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常滑フィールド・トリップ2009


常滑フィールド・トリップ2009の展覧会が始まります。

詳細はホームページ http://www.tokoname-fieldtrip.jp をご覧下さい。

なかなかブログ更新できませんでした。

では、展覧会で!!
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7月30日 行為と思考




   行為と思考



 雨漏りにほとほと疲れた。
 天井裏に落ちる雨の音を聞くと心に棘が刺さったようになる。
 いつからか思考のプロセスが転換した。どういうことだろうか、どうしてだろうか。本がこの部屋に増えたからであろうか。

 この殻(川端の家)が、私が対峙すべきものだったのに、飲み込まれてしまった。内から外への思考、行為のベクトルを放っているのに…コロイドの様に僕は透過してしまう。
 今や対象を見つけられなくなっている。目の前にあるにもかかわらず。内部にいながら、とても遠くの荒野に放り出された。
 この家の被膜はどこへ…内的被膜、外的被膜

 七月七日からここで寝泊まりをするようになった。それから今、記している、いま。
 漸化式のように、「アンフラマンス-極薄」的に対象をいつしか見失った。これまでは排除することで…排除することに困惑していたのだが、排除することにも落ち着き、(雨漏りは続いているが)ニュートラルな、平坦な空間へと近づき、自己に目隠しがされ、馴染んでしまい、見えなくなったか、ここからどう掘り起こすか、次ぎの手が見つからなかった。
 住むということに自分の生活が含まれすぎていた。主体が自己にあった。内から外への思考・行為のベクトルが自己の内へ放たれていたのか。

 触覚が薄れていた。いまは、連日の雨で生えた黴を拭き取った。私は黴が繁殖することを否定した。向かいのお寺の窓や、外からの視線が気になり、簾をつけた。巻き上げ式の器具も付けたが気にくわず外した。簾をつけることには肯定か。ひとつひとつの選択、実践が足りない。内的思考から遠くへ、外的刺激の末の思考へ。思考のみでは、この空間は据えられない、実在は感覚にある。


 川端の家は機能を取り戻したということ。引き戸が動くことなど。思考が及ぶのは結果に対してのみ、それ以上のことは想像である。川端の家だけではなく、その周辺も機能を取り戻す。便所、井戸、人と人とのコミュニケーション。
 川端の家の軸というのは当時の文化…知らないので想像になるが、理想でもある。家、建築素材に対して、自然のものであること。そこに人の知恵が含まれているということ。さらにそれらが自らの思考に何らかの影響を与えること。より深く思想がある。身体の皮膚に近い機能を持ち、この川端の家が機能することによって、人間とともに機能することによって、第二の皮膚となる。本来の建築的機能を取り戻すこと。それは、人間の知恵の結晶、文化だが、さらにその先きにベクトルを向ける。この繰り返しによってひとつずつ深淵へと近づく。本来の場所へと向かっていく。
 いや、しかしこれまでのことは、自己から対象(川端の家)への働きかけのみであったが、川端の家から自己への働きかけも考慮しなければならない。肯定・否定によってそこにあるものがすでに川端の家からの働きかけであって、それに対して反応はしているが…触覚的にも感覚的にも。
 そして、はじめの頃から、はじめの頃の川端の家に対する、川端の家での思考があり、そこで思考していたことと、肯定・否定の排除により空間の様相が変化し、その過程で思考に及ぼす変化もあると思う。それは、いまのことのように、対象として見えていたものが見えなくなったこと。(川端の家に対して感覚的に肯定・否定する選択肢が減り、落ち着き、自己に対する刺激が減ったことが要因と思われる。)前のことと、この文脈との相互作用が行為と思考にまず起きている。
 行為と思考がそのような関係であるとすれば、別の文脈の「三層原理」の「深淵」の様な対象の浮かび上がらない場所はこの方法では行為・思考もないのであろうか。例えば「御嶽」のような場所やインスタレーションの中では、その様な行為・思考は働きはじめるのであろうか。となれば、川端の家は一般的な「家」という機能から行為・思考の対象となり自己を主体とした行為・思考の錬磨によって、第二の機能が働きはじめ、芸術作品となるような「御嶽」的な、神聖な(詳しくは芸術と宗教の根源を一体とみなし)機能を持ちはじめると、第三の「深淵」という(根源)機能を持ちはじめるのであろうか。と、対象の機能や意味的存在、存在自体も変化していくということになる。そしてこれは本来考えていた三層原理ではなく、その亜種となる。




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7月26日 一人の人間のサイクル



 一人の人間のサイクル


ここ最近、考えていたことは夢想じみていた。
制作も本を読むことが中心、文章を書くことが中心になっていた。
この川端の家も、内部にとどまって、隣近所のおばちゃんと話もしなくなった。
裏の扉を開けて、風をいれないと…



いきること、この場所で生きることのすべて。
人に出会うこと、出会い、ことのはじまり。
一生という一人の人間のサイクル(循環)に必要なこと・もののすべてが、ここに住み、生活すること、出会い、生きることによって受け継ぎ、伝える、中継することができる。

生まれること、生きること、死ぬことの中で、何かが起こり何かが消えていったその重なり。

かつて住んでいた洞窟が儀式の場となり、住まう場が公共的な空間へと移る。
食糧、水、…を共有する。

今も同じ。
今も同じことが繰り返されている。
少しの変化、バラエティーはあるが根本的な要素は変化しない。
単に言ってしまえば最低限のライフラインを一人の人間(私)のサイクルに必要だということを肌で感じ取っておきたい。そして、そこから離れて生きていたくはない。

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7月24日 馴れ

 


馴れてしまった。川端の家に。

馴れというものほど、その外部、客観的な視野を失わせるものはない。

今やこの川端の家でさえも、自己の循環の中に入ろうとしている。

私はこの家の襞に入りたいのだが、そのことをこの家は拒絶する。

内部にいるのに、交わることはない。内部にいながらにして、外部にある。



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7月9日 生と死の姿勢



   生と死の姿勢



海の突堤に寝転がり、目を閉じて、全身の力を抜く。土に還る感覚を取り戻そうとする。

ピナ・バウシュが死んだ。

それを知ったのは今日(七月八日)の夜。
土に還るという行為も表現のひとつと、彼女なら言いそうな気さえする。

ピナ・バウシュからは言葉にし得ない程多くの影響を受けたと思っている。
思想。その内に放つ矢のような思想は、他者からの不純なイメージをすり抜け、自らの深淵の的を痛めつける。

「あなたは今、何に興味をもっているの?」と尋ねられたかった。
ピナ・バウシュは団員それぞれに声をかける。
その言葉は、それぞれを自立させ、かつ最上に豊かな生を意識(覚醒)させる。

生に対する姿勢はまず自立することではないだろうか。

生まれた時が生のはじまりだとすれば、最後に瞼を閉じる時から死がはじまる。
生も死も受け入れる態度、それが生きることへの姿勢につながると思う。

生きることといえども漠然としていて、なおそれぞれに思うことが全く違う(千差万別)と思うが、ピナ・バウシュに準えて、それは行為の総体であると考える。

食う、寝る、考える…、そしてその他、話す、歩く、排泄する。そして、生きる、死ぬという行為。

そして、それらが自立して成されるということ。


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6月23日 川端の家の方向性



 何かと忙しく、落ち着き筆をとった今は、制作をはじめて一ヶ月が経とうとしている。

 土壁の上に張り付けられたベニヤ板を取払い、その下の浮き上がった漆喰を削り落とし、雨漏りで畳の上に生えた黴を拭い、裏の井戸を五十年振りに蓋を開け、水を汲み、汲取り便所を磨き上げ、昨日の土砂降りで雨水が伝った二階の土壁の水の道筋を辿って、天井板を外し覗くと、半面に六畳程のビニルシートと無数のタライやバケツ。昨日雨の漏った側の天井裏には雨を受ける物は何もなく、漆黒の湖ができていた。

 めげずに二階の二部屋を素足でも上がれるように掃除し、井戸水を汲み、便所を使い、生活感を出してみる。

 これまでの形跡は写真とメモで少しは残っているが、しっかりと記録したわけではない。これからどのようにしていくのか、どのような方向性を持つのか。

 家の中に記憶を閉じ込めるのではなくて、そのものが作品として自立するようなものになることを願う。


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6月4日



川端の家 蝋燭で灯りをともす

この灯りで本を読む

読み進めるうちに集中し、没頭していく

この明るさが、僕の意識を本の中へと引き摺り込む

頁に落ちる手の影と、
後ろに伸び広がる影

巨人と過ごしているかの様な不思議な安堵が満ちる


剥き出しの土壁から欠片が壁を這う様に落ちて

横木に当たり 柔らかく高い音を立てる

その音は僕の背を這い上がり

深い意識の底へと墜ちていく


そこに月はあるのだろうか

空には一面、雲がかかり

左手上に明るみがある

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5月25日 回想

ゆっくりと方向性を決めていく

決めるということは、譲らないことではない

きっと、何かの上を滑っているのだ

 川面の上を風が滑り

 川床の上を水が滑り

 大地の上を砂が滑り

この家の中を誰かが滑っていった

僕はその軌跡に触れる

取り払うという分別のない行為によって

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5月20日のこと

だんだんと前の住人たちから遠ざかっていく、家、空間、その内部、様相

そして、僕の好む様に方向を変えていく

備え付けられていた物を取り払う

異国の文化に介入する様に

自分が正当に暴力を振るっている様に思えた

それも個人に対する、以前の住人たちへの

壁掛けのフック、カーテンレール、蛍光灯の笠、
埃を払い、引き戸の動きを滑らかにし、窓のレールも、
窓ガラスを拭き、網戸を取り付ける

この家の住人だった数々の人の生活の様相を感じ取りながら、
極力、この家の元の機能へと戻していく。

いまの僕には既に個はない

以前から薄々気付いていた、客観視して個が薄れていく状況を

そして、誰でもであって、誰でもでない、人として生活する。

それは、「個であって、個でない感覚」以前、I先生が言っていた。

あの家の空間を一度、平坦にしたところから再出発する

生きる場を求めることから、生きていることを示すところへと

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常滑にて


これから

断片的な継続性をもって

滞在しようと思う



少し時間ができたら

どうしようもない言葉をかく



ブログのタイトル変更を検討中!!

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