日本大学文理学部社会学科・後藤範章ゼミナールの日誌☆

社会学科後藤ゼミナールの実態とゼミ生の生態が一目で分かるゼミ日誌! しかと見れ!!!

5月19日 4年ゼミ 街歩き①

2023-05-19 17:50:00 | 2019年度
① ニコライ堂(担当:日野慎之助)
5月19日に街歩きを行いました。集合場所は東京都千代田区の東京復活大聖堂でニコライ堂の名で知られています。300円を払って中に入りろうに火をつけお話を伺いました。教会の中では帽子やカバンは身に付けないこと、正面にお尻を向けてはいけないことなど注意を受けました。私自身高校生の時に正教会というキリスト教会を勉強したものの実際なにを信仰していてどの民族で形成されているのか知らないことばかりだったので直接中に入り目で見て勉強できたのはとてもいい経験になりました。また、教会に訪れる人々は信徒の方ばかりなのかなと思っていたのですが建物を写真に収めたり、パンフレットを興味深々に読んでいる様子が見られたので観光客が多いのかなという印象を受けました。




② 聖橋(担当:細田遼) 
聖橋を担当いたします。4年ゼミ細田遼です。聖橋は、東京都千代田区神田駿河台にあり、ニコライ聖堂と湯島聖堂を結ぶ「聖なる橋」です。関東大震災の復興事業として、大正13年(1924年)に着工し、昭和2(1927年)年7月に完成しました。神田川を渡るアーチ部は開腹アーチと呼ばれる構造となっていて、長さが36.3mあります。このアーチは鉄筋だけでなく、鉄骨も使用されています。

上記の写真は橋の中央あたりから左を見た景色です。路線、工事現場、神田川、高層ビル、堀を一度に見ることができます。この神田川はかつては山でした。そこが掘削されて、水を引っ張りました。理由として、私たちの飲料水や荷物の運搬、そして最も大きな役割として皇居を守るための堀のもう一つ外の堀であり、攻めにくくしています。江戸幕府が指示し仙台藩が伊達堀という掘削を行い、初代藩主伊達政宗から四代藩主伊達綱村に完成しました。写真を見ても人口だとは思えないほどの大規模な掘削だったことがわかります。そんな歴史的なものを見ることもできる聖なる橋は、土木学会から平成29年選奨土木遺産に認定されるほどの建造物であり、世代を超えて引き継がれていくのでしょう。

③ 湯島聖堂(担当:松田恋)
湯島聖堂は、徳川五代将軍綱吉は儒学の振興を図るため、元禄3年(1690)湯島の地に聖堂を創建して上野忍ヶ岡にあった幕府儒臣・林羅山の邸内に設けられた孔子廟(先聖殿)をここに移した。先聖殿を大成殿と改称して孔子廟の規模を拡大・整頓し、官学の府としたのが始まりである。この時からこの大成殿と附属の建造物を総称して「聖堂」と呼ぶようになった。

「湯島聖堂」


「大成殿」
その後、およそ100年を経た寛政9年(1797)幕府直轄学校として、「昌平坂学問所(通称『昌平校』)」を開設した。「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって「孔子の諸説、儒学を教える学校」の名前とし、それがこの地の地名にもなった。

「孔子像」

明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府の所管するところとなり、当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存置されていたが、明治4年(1871)これを廃して文部省が置かれることとなり、林羅山以来240年、学問所となってからは75年の儒学の講筵は、歴史を閉じた。そして、この年博物館(現在の東京国立博物館)が置かれ、翌年5年(1872)には東京師範学校、わが国初の図書館である書籍館が置かれ、7年(1874)には東京女子師範学校が設置され、両校はそれぞれ明治19年(1886)、23年(1890)高等師
範学校に昇格したのち、現在の筑波大学、お茶の水女子大学へと発展した。
明治5年3月10日、湯島聖堂大成殿を会場として文部省博物局による最初の博覧会が開かれた。陳列品は、水槽に入れた山椒魚、大きな黄金の鯱、絵画・書跡・珊瑚・金工品、剥製・骨格見本・額画、染織品・漆器・楽器・陶器類などが網羅的に並べられ、当時の観覧者に新鮮な印象を与えた恒久的な展示を行なう博物館の誕生であった。このように、湯島聖堂は維新の一大変革に当たっても学問所としての伝統を受け継ぎ、近代・日本の教育発祥の地としての栄誉を担った。
 
 湯島聖堂に足を運び、日本の学校教育発祥の地であることから、湯島聖堂の周りには東京大学を始めとして学ぶ場所が多く存在することや多くの受験生が訪れるなど意味を知ることができた。その場所についての歴史や意味を知っているのと知らないとでは、建物の見方や感じ方は異なると思う。
 実際、大成殿の屋根にある動物について、街歩きではわからなかったが、調べてみると大成殿をしっかり守る守護獣であることがわかった。



上の二つ「鬼狂頭(きぎんとう)」、下の二つ「鬼龍子(きりゅうし)」

鬼狂頭は一種の鯱(しゃちほこ)で、頭を外側に向けて取り付けられており、龍頭から鯨のように水を噴き上げている。鬼狂頭は想像上の魚神であり、鯱が水を噴出して火災から建物を守る目的で置かれたことがわかる。鬼龍子は、狂犬に似た姿で、顔は猫科の動物と似ており、牙を剥き、腹には鱗があり蛇腹龍腹となっている。想像上の霊獣で、孔子のような聖人の徳に感じて現れるという。関東大震災で焼失したものの、現在の改装しより存在を保ち続けることができている大成殿・湯島聖堂はこの鬼狂頭がいることで守られているのではないかと感じた。

④ 神田明神(担当:松原拓)
神田明神編を担当します、ゼミ4年の松原です。
私は今回の街歩きで初めて神田明神を訪れました。神田祭や年末年始の混雑の様子をテレビでよく見ていたので、年中賑やかな神社なのではと思っていたのですが、予想に反して境内はがらりとしていました。雨が降っていなければもっと参拝客も多く、違った様子だったのでしょうか…。さて、神田明神は一の宮「大己尊命(大黒様)」、二の宮「少彦名命(えびす様)」、三の宮「平将門命(まさかど様)」の三祭神が祭られていますが、なぜ平将門が祭られているのか知っていますか?平将門は平安時代の武将であり、東国で親王を名乗り西の朝廷に対して反乱を起こした人物です。反乱は鎮圧されさらし首となりましたが、当時圧政に苦しんでいた民衆からは英雄視されていたそうです。そうして打ち取られた将門ですが、疫病の流行や役人が倒れるなどの不幸が相次いだことから、怨霊として恐れられ、江戸城から鬼門の方角に当たる神田明神で霊ではなく守り神として祭るようになったそうです。また関ケ原の戦いの際、家康が戦勝の祈祷をしたところ見事勝利し天下統一を果たしたということから、平将門命は除災厄除だけでなく、勝負事やスポーツの神様としても参拝されています。あいにくの天気でしたが、それでもビジネスマンと思われる人が数人お参りしているところを見ることができ、当日は「商売繁盛の神田明神」の一面を感じとることができました。
神田明神は毎年30万人以上が初詣に来るそうですが、個人的には今日のような人があまり来ない日に参拝した方が、神様も祈りごとを聞いてくれそうな気がしています。自分が神様だったらそのほうがありがたいなーと思った次第です。ちなみに後藤先生は、神様も信じず神社やお寺にも一切お参りはしない無信仰派だと言っていました。あまり詳しくは語ってくれなかったので、機会があれば後藤先生の宗教事情も聞いてみたいところですね。



⑤ 湯島天神(担当:山本柚季)

後藤ゼミ4年の山元柚季です。

湯島天神では雨が本降りになってしまったのであまり観察することはできませんでしたが、後藤先生のお話と共に湯島天神について考察することができました。


湯島天神は学問の神様、菅原道真を祀った神社です。菅原道真は当時天皇のブレイン的存在でしたが、藤原氏の怒りに触れ、九州太宰府に左遷、そのまま非業の死を遂げてしまいました。それからというもの朝廷内では不吉なことが多々起こるようになり、菅原道真の怨霊による祟りだとおそれられるようになります。そこで藤原氏は京都に北野天満宮を作り学問の神様として菅原道真を祀ることで祟りをおさめようとしました。

徳川家が江戸に都を移した14世紀に湯島天神を新たに作りました。こらを利用して徳川家は江戸を統治しようと考えたようです。湯島天神の装飾には青色などあまり普通の神社では見かけない鮮やかなものがありました。これらは朝鮮からの影響を受けたそうです。2年生の時に韓国の美術、文化の授業を受けましたが、その時にみた建物はとても鮮やかで、確かに似ていると感じました。また、沖縄の首里城などにも似てるなと思い、調べたところ琉球王国と朝鮮は長い間貿易などで繋がりがあったようで、朝鮮からの影響というものはさまざまなところに見られるのかもしれないと考えました。

今はありませんでしたが、絵馬を大量に積み、燃やす文化もあるそうです。その文化のルーツを知りたくなりました。

また、後藤先生のお話の中で興味深いと感じたのは神社の近くにあるホテルはもともと連れ込み宿だったということです。性と聖は一見真反対と思われがちですが、実は裏と表になっていて、聖があるということは性もあるということを知りました。

最後本降りの雨になってしまったので上野方面には行けませんでしたが、後藤先生のお話を聞いて想像を膨らませることができました。

御茶ノ水駅から湯島天神まで歩いていると坂が多いと感じます。台地と低地を意識して歩くと尚更です。


土地の高低差は社会階層と同じで、高いところに住む人は高い地位、低いところに住む人は低い地位というように自然と住み分けがされています。上野駅を出ると公園や、動物園、美術館や博物館、芸大など広い学問の施設がたくさんあります。しかし、上野公園口の改札を出て左に曲がり、ずっと坂を下っていくとアメ横にたどり着きます。そこは坂の上とは違い外国人や、飲み屋などが広がる下町となっています。

これは上野だけに過ぎず、さまざまな場所で見られると思います。

これから東京を歩く際は土地の高低差に注目して歩くと、発見が増えるなと思いました。次歩くときはぜひ晴れてたらいいなと思います。
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