白神仙人の山の徒然

山登りは自分との戦いと思って妻を無理やり山女に教育していたが
最近は妻のほうが山登りが早くなった。

仙人修行の薪切です

2008-11-27 20:34:28 | Weblog
 東京遊覧から帰った午後から山へ行きました。都会の疲れが急に抜けたような清々しい自然の鋭気が仙人の体に入ってきました。
 仙人に割り当てられた山の番号12番です。東京へ行っている間に11番の人は切り終えているので周りに気お使うことなく作業が出来るのでチエンー・ソーを担いで斜面を登って、最初の立ち木にとりかかりました。
 初日なので4本の木を倒して90センチぐらいに切てから急斜面を利用して切った木を下まで転がしながら一箇所まで集めます。集めた木は川を越えて車の効くところまで運搬する必要があるのでそれなりの道を作って運搬車で運ぶ過酷な山仕事ですが、それがとても充実した一日を与えてくれます。午後3時には自宅へ帰り、仙人小屋での缶ビールでのどを潤して至福時を満悦しています。・・・暖かい薪ストーブはまた最高の感触ですね・・・

 切った薪を運搬車で仮設の道と橋を渡って車のある道まで運びます。


 今日初めての薪きり作業に参加した部下ですが、腰がふらついていますね・・・この作業は、大きな薪を矢〔金のクサビ〕割ってるところです。


チエンー・ソー刃を丸ヤスリで研いでいるところです。


倒した木を90センチに切っているところです。


今日初めて30センチの楢の木を切るのに挑戦しています。

この切り口は受けと言います。切った方向へ木を倒しために切ります。

仙人が新人へ倒し方を教えているところです。

上杉謙信と厩橋城

2008-11-18 19:32:05 | Weblog
 築城については太田道灌をはじめ諸説あるが、延徳年間(1490)頃に長尾忠房が石倉の地に築城したのがはじまりとされる。利根川を西の備えにして広大な関東平野を抑えるように構築された史跡の跡が前橋市内に見ることが出来ました。
 仙人がこの厩橋城に興味を持ったのは、長尾影虎と言う武将が生涯をかけて越後の国から冬の三国峠を越えて北条氏進行をくい止めるために厩橋城を拠点に13回もの遠征を行ったことに非情に感銘したから一度は訪ねて見たいと思っていたところ、今回知人のご協力になって本丸から車橋の石垣・土塁上に植えられた数百年は経っている黒松などを見ることが出来ました。
 今は、本丸に群馬県庁があって最上階から前橋市を一望できます。古〔いにしえ〕の謙信も天守閣より眺めていたことを思い浮かべることを想像できました。
この案内板は県警庁舎の脇になるので注意が必要です。

現在の本丸跡には、県庁庁舎・旧庁舎・県警庁舎があります。

車橋門の当時石垣の広さ大きくて冠木門になっていたとの説明がありました。現在は住宅地の中にあるので注意が必要です。

本丸の北側にある旧知事公邸・・・現在は文化財的建築様式なので茶会などで使用されている。


きりたんぽ鍋

2008-11-12 15:54:19 | Weblog
 今晩の夕食は秋田名物のきりたんぽ鍋です。朝妻に夕食はきりたんぽを食べるので、市日よりセリを1束買って来てくれて言われたので自転車で買いに行ったら2束で100円と言われたので買ってきた。
 ネギは畑から2~3本採ってきてくださいと言われたのをシッカリ忘れて、暗い畑の道をヘッドライト灯して歩いていき何とか妻との約束を守った仙人です。
 あいにく、たんぽはスーパーからの安売りを使いましたが、自家製のあきたこまちで作るのが一般的なきりたんぽ鍋です。
 その他の野菜はすべて自家製の野菜を使いました。
★仙人ガ調べた由来・・・大阪城落城のおリ真田幸村が大館市に逃れて来たときに信州に伝わる"五平餅を伝えたとの風説が伝わっています。
 そもそも大館市は、戦国時代に比内地方を治めていた浅利氏の領地でありました。浅利氏は武田信玄24将の一人として記録に在るところですが、故あって比内地に勢力を伸ばした一族です。
 源頼朝が鎌倉幕府を開いたときに比内地方を浅利氏が賜って独鈷城を築いた後に、戦国時代に再度入部して鉱山資源をもとに栄えた一族です。真田と浅利氏はともに武田信玄の武将であって信州とは縁の深い一族あることからこの説を信じたい仙人です。

母が種をまき苗を育てた自家製のネギです。市販されているネギは大量に栽培するので農薬を使用しているようですが我が家のネギは無農薬です。





◆きりたんぽ由来アドレス・・・・http://www.sannou.net/prejudice.html