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大阪府三島の里に今は住み 商売しお昼からは大阪北港 高槻市 神社旧跡トーナイ

2013-12-23 07:26:15 | 中国向け非鉄金属輸出価格相場トーナイ
第26代継体天皇の御陵がある古墳の街 摂津 三島 大阪府高槻市に その昔の吉備国、その後に美作国(現在の美作市)から わしことトーナイは
その岡山の里を離れ 36年前に 流れついてきた流民?とも言えるかな?---バタ屋とうないのブログ
 
継体天皇の時代 西暦500年代 は 世界的に寒冷期に陥っていたのだと思えるふしが 歴史の中に あちらこちらと見えてきます 
多分 世界中が寒冷化して太陽黒点の活動が減少していたのかも知れないし 
火山の大噴火で 雲に覆われて気温が落ちたのかも知れない
気温が落ちれば 農作物が育たず 
飢えれば飢饉や戦争が起こる 
その時代 日本は 多分 その地域 地域を おさめる力の者が 
多団体 全国に存在していたのかもしれないと 考えています
 
その時代 伝染病も蔓延していった時代
540-571年には 飢饉も困った問題であったが 
朝鮮半島からの大量の難民が流入してきている
これも 世界的な寒冷化に伴うこともあるだろうし
争いが頻発したということも何らかの関係があるかも知れない
磐井の乱が527年でしょ(継体天皇の時代)
その時に 新たな信仰が 必要になってきた(→仏教の伝来は必要性があった)
磐井とは 九州の豪族 で物部将軍によって鎮圧されたと されているが よく解からない
磐井には→ 新羅がバックにいたのかな?(朝鮮半島の事情)
しかし磐井は敗れたので 本人は死んだが その子は命乞いをして 屯倉(みやけ) 多分 米蔵のようなものを ヤマトに貢いで 死罪は 免れた とも書いてある
ヤマト王権と百済の友好関係と 
新羅と磐井の関係等も色々と空想される
ワシが36年前に 高槻市に来た時に 興味を持った地名に 唐崎という地名があって 何で なのだろう と 思っていたのだけれどね
唐 とう なのか から か 朝鮮との何か影響なのか 
そこの地に その当時 ワシ 数年の期間 大阪で知り合った 全国から流れ着いた連中と 屑の商売の グループを作って 事務所の所在地にした時代もあったので 気になる地名だった 唐崎 変わった地名でしょ
淀川の 京都と大阪の 丁度まんなか辺りに位置します
5年ほど前だったか 三島神社 違った 三島鴨神社の社史を検索していたら その理由が多少 解明されてきているの
三島 は 大三島 の 三島で 鴨は 下賀茂 などの鴨なのかな?
 
三三島 とはね 
 
伊予の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)と  
伊豆の三嶋大社(みしまたいしゃ)
それに 一番古いのが 
高槻市三島江の三島鴨神社と
社史では 書いている
継体天皇の時代より 200年前の仁徳天皇の世に
百済より 渡来し 津の国の 御島みしまに 鎮座したとある
此の時に 高槻市の唐人が 何か協力をしたとある
その三島地区の 淀川の 湿地付近が 唐崎ということで
社史によれば 
『伊予国風土記』逸文によると、大山積神は百済から当地に祀られ、次いで伊予国の大山祇神社に遷座したとされる。同文に見える「津の国の御島」が当社であれば、大山祇神社大三島瀬戸に鎮座したのが推古天皇2年(594年)とされているので、当社はこれ以前の創建
伊豆大島の神社よりも この 高槻市の三島は 古くから鎮座しているとも 言っている
そうですねん 
この高槻市も 仁徳天皇にも なぜか 関係している可能性があると空想している
 
36年前から 気になっていた地名で その 三島の西面南というところを 今もトーナイとうないの本社としている
 
その付近に とうないの仕事関連の場所が数箇所あるの 淀川の すぐ傍じゃ
 
そうや ワシの個人で持っている 本社の土地の一部に地目にも 変な 呼び名がついているの 遺構(いこう) という のが一部本社のワシの土地に地目にも書いてある
まあ 高槻市周辺は 遺構だらけかもしれないですよね
高槻市 三島江 唐崎 西面村 とか 歴史がとても深い
渡来人が 日本を作っていったわけですが
どんな 時代の流れがあったのかね~
 
上に書いたように また 時代が200年ほども 近代に戻るのですが 
 
高槻市 継体天皇御陵 枚方市 御殿山
とにかく 淀川を巧みに
舟を操ってさ 昔の時代の人も暮らし 
貴族は舟に乗って遊びもした
その貴族 大陸から 渡来した可能性は99%だと思う
 
継体天皇は 福井県の出 とも 書いてあるのですよね
 
仁徳天皇から 継体天皇までの 王家は どのように継承されていったのか?解からないよ
 
まあ 地名に残されたものや 社史に残されたものを
色々 疑問をもつと 面白いです
 
書いてあることを 全部 鵜呑みには しては ならない それは 書いた人の 都合のよい書き方をするので それには注意して 各方向から 調べて 自分で空想してみているの
 
今日は ワシのトーナイ本社のある 元は三島 摂津 の 唐崎の地名などを 書いてみた
 
此の15年 ほど その三島鴨神社に 他の処のものではあるが お近くの神社でもあるので ワシ 立ち寄ってご縁を頂戴しています
 
本来は ワシは 岡山 美作の  津山 一の宮 中山神社に行くべきところの筋ではあるのですが そこは遠いので 三島神社に 参っています 祈っております
 
最後に 銅の本日の相場は1223 @800です
本日は祝日ですが 買取の仕事 頑張る予定です
 
 
 トーナイは 非鉄・鉄・中古品・廃プラスチックの売買を行い、
また廃棄物を正規に適正処理する総合的リサイクル企業です。
トーナイの大阪市此花営業所は
http://www.tohnai.com/top_main.html
09年ISO14001を認証取得しました。
09年8月末には 
大阪税関より 自社保有地に一般貨物保税蔵置場許可が許可され バラのスクラップ貨物を自社ヤードで通関可能な保税倉庫の許可も取得しましたので 
 チャーターした船に 自社保税区から直接の積み込みが可能な 全国的にも珍しいリサイクルセンターとなっております
 (中国向け輸出ライセンス有) 
 関西一円片道300Km半径ぐらいが収集範囲です
廃棄物処理(大阪市と高槻市に2つの産業廃棄物中間処理工場)の 
マニフェスト発行も可能な中間処理業者です。
0120 535319(ゴミゴミ行く) が 屑 買取の連絡先です 072-678-1112 ㈱トーナイ名古屋周辺から関西一円可能
 
■『陰陽五行と日本の民俗』からのなかで,『鉄山秘書要約』を次のように解析している。
 
  「七月は申(サル)月であるから, 金屋子神は申月申刻に天降りされた。申は金気の始め, また七日の七も七赤金気で, 金気の象徴。次ぎに西方に向かって白鷺に乗って行かれたというが, 西・白・鳥はいずれも金気である。このように時間・空間・色彩・十二支において,金気ずくめの金屋子神は,「土生金」の理で,土が二つも重なっている桂の木に止まり,最上の呪物土気である死体,それも生類の霊長としての人間の死骸を最も好まれる。それらすべて一部の隙もない五行の理の応用であり,反映であって,昔の日本人が如何に五行の呪術に凝っていたか,歴然たるものがある。同時に裏を返せば,そこに見られるのは自らの仕事に対するあふれるばかりの忠誠心であって,後代の私どもは深く感動させられるのである。」
 このことからも,
楢原邑に始めて「中山大神」として示現した神は,午(ウマ)の最盛期を選んで出現したことから,この神が「火」を中心とした神格と認識されたとして間違いないであろう。②一体どのような火であるか,火の種類については今のところ明確ではない。
しかし, この神が
東内(藤内)の矛殿・五座の鉾石など鉾を属性としていることからも,鉾などの武器製造に不可欠な金属溶鉱・鍛治の火()を象徴していた可能性は高いと考えられる。
 
 
    東内(藤内の祖)に神が示現したのが慶雲三年,丙午の年の五月上旬(二の午の日)とある。二の午の日がわたしには解らない。当時は月を上・中・下旬とせず,上・下旬に二分していたものなら「二番目の午日」はおさまる。しかし,旬を原則どおり十日単位とした場合には,十二支を一巡とする午日が二度現れるはずがないのだが。この点については,是非どなたかにご教示をお願いしたい。
  とにかく,この年の干支(カンシ)は丙午であって, 日時ははっきりしないが,日の方は干支の干が不明なるも支は明確に「第二の午日」と言う。ちなみに,旧暦の五月は夏の盛りの「午」月でもある。すると, この神は午の年・午の月・午の日に,白馬()に乗って現われたことになる。ここまで午が揃うと, 出現時間も当然「午の刻」の可能性も高いのではないか。午の刻は真昼-正午である。こういった干支にぴったり合わせた示現伝承や,五座の鉾石伝承からも,「陰陽五行思想」の濃密な土壌のなかから,この神が誕生したことは間違いない。
  鉾石は五個あったと考えられ,鉾の大小は置くとして中央と東西南北の四方に,鉾が立てられたものであろう
 
 
■和銅(日本の時代)
和銅(わどう)は、日本の元号のひとつで慶雲の前。708年から715年までの期間を指す。この時代の天皇は女帝元明天皇である。
·                                 和銅8年9月、霊亀に改元。
続日本紀 卷四には、武蔵国 秩父郡(現在の埼玉県 秩父市黒谷)から、
和銅(ニギアカガネ)と呼ばれる銅塊が発見され朝廷に献上されたことを祝い、年号が慶雲から和銅に改められたと記されている。
和銅期
和銅元年2月 - 平城の地に新都造営のがでる。10月、伊勢神宮平城宮造営を告げる。
·                                 和銅3年3月 - 藤原京から平城京に遷都。藤原氏、興福寺の造営を発願する。
·                                 和銅4年10月 - 蓄銭叙位令を定める。
·                                 和銅5年1月 - 太安万侶により古事記 完成、撰上。
·                                 和銅5年9月28日 - 出羽国を建てる。
·                                 和銅6年4月3日 - 丹後国 美作国・大隅国を建てる。
 
☆官稲混合による正税とは 年貢というか 稲穂を集める役目 駅起稲 神税 西暦700年過ぎの頃

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