情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)日隅一雄

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きっこの日記にみる「善」の傲慢さ~光市事件弁護団への懲戒請求取下げアドバイス・番外編2

2007-08-09 02:01:58 | 適正手続(裁判員・可視化など)
 あの「きっこの日記」に少年による非道な犯罪に対して少年法の廃止と復讐心丸出しの死刑を是認する記事が掲載されているとのコメントをいただいたので、読んでみた。確かに、「少年法は廃止せよ!」というタイトルのもと、ホームレス襲撃事件の少年たちや光市母子殺人事件の被告人について、もはや更正の余地のない非道な人間であるかのように描きつつ、死刑という手段を肯定したうえで刑罰の不十分さや弁護団の弁護方針を厳しく非難している。

 私は、少なくとも現在の日本の刑事システムでは、冤罪による死刑のおそれが強いため、死刑を認めるべきではないと確信している(「死刑制度の是非について~死刑をするだけの冤罪防止制度がない国日本」 )、「ホントに変だよ、ニッポンの刑事司法~周防監督インタビュー:弁護団懲戒請求取下アドバイス番外編」参照)。

 そして、刑事システムとして、被告人側の反論に制約を加えてはならないこと、弁護人は被告人の代弁者であることを説明したうえ、その活動は安易に非難すべきではなく、ましてや懲戒請求することに問題があることを指摘してきた(「橋下弁護士の口車に乗って光市事件弁護団の懲戒請求をしたあなたへ取り下げるべきだとアドバイス」・その6まで)。

 「きっこ」さんはさすがに弁護団を懲戒請求せよとは言っていないが、「弁護士軍団みたいな大バカどもがシャシャリ出て来て、被害者の遺族の気持ちを踏みにじるようなヨマイゴトを吹き込んで、頭がおかしいフリをさせて、お得意の精神鑑定で罪から逃れようとする」、「大バカ弁護士のイイナリになってクルクルパーの演技をするなんて」などと厳しく批判している。

 まずは、冤罪防止策が不十分であること、刑事司法システムでは反論を自由に主張できる保障が必要であることという上記の理由から、「きっこ」さんの主張には賛同できない。

 しかし、賛同できないのはそれだけはない。「きっこ」さんが更生可能性を否定している点だ。そこには、敵味方二分論が感じられる。自分自身について、「犯罪者ではないし、犯罪者足り得ない」という確信があるのだろう。

 しかし、本当に自分達は犯罪者足り得ないのだろうか。そこには、人が生きていく過程で、人を傷つけることを避けられないということへの想像力が欠如しているというほかない。なぜ、社会のシステムに潜む犯罪をこそ暴いてきた「きっこ」さんが、この種の想像力をどこかに置き忘れたかのような記事を書いたのか、よく分からない…。
 
 例えば、絶世の美女がいて、いくつものカップル・夫婦を別れさせたとしよう。男性に捨てられた女性、そして、結局は、その絶世の美女から捨てられた男性、この人たちの苦しさは、底知れないほど大きいかもしれない。子どもがいたりしたら、その子どもたちの人生までも狂わせることになる。

 例えば、非常に賢い人がいて、学校がお金を出していくつもの大学を受けたとしよう。おかげで、本当にそれらの大学に行きたかった人の人生が狂ってしまったかもしれない。

 例えば、ある企業が原価の100倍で商品を売っているとしよう。それらを購入する人は、本当に支払うべき金額以上の金を支払わされたことになるのではないだろうか?なかには、サラ金で借りてまで支払い人生を狂わせる人がいるかもしれない。

 そうそう、公営ギャンブルは、なぜ、犯罪じゃないのだろうか。そこで多くの人、そして、その家族が人生を狂わせられているはずなのに…。

 こうしてみると、犯罪ではなくとも、人を傷つけることを避けて通ることはできないし(例えば、絶世の美女でなくとも、ある人がほかの人より相対的に魅力的なことからある家庭を破壊するかもしれない…)、それによって傷つけられた人のダメージは時には犯罪とされる行為によるものよりも大きいかもしれない。

 そして、人は生きている限りほかの人を傷つけることなく生きていくことはできない…。例えとして挙げた恋愛が分かりやすいだろうが、相手にパートナーがいたらかといって恋愛感情を抱くことを無理矢理に禁止することはできないでしょう。

 そう思い至ったとき(恋愛じゃなくて、必然的に傷つける話の方だよ)、犯罪行為に対して、復讐として、あるいは、犯罪抑止策として、厳罰が必要だという意見の薄っぺらさに気づいた。

 私は、自分も罪人だから人を責めるなと言っているのではありません。私は、自分も罪人だから、人を責めるときには自分が責められても構わないような手続き(事前の社会的予防策をも含む)、方法によるべきだと言いたいのです。

 特に、事前予防をも含む手続きということが重要だ。自分は、これまでは犯罪をしていないが、いつ、人を傷つけるかもしれない、そのことが刑罰に問われるか否かは別にして、人を傷つけること自体は避けようがない。そう思い至る時、考えなければならないのは、犯罪者に刑罰を下すという手段のほかに、いかにして傷つけることを防ぐか、ということであることに気づく。

 ホームレス殺人事件の場合、猫を百匹以上も殺していた者が主犯者だったという。なぜ、そこでその者にそれ以上「罪」を重ねることを防ぐよう導くことができなかったのか。

 また、母子殺人事件の被告人もDV被害者だったというがDV被害を防いでいたら被告人は「犯罪者」にはならなかったのではないだろうか。

 そこまでの社会的予防策をつくしたにもかかわらず、いわゆる「邪悪なる者」が存在し、その人の邪悪さが表に現れた結果、人を殺したというような場合に、はじめて、その人への死刑適用が問題になるのではないだろうか。

 現在の社会制度にのっかってうまくやっている人(例えば安倍ちゃま)が、一方的に、現在の社会制度では救われなかった人を排除することが果たして許されるのだろうか。

 もしかしたら、社会制度の不備が、彼らに猫を殺し、人を殺すことを「強いた」のかもしれない。

 邪悪と言われるような存在になりたくてなる人がいるのだろうか。もし、光市母子殺人事件被告人が安倍家に生まれていたら、あのような犯罪を犯すにいたっただろうか、安倍家とまではいわずともあなたの家に生まれていたら、どうだっただろうか…。

 もちろん、大切な家族を殺された遺族の気持ちも理解できる。彼らが復讐心を抱くことは当然だし、自分に置き換えれば、復讐を実行するかもしれない。

 しかし、社会のほかの構成員が遺族の気持ちにのみ乗っかかった処罰論議をするのはあまりにも危険ではないだろうか。厳罰にすることで問題を解決しようとする姿勢は、犯罪予防策として本当に取り組むべきことを忘れさせてしまい、真の予防策の実現が先延ばしになるだけではないだろうか。一歩引いた視点でものごとを考えることで、社会システムを改善することが可能となるのではないだろうか。

 例えば、私は、刑務所でこういうこと(←クリック)をしてきた人たちの方が、日本の堅苦しく人間性を失わせるような刑務所で過ごしてきた人よりも、受け入れやすい気がする。 

 





★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
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