正な均衡を維持しつつ思い切って大幅にレベルダウンし、遂に廃絶せしむべき進路を、地球上の全人類に明示すべきであります。」

    一瞬耳を疑ってしまうほどのまともな発言です。この発言に先立つ同年8月15日、中曽根康弘は内閣総理大臣として初めて東京裁判でA級戦犯として処刑された東條英機元陸軍大将らをも合祀している靖国神社に公式参拝し、中国・韓国・北朝鮮ら近隣アジア諸国からの厳しい批判を受けました。

この批判を受けて、特別国会において、
「やはり日本は近隣諸国との友好協力を増進しないと生きていけない国である。日本人の死生観、国民感情、主権と独立、内政干渉は敢然と守らなければならないが、国際関係において、わが国だけの考え方が通用すると考えるのは危険だ。アジアから孤立したら、果たして英霊が喜ぶだろうか」
と答え、以後参拝を取り止めました。

    安倍新首相も官房長官の時代の4月に密かに靖国参拝をし、それを自らリークしながら公式には参拝したとも、しなかったとも答えないというまことに奇妙というか姑息な方法をとっているのです。

    このように、国内においては威勢のいいことを言っている彼らも国際社会においては靖国参拝を正面切って言えないのが実情なのです。

    2006年10月6日毎日新聞によれば、5日、靖国神社の最高意思決定機関である崇敬者総代会が開かれ、「遊就館」の展示中、米国から批判の出ていた第2次世界大戦の米国関係の記述の見直しを決めたといいます。しかし、中国や韓国などアジアの国々から「侵略戦争の認識が欠けており、アジアの独立を促したと正当化している」などと批判されている展示については、見直さない方針だとのことです。

    米国とアジアとでその対応を異にする戦後日本の随所に見られるダブルスタンダードです。この点について日本近・現代史を専攻する纐纈厚山口大学教授は、朝日新聞「歴史認識」インタビューで以下のように語っています。

「日本が戦争で米国で負けたことは多くの人が認めるでしょう。しかし、中国に負けたとなるとどうですか。
米国との戦いが始まった41年、中国に投入されていた日本陸軍の兵士は138万人で、総兵力の65%だった。米国との闘いで兵力は南方戦線(南太平洋戦線)につぎ込まれ、敗戦の45年には164万人に達した。だが、同じ時点で中国にはそれをしのぐ198万人もの兵力が配備されていた。
中国戦線の比率は非常に大きかった。しかし、あの戦争は米国の物量に負けたと総括することで、日本の侵略に抵抗した中国やアジアの人々の存在を忘れることにしたのです」(2006年10月16日夕刊)

    中国との戦いに敗れたということを認めぬまま総括を誤ってきたのが、戦後の日本であり、日本人の戦争観の根本的な問題がそこにあるというのです。全くそのとおりです。遊就館のビデオが日中「戦争」について「支那事変、総攻撃」という戦前のニュース映画をそのまま流していることは前に述べたところです。

    今、靖国神社遊就館では「日本会議・英霊にこたえる会」が製作したというドキュメント映画「私たちは忘れない─感謝と祈りと誇りを─」(約50分)が上映されています。

    「あなたは考えたことがありますか? 国のために生命を捧げた多くの人々の上に、私たちの“今”があることを─。」
    「日清・日露の大戦から大東亜戦争まで─。わが近・現代の戦争史を、貴重な映像と史実に基づき再現した初めての本格的ドキュメント映画。教科書では教えられない真実の歴史が、今よみがえる─。」
   という解説語句からも明らかなように凄まじいまでの自己肯定(ナルシズム)の映画です。“大東亜戦争は白人の植民地支配からのアジアを解放する目的で闘われた。”“日中戦争は、中国とりわけコミンテルンに指導された中国共産党の目論見により長期化させられた。”“ABCD包囲網により日本は闘わざるを得なくなった。”“戦うも亡国かも知れぬ。だが戦わずしての亡国は魂まで喪失する永久の亡国である。たとえ一旦亡国になろうとも、最後の一兵まで戦い抜けば我らの子孫はこの精神を受け継いで必ずや再起するであろう。”(永野修身海軍軍令部総長)等々のトーンで満ち溢れています。そこでは重慶無差別爆撃も南京大虐殺も中国人・朝鮮人強制連行も、従軍慰安婦も泰緬鉄道建設工事に狩り出され連合国捕虜及びアジア人労働者6万以上の死等々のことは一切語られてはいません。

     地上兵力をもたず、したがって行軍や占領を考える必要のない海軍にとって中国作戦はそのまま航空侵攻作戦だといってよかった。上海に始まって南京、安慶、武漢、宜昌、重慶と揚子江の流域をなぞりながら内陸部へと分け入って行く「空からの侵略」の道は、疑問の余地なく海軍によって主導された作戦であり、その意味で中国における海軍は、陸軍と同じように血ぬられた手をしていた。銃剣による突入・占領・掃討によるのとは違う殺戮の形、突然空からやってくる侵入・制圧・爆撃が海軍のやり方であった。姿を見せず足跡を残さず速やかに現場を去り、しかも凶器は飛散して消えてしまうので跡づけることの困難な行為であったが、中国における日本海軍もやはり侵略の先兵、無差別・大量殺戮の実行者の告発から逃れるすべはありそうにない。日中戦争の鏡に映し出された日本海軍と日本陸軍の違いは、それぞれに属した人々の考えと振舞いに徴しても、結局のところ「ペストとコレラ」の差でしかなかった。……

      重慶空襲は「南京までの道」を一層拡大再生産する行為といえた。なぜなら南京空襲までは、都市占領を企図する陸軍侵攻作戦への支援という在来型の戦争形式をまだしも残していたのに対し、重慶爆撃はその枠を超え、都市恐怖爆撃、あるいは敵国民の抗戦意思破壊という、全く新しい航空戦力運用の思想を開示するものだったからである。無差別爆撃はここに至って「結果」から目的へ、「過失」から故意へと変換する。そして支那方面艦隊参謀長に井上成美少将が補佐されるや対重慶戦略爆撃はさらに大規模化し、かつ「緻密な無差別性」をもって実行されていくのである。対米政策に関してなら理性と沈着さを主張できる米内、井上両提督も、中国作戦と中国人の目から判定する限り、アジア人に対しては野蛮さを隠そうともしない、他と同列の日本軍人でしかなかった。
                 (前田哲男「戦略爆撃の思想」朝日新聞社、凱風社)

  先の戦争がアジア解放のための闘いであったなどと、ソウルで北京で、南京で重慶で、台北でシンガポールでマニラで、その他アジアの各地で語ることができるでしょうか。

    「大東亜戦争」が白人の植民地支配からのアジア解放の戦いであったとするならば、朝鮮、台湾の植民地支配は解放しなくてもよかったのでしょうか。ポツダム宣言で履行されるべきとされているカイロ宣言(1943.11.27)では「朝鮮人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものにする決意を有する」と述べています。

    この点に関し、評論家の加藤周一氏が自伝「羊の歌」(岩波新書)の中で戦時中の旧制一高の寮での作家横光利一とのやりとりについて興味深いことを書いております。

     激論がはじまったのは、その講演会が終わった後、私たちが粗末な茶菓を用意した座談会の席へ移ってからである。集まった15人ばかりの学生は、横光氏をかこんで車座になっていた。……
     「物質文明というのはだね」と横光氏はいった、「近代の物質偏重のことを、ぼくはいっているのだ。日本もこの〈近代の毒〉におかされてきたのです。だからこの厳しい時代を生きぬくために、われわれ文学者が召されているとぼくは思っている。その毒から日本を清める。──これが〈みそぎ〉というほんとうの意味ですよ、〈みそぎ〉の精神は、民族の心だ。今のこの時代ほど、偉大な時代はない。今こそわれわれは日本文学の伝統に還る……」。
     「どういう伝統ですか」と一人がいった。そして横光氏の答えないうちに、別の誰かがすかさず「化政の江戸……」と半じょうを入れた。それを聞くと、横光氏は爆発した、声の方をふり向くや否や、大喝した、「そんなことはいうから君たちはだめなのだ」。……
     横光氏の一喝は、私を興奮させた。たしかに「化政の江戸」は、毒を含んだ皮肉にちがいない。しかしそれは少なくとも権力を後楯にしたものではなかった。私たちの立場は、たとえ機会が与えられたとしても、駒場の寮の外では、もはや公言することの憚れるような立場であった。横光氏の立場は、当人自身が権力にへつらうことを目的としてはいなかったにしても、軍国主義権力が承認し、歓迎するものであった。議論をうち切って、大喝一声することは、横光氏にはできても、私たちにはできない。「だまれっ」ということは、軍人にはできても、代議士にはできない。相手が決して怒鳴ることのできない条件のもとで、怒鳴るのは〈フェア〉でないだろう。本人の主観の如何を問わず、事実上、権力をかさに着るのと同じことではないか。「君たちはだめだ」などと思い上がったことをいうな。……
     「だめなことはないでしょう」と私は声をしずめていった、「文学芸術の趣味は、化政の江戸で洗練の極みに達していた。それはほんとうの〈伝統〉ではないというわけですね。しかし元禄──といってみたところで、代わり映えもしないではないですか。元禄振りと〈みそぎ〉とは何の関係もない。平安朝の物語、いや、万葉集までさかのぼっても同じことだ。なんですか、一体、その万葉・源氏・西鶴・近松と全く関係のない日本文学の伝統というのは」。……
     「西洋自身が〈近代〉のいきづまりを自覚しているのだ」と横光氏は書いていた。「だから日本でその行きづまりが打開されることになりますか」「なぜならないのだ」「日本の行きづまりではないからです、近代社会が遠くの西洋で行きづまろうと、行きづまるまいと日本は近代社会ではない、そんなことを心配するのは場ちがいではないですか。68年の革命は、フランス革命ではなかった。この国の小作料は、おどろくなかれ、まだ物納なんですよ、しかもそれが収穫の半分以上だ、一体どこに〈近代的〉な土地制度がありますか。労働入口の過半数が農村に集中している国で、封建的土地所有と零細農民の収奪を保存しながら〈近代〉を語るのは無意味だと思う。いわんや〈近代〉を超えるの超えないのという議論は、滑稽そのものですな」「滑稽ではない」と横光氏は抗議したが、私たちの仲間は、もはや抗議を相手にもせず、自分の言いたいことを喋りまくった、「零細農民が封建的収奪のもとで窮乏化し、低賃金労働者の供給源となる。それを足場にして膨張した日本資本主義にとって国内市場のせまいのは、当然ですね。(大東亜共栄圏)というのは、要するに、その当然の帰結としての大陸膨張ということにすぎない。植民地の独立解放? 冗談じゃない、権力は英米の植民地を解放したいのでしょうが、日本の植民地は決して解放しませんね、その証拠には朝鮮の独立ということはおくびにも出さない。それどころか矢内原忠雄が台湾・朝鮮の植民地政策を批判してさえ教壇を追われているではないですか。そこで持ち出された(国民精神総動員)とは、誰が何のために、国民を動員しょうとしているものなのか。それさえ見極めずに、文学者が──ぼくは文学のことは知りませんが、文学者が、横光さん、(偉大な時代)とか何とかいうことがわかりませんね。なにが〈偉大〉ですか。あなたがだまされているのなら、愚劣ですよ。だまされていないのなら、みずから魂を売りわたしているのではないですか……」。    

    この記述は戦後に書かれたものでいささか整理されすぎている気もしないでもないのですが、しかし「大東亜戦争」が植民地解放のための「聖戦」であるとの虚構を見事に暴いていると思います。  

    ところで安倍新首相が好きなのは、吉田松陰だとのことですが、彼は近隣アジア諸国でどのように見られているのでしょうか。

    韓国のソウル郊外に「独立記念館」があります。韓国の歴史、とりわけ日本の植民地支配下での状況、その軛からの脱出、そして近年の朝鮮戦争までをわかりやすく展示したものであり、直接的には1982年の日本の教科書問題──高校社会科の教科書で「侵略」を「進出」と書き替えていた事実が発覚し、アジア諸国から厳しい批判を受けた──が契機となって建設され、1987年8月15日開館されたものです。

    かつてこの「独立記念館」を訪れた際、韓国・朝鮮を植民地化した元凶たる日本人として伊藤博文、西郷隆盛らとともに吉田松陰の顔絵が掲げられているのを見て驚いたことがあります。明治維新の「イデオローグ」吉田松陰が彼の地では帝国主義植民地者として位置づけられているのです。日本と韓国・朝鮮とでは歴史認識においてこのような大きな差異があることに私達は気付くべきです。
井出孫六『杏花爛漫─小説佐久間象山─』(1983年朝日新聞社)は、幕末列強に開国を強いられ、不平等な条約を締結させられたことに憤激した吉田松陰が師である信州は松代真田藩出身の洋学者佐久間象山に、
     「……国力を養い、取り易き朝鮮、満州、支那を切り随え、交易にて魯、墨に失う所はまた土地にて鮮満に償うべし……」
   と書き送ってきたことに対し、「それでは間違いができる」とさとす象山の姿を描いています。残念ながら日本の近・現代史は象山の憂慮したとおりの「間違いの道」を歩んでしまったのです。

    なお、松蔭は靖国神社に祀られていますが、象山は祀られていません。同じく暗殺された坂本龍馬は祀られているのですが、洋学者象山の暗殺は、当時尊皇攘夷を唱えていた長州勢によるものであったからでしょうか。

■■以上、内田雅敏弁護士執筆■■

中国に負けた…。確かに連合軍に負けたのだから…




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1 コメント

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本当に二枚舌!!! (田仁)
2007-03-01 19:15:03
内弁慶の二枚舌は、インターネットが普及し、日本の動静も世界の注目を集める今、もう通用しなくなってるってのに!
共謀罪他もそうですが、どうも未だに、ネット時代が理解できない政治家が政権をニギニギして、遊んでらっしゃるように思います。