情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)日隅一雄

知らなきゃ判断できないじゃないか! ということで、情報流通を促進するために何ができるか考えていきましょう

民放労連、メディア総研のパブコメ紹介!~ネット規制反対のパブコメを!その14

2007-08-06 04:31:39 | メディア(知るための手段のあり方)
 学者、ジャーナリスト、メディアに関心の高い市民らでつくるメディア総合研究所と、民放の労働組合でつくられる民放労連
総務省「通信・放送の総合的な法体系に関する研究会 中間とりまとめ」に対するパブリック・コメントを、それぞれ(メディア総研←クリック、民放労連←クリック)発表した。下記で少し紹介するとおり、それぞれ、専門的立場からの鋭い指摘がなされている。やや長いがぜひ、熟読して頂きたい。新聞労連、出版労連などにも声を挙げていただきたい!表現の自由を守るために連帯を!


■■メディア総研のパブコメからの引用■■

【放送に関する限り、無線局免許(制)による「適合性審査」は止め、横割りの「コンテンツ配信法制」のなかで放送(事業・事業者)の社会的機能・影響力を勘案、適合性の可否を考えていくべきだ、と読める見解を明らかにしているのだが(『中間とりまとめ』9ページ)、これは大問題だ。

放送免許が無線施設の適正さに応じて交付される施設免許制の下に置かれてきたのは、その交付が事業者や事業内容に対する政府の判断によって決まるのでは、国家権力が、言論報道機関の存立の可否を、直接決定することになり、憲法21条に違反する、と考えられてきたからである。このような放送の原理的ポジションを根本的に覆すような変更には、到底同意できない】

…これまでは、放送局の免許は、施設がきちんと整っていれば取得できたが、法改正されたら、番組内容にまで踏み込んで判断するようになり、表現の自由を侵害されるという危惧は、正しい。

【そしてまた、規制緩和・撤廃というものの、実態は政府が強力なイニシアティブをいたるところで発揮、各レイヤーにおける事業の種別と事業者の位置付け、これらに対応するエントリーのための制度的手続き、業種を超えた統合・連携の認め方、公益性・公共性の担保、規律・規制の必要性の判定とそれらの実行などは、結局政府が検討、対応しなければならないことになる状況が、あまりにも多く残されているとしかいいようのないのが、『中間とりまとめ』の内実だ。これでは、規制緩和どころか、政府に独裁的な規制権限を与える法的根拠になってしまうのではないか、と危惧される。

 いまや国際社会では、情報通信・コミュニケーションの問題に対する政策的取り組みは、情報公開・個人情報保護制度とセットで、市民的自由に対してはいかに政府に干渉させないようにするかが、制度設計上の重点課題となっているといっても過言ではない。ネットの活用においても、政府については、言論報道活動を含む市民的自由の確保が必要と考えられる活動領域に対しては、どこからどこまでは接続不可とする―入ってはならないと、そこは覗けないようにシステム設計するのが当たり前になっている。このような考え方に立てば、政府=国家権力が、その放送局の事業内容・事業者について「適合性審査」を行い、その結果によって免許交付の可否を決定するなどのことが、いかに時代に逆行するものであるかが歴然とする。

 議会に責任を負うか、政府に責任を負うか、あるいは社会各層の代表からなるラウンドテーブルに責任を負うか、その国の政治文化の歴史・伝統によって違いはあるものの、いまや世界主要国では、政府から独立した行政委員会を設け、これに通信・放送行政を委ねるのが通例と化しつつある。これが明確なルールに則って、またケースバイケースの問題は徹底して民主的な話し合いによって、なにごとも決めていくのだ。許可、免許、認可などの管理業務も当然扱う。倫理問題をめぐる規律・規制にも関わる。サミット参加八ヵ国中、この種の独立行政委員会をもたないのはいまや、日本とロシアだけである】

…独立行政委員を必ず設置させよう!

【具体的には、公共性の保持を求められるがゆえに、免許事業という制度的独占に守られ、その代わりに法の下で番組編集の公平・公正に関する規律などを受ける放送は、営利を目的とする事業行動においてはおのずから制約を被る制度環境のなかに止まってきた。しかし、新しい規制緩和の下で、一般のコンテンツ・サービス事業や通信事業なども手がけられるとなれば、新しいビジネス・チャンスに恵まれる可能性はあるものの、反面、競争の世界に身を投じることとなり、やがて制度的独占を専有する特典を失うことになりかねない。一方、元来経済的には自由度の高かった通信も、放送および放送類似のサービス事業に進出すると、そのコンテンツが法的な規制を被る結果となり、通信の秘密の厳守を強く主張できた固有の立脚点を、失うことにもなりかねない】

…公共性の観点からマスメディアには表現の自由を守るために一定の規制がかかっている(クロスオーナーシップの禁止など)。事業の自由を優先させるためにこのような規制を廃止することは避けなければならない。メディアは、金儲けのためだけに営んではならないのだ。

【『中間とりまとめ』は、「私信など特定人間の通信」については、なんら規制を加えず、かつ「通信」としての秘密を保護する、と定めることを約束するが、IPネットの可能性を斟酌するとき、いきなり私信だけの世界に降りるのでなく、私人がネットで社会的交信範囲を拡大、社会的な諸活動を発展させつつ、社会的発言を活発に行っていくのをいかに促していくか、とする観点から、政策的措置を講ずべきであろう。具体的には各種の非営利型のSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)の生成を促し、その発展とともに、ネット空間のなかに新しい市民メディアが生まれていくことにも、大きな可能性を与えるべきである。

 その際一番必要なことは、なんらかの助成措置を与えるより、完全な自由を保障することである。政府は、自発的な市民活動の発生をとかく警戒し、無用に監視を強める性癖をもっている。たとえば、年金問題の発生とともに、年金カードの発行という話が出ると、それはまたたくまに納税者カード、総合的な社会保障カードの構想までにいき、遂には国民カードなる話にまで発展した。住民基本カード問題が出現したとき、国民総背番号制は取らない、住民情報の範囲は限定し、これを納税、医療などの情報につなげることはしないと、あれほど約束したのに、いつのまにかそんなことは忘れ去られている。

 現在到達した技術水準でも、政府は、その気になれば、ネットを活用、国民ひとりひとりを、各人別に丸裸にできるだけの情報収集ができるはずだ。今後の衛星技術、センサー技術、通信傍受技術を活用すれば、特定個人を24時間、リアルタイムで追跡、監視し、情報収集することが可能となるだろう。

 市民の「コミュニケートする権利」を最大限尊重、完全に実現するには、なんらかの手段的便益を供与するか否かだけでなく、市民の自主的なコミュニケーション過程に政府がいっさい介入しないことを約束、その保障措置を市民に与えることが必要だ。そのためには、一定の範囲のコミュニケーション・プロセスには政府は立ち入らない、とする約束をし、実際にそのための技術的措置を取り(現行のものとは異なる個人情報保護法の制定)、さらにそれが実行されているかどうかを、市民が自己情報の開示請求を通じて確認できるようにすべきなのだ(情報公開法の改正)】


そう、自由を我に!

■■以上、メディア総研のパブコメの引用■■


一方、民放労連のパブコメは、

【私たちは、この「中間とりまとめ」が描く「通信・放送の総合的な法体系」は、放送からインターネットまでのあらゆるメディアに対して包括的な表現・内容規制を導入し、憲法が保障する言論・表現の自由に対する重大な侵害となるおそれが非常に強いものと考える。
 このような総合的な法体系への移行にはまだ国民的な議論が不足しており、この「中間とりまとめ」の内容及び拙速な導入に対して私たちは反対意見を表明する】

を要旨とするものであり、

個別には、【行政による「適合性審査」はやめ、諸外国の制度もしくは日本のかつての「電波監理委員会」のように、適合性審査の主体は政府から独立した行政委員会などに委ねられるべきである。(理由)現在の無線局免許をどのようにするのか、具体的に明示されていないが、コンテンツ規律の中で行政が「適合性審査」を行うということは、表現内容に立ち入って国家権力が判断を下すということになり、憲法が禁止する「検閲」に該当しかねない。この規制に基づいて、放送において現在のような総務省による直接免許制が維持された場合、放送免許は事実上、施設免許制から事業免許制に転換することになる。政府がその放送内容を許可した放送局しか営業できないことは、表現の自由を著しく制限するものにつながりかねない】などとしている。

もうパブコメ自体は締め切ったが、総務省に、意見を述べるのは自由だ。パブコメを出していない方は、ぜひ、メールやFAXでネット規制反対の声をあげて下さい!

その1その2その3その4その5その6その7その8その9その10その11その12その13もご参照下さい。)









★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
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知られざる真実-勾留地にて-植草一秀…これが取調の実態だ

2007-08-06 00:58:11 | 適正手続(裁判員・可視化など)
 【取り調べ検事は「否認を続ければ裁判で私生活を攻撃して家族を徹底的に苦しめてやる」との発言を繰り返した】、【取り調べをした警察官は「否認を続ければ長期の勾留となり小菅に移送される」、「否認して裁判になれば必ずマスコミの餌食になる」と繰り返した】、【「こんな所にいないですぐ仕事をして欲しいんだ」、「日本はいま大事な時期だから、こんなことに時間かけてはだめだ。大事な仕事を早くして欲しいんですよ」と繰り返し、犯罪を認めることを迫り続けた】…新刊「知られざる真実-勾留地にて-」で、ミラーマンと揶揄された植草一秀氏が2回目に逮捕されたときの状況について述べた記述である。

 2004年に逮捕されたいわゆる手鏡事件(1回目の逮捕)で、彼を有罪とした証拠は、目撃した警察官の証言だけだった。もし、防犯ビデオに残された映像があったら、彼の無罪は立証できたかも知れない。いや、逆にいえば、もし、彼が犯行を行っていたとしたら、防犯ビデオの映像さえあれば、警察官の証言など不要であった。なぜ、起訴した検察側は、防犯ビデオを証拠として提出しなかったのか…。

 私自身の経験でも、無罪ではないかと思う事件で、決定的な客観証拠となるはずのものが提出されないことは多い。しっかりと写っている防犯ビデオなどは、きっちりと証拠として提出されることが多いのに、なぜ、検察・警察に不都合なビデオはまったく提出されないのか。

 いいですか。ここがポイントです。一般的に考えれば、起訴された被告人の供述を一部裏付け、一部は裏付けないような証拠価値として中途半端なビデオが提出されてもいいはずです。そうでしょう。実際に事件を行ってはいるものの無理に否認している被告人がいたとして、そういう被告人たちはいつも100%嘘をいうとは限らない。だから、裁判所で微妙な判断をしなければならないようなビデオが提出されることもあるはずだ…しかし、そんな中途半端な証拠が提出されたことは聞かない。

 検察官は100%有罪の確信(ここにはでっち上げの場合も含む。つまり有罪にできるという確信)がなければ、起訴しない。したがって、中途半端な証拠が提出されることはないのだ。

 中途半端な証拠がある場合、検察官は、起訴をしない途を選択するか、もしくは、証拠を提出しない途を選択する。つまり、その証拠がなくても有罪にできるか?…と検討し、有罪にできるとの確信があれば起訴するし、確信がなければ起訴しないわけだ。

 では、「無罪・有罪を立証すると思われるはずだと思われる証拠がない」という報告が警察から上がってきた場合、検察官はどうするか?これも同じことだ。ないなりに、有罪にできる確信があるならば起訴するし、確信がないならば起訴しない。

 いいですか、本来、決定的な証拠となるべきものがあるはずなのに警察官がないと報告した場合、検察官は、強く「冤罪」を疑わなければならないのにそういう構造にはなっていない…。

 では、国策捜査の場合、つまり、検察官が本来、無罪もしくは起訴するほどのことではないと知りつつも、何らかの理由で起訴しなければならない場合、検察官は、無罪を立証する証拠があったとしたら、どうするだろうか…。あなたがその立場にいたら、どうしますか?私がその立場なら、その証拠を法廷に提出しない方法を選択するだろう。そして、私は、きっとこう自分を納得させる。

 「こいつが犯人であることはほかの証拠から間違いない。たまたまこの証拠はこいつが犯人ではないかのようにも伺わせるが、この証拠が正しいとしても、●●というように考えれば、犯人であることとこの証拠は矛盾しない。●●であることを裁判官に理解させるのはやっかいだから、この証拠を出すのはやめておこう。もともと、この証拠がなかったと考えれば、別に問題はない。証拠がないことはよくあることだ」

 植草氏は、2004年4月11日、逮捕された日から3日後、防犯ビデオのことに気付いた。彼は、裁判官、弁護士、取調警察官、担当検事に、防犯ビデオで無罪と立証できるはずだと訴え続けた。

 ところが、4月20日ころ、取調警察官が、品川駅の防犯カメラ映像の保存期間を超えて記録が残っていないと告げたという。最初の訴えから10日も経過してから「保存期間を超えた」と説明したのはなぜなのか…。

 この第一事件で、警察官が植草氏を本当に犯罪を実行したと考えるならば、必ず、防犯ビデオをチェックしているはずだ。それこそが、本件での有罪立証の「決定的証拠」だからだ。それにもかかわらず、本件で防犯ビデオが提出されていないのはなぜなのか?

 逆にもし、警察官が防犯ビデオを最初からチェックしていないとすれば、警察官が無罪であることを知りつつ、防犯ビデオが抹消されるのを待っていたということになるはずだ。

 つまり、いずれにせよ、防犯ビデオが提出されていないことだけをもっても、植草氏は無罪とされるべきだったのだ。

 残念ながら、植草氏は、控訴審で争うことを断念した。いや、彼の表現に従うならば、「拒絶」した。

 この「控訴拒絶」に関するわずか「15行」の記載で、「知られざる真実-勾留地にて-」は結ばれている。彼は言う。

「時間を費やして積み上げた膨大な証拠は完全に無視された。警官証言は二転三転し、証言の矛盾は明らかだった。しかし、判決は素通りした」

「最初から判決は決まっていたのだと思った。私は有罪判決が下れば控訴する予定だったが、判決の詳細を知り、方針を変更した。このような裁判なら、裁判を継続するのは時間と労力の無駄だ。結論は最初に決定されている。事件も作られたものだと思った。メディアは権力と連携して攻撃を続ける。報道被害から身を守ることも考えなければならない」

「控訴『断念』ではなく、控訴を『拒絶』した」…

 彼がわざわざ、わずか15行の「控訴拒絶」の項目を一番最後に書いたのは、決定的な意味があると思う。

 私たち刑事裁判に携わる者は、彼のこの痛烈なメッセージを受け止め、彼のような目に遭う人が出てこないように、

①起訴されるまでの逮捕・勾留期間合計23日間という起訴前の長期身柄期間を短縮する
②取調過程を完全に録画する
③捜査側手持ち証拠を全面開示する(もし、開示していないことが判明したら、それだけで手続は終了し、無罪とする)

ことを実現させるよう全力を挙げなければならない。

そして、これら3つのことは、真実を解明するにあたって、何ら、妨げになることではない。これらの実現に反対する警察・検察側こそが真実解明を妨げているといってよいのだ。これら3つのことが定められることで、かえって、警察・検察が変な国策捜査に関与させられることを防ぎ、真っ当な正義感を貫くことができるはずだ。

ぜひ、植草氏の著作を一読されることをお薦めします。









★「憎しみはダークサイドへの道、苦しみと痛みへの道なのじゃ」(マスター・ヨーダ)
★「政策を決めるのはその国の指導者です。そして,国民は,つねにその指導者のいいなりになるように仕向けられます。方法は簡単です。一般的な国民に向かっては,われわれは攻撃されかかっているのだと伝え,戦意を煽ります。平和主義者に対しては,愛国心が欠けていると非難すればいいのです。このやりかたはどんな国でも有効です」(ヒトラーの側近ヘルマン・ゲーリング。ナチスドイツを裁いたニュルンベルグ裁判にて)
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