昨日の話の続きです。
大江千里さんはまんたんウェブでもこのようにお話をされています。
今日のブログは特にサザンファンの方に読んでいただきたい話です。
昨日のブログで91年から99年まで千里さんのファンクラブに入っていたという話を書きましたが、サザンのファンクラブに加入して12年経って見に行ったライブの回数より、千里さんのファンクラブに加入して見に行った回数のほうが多いんです。
サザンと桑田さんのライブを見に行った回数がファンクラブに加入して8回(ただし8年前のツアーは当選していたけど、桑田さんの病気で中止になり、おととしの年越しは抽選で外れ)なのに対し、千里さんのライブを見に行った回数はファンクラブに加入して14回(ただし96年の納涼千里天国はハワイでお金の都合で断念し、97年の納涼千里天国は一般で入手)でした。
千里さんが「シンガーソングライターのピークが30歳くらい」とお話していましたが、私の場合はライブに行ける(要するに好き放題出来る)ピークが25歳でした。
ここからは自分の話ばかりになってしまうのですみません。
私が勤務していたカルビーという会社は年間のボーナスだけでも手取り65万近くもらえたのでやりたい放題出来たし、年2回東京に行けるお金もありました。あと親が会社経営をしていたので自慢話になってしまうけどお金の不自由がなくて、それに甘えてしまったことも大きいです。
だからライブに行けるお金も休みもあったし、無理に有休を取っていったライブもありました。昔は平日にライブが多かったので、休まざるを得ない状況もありました。
私が23歳の時に父が腎臓がんとなり、それも逸見政孝さんが例の記者会見をした1か月半後でした。その時は初期だったのでよかったのですが、常にいつまで生きれるかという不安との戦いでした。(今年で手術25年になります。)
逸見さんが亡くなる1週間ほど前に父は退院しましたが、抗がん剤治療が大変で、副作用の影響で下手するとうつ状態になるという話もあり、やりたい放題で部屋を片付けていなかったことを注意され、家を出る出ないまでのバトルまで発展したことがありました。(あと弟の大学2年連続留年もあった)
私がカルビーをやめたのはその2年後でした。きっかけは親の見合いしろプレッシャーと職場で自分の居場所がないことに気が付いたからです。
その後2年近く仕事をしない生活をしていましたが、自分探しの答えは見つからないまま結婚し、離婚しました。
千里さんのファンクラブの更新をやめたのも当時交際していた人がいて、コンサートどころじゃなかったからです。
仕事をやめても結婚しても自分を見失っていました。
そのことに気が付いたのは大江さんではないけど、かかりつけの先生が理不尽な事件で亡くなったことと、母の大腸がんでした。
それ以上に千里さんのインタビューの影響も大きいです。
余談ですが昨年の紅白はNYで見ていたといいます。(桑田さんの横アリ中継も見ていたということ?)
千里さんが渡米した平成20年の11月に小室さんが詐欺容疑で逮捕されるという事件が起きてしまいますが、その時に「千里さんはどう思っているんだろう?」という不安がよぎりました。その時彼は音楽大学で「国では実績があったのにピアノの下手な日本人」という評価に苦悩していたといいます。
今年の5月に彼はデビュー35周年を迎えます。一昨年「君の名は」の監督でもある新海誠氏の作品「言の葉の庭」に30年前のアルバム「1234」収録曲の「Rain 」が泰基博さんのカバーで使われたことで再評価されています。
前にも書きましたが昭和62年に発売されたアルバム「オリンピック」に収録されている「塩屋」の舞台でもある山陽塩屋駅に先月の終わりに行く予定でしたが、両親のインフルエンザと体調不良と寒波で来月に延期になりました。
最後に無理かもしれませんが、過去のアルバムの再発売とライブDVDのBOX化と35周年ライブをやってほしいです。出来たら千里さんのトリビュートアルバムも作ってほしいです。