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小森陽一氏「自民党の改憲草案を斬る!」-映画人九条の会4・25憲法学習会から(10)

2013年08月26日 | 国際・政治

昨日に引き続き2013年4月25日(木)に行われた「映画人九条の会」主催の「4・25憲法学習会」から、小森陽一氏の講演「自民党の改憲草案を斬る!」をご紹介します。(サイト管理者)

■戦後日本を支配してきた大きな精神的な支え──靖国体制は不可欠だった

今日、私のお話の前半で申し上げた、つまり安倍晋三政権によるこの憲法改悪と、その前提となる自民党憲法改正草案というのは、アメリカに追随する、とことん新自由主義を資本の言いなりに追い詰めていった時に、その資本が要求する戦争をアメリカが遂行するわけですから、それをアジアにおいて日本が協力する、そういう体制を仕上げていくための国家像がこの憲法案にはあって、そして戦後の日本の矛盾というものを一切決別してしまおうというときの要に、9条を昭和天皇裕仁が朕の名において言わなければ東京裁判にかけられて戦争責任を追及された、という問題と実はリンクしているのです。
なぜマッカーサーは、昭和天皇裕仁を残そうとしたのか。国内でも天皇退位論があった。それはまさに、1960年代に駐日大使をずっとやったライシャワーをはじめとする若手の日本研究者たちが、すでに日本と戦争を始めた直後、1942年の段階で大統領に直接、戦争が終わった段階で天皇を──真珠湾攻撃は天皇の名においてやったのです、宣戦布告は天皇がやるわけだから。大統領はそれに怒り狂っているわけですよ。そこに行って日本研究者たちは、「天皇は絶対に裁いちゃだめですよ」「天皇をどうこうするようなことになったら、百万人の軍隊が死ぬでしょう」ということまで言ったわけです。だからマッカーサーは、どんなことをしても天皇を残さなくてはいけない、と考えたわけです。
で、天皇を残すために、昭和天皇裕仁に9条を言わせたのです、1946年11月3日に。そして無血革命で、主権が天皇から国民に、誰もそんなことは両方とも意識してなかったのだけど、一応6ヶ月で革命をやったということになっている。ヨーロッパにおいては直接、王侯貴族を武器を持って立ち上がった市民が殺しているわけです。みんなギロチンにかけた。そうやって土地の私有化をしたわけです。そういうことを一切やらずに、無血革命を6ヶ月で遂行したのが1946年11月3日から1947年5月3日にかけてなのです。
なぜそういうことができて、天皇を救えたのか。それは、東京裁判では間違った戦争だというふうに確実に裁かれるが、その戦争で死んだお父さんやお兄さんや夫は、靖国の英霊として奉られます。英霊になった人たちがやったことが間違いだったかどうかということは考えてはいけないという戦後体制を作るうえで、靖国体制は不可欠だったのです。
昭和天皇裕仁は、9月27日にマッカーサーのところに会いに行きます。そして、あの写真を撮られるわけです。昭和天皇は直立不動、マッカーサーはこれ(両手を腰に)で、身長差がここまであって。「日本人は12歳の子どもだ」とマッカーサーが口走るわけですが、それがまさにマッカーサーと天皇の間で見えてしまうのがあの写真でした。一旦大きく報道されたのですが、あまりにやばすぎたので回収したんだけど流出しちゃった、という「みんなが知っているあの写真」。
「みんなが知っているあの写真」の背後で、昭和天皇裕仁はどういう交渉をするかというと、戦争を終えた、自分の責任において。ポツダム宣言を受諾した、自分の政府が。そのことを天照大御神を祭っている伊勢神宮から全部回って、そしてやがて自分の祖父である明治天皇と、父である大正天皇のお墓まで行って先祖に報告したい。だから自分の親類縁者のお墓参りをするということをマッカーサーに頼んで、いいですかと訊いて、いいだろう、となって、そうやって伊勢神宮へ。
これが昭和天皇の戦後行幸のはじまりです。宗教施設、つまり国家神道施設を全部回るんです。1945年の秋ですから、マッカーサーの神道指令はまだ出ていない。マッカーサーの神道指令が出てきたのは1945年の12月で、これに基づいて翌1946年の1月1日にいわゆる「人間宣言」をしたというふうに言われています。でも人間宣言なんて全然していないのですよ、昭和天皇裕仁は。
天皇裕仁が何を言ったかというと、これも『天皇の玉音放送』に書いてありますが、明治天皇が天皇神聖を行う上で根拠にした五箇条の御誓文をもう一度引用して、明治天皇になりきって、こういう形で日本の民主主義をずっと貫いてきたんだ、と居直ったのですよ。それが「人間宣言」です。
けれども、もう一回繰り返しますが、まだ天皇は神様なのです。1945年秋でも。その時に、皇祖皇宗(こうそこうそう)のお参りをし、その延長線上で靖国神社の「秋の例大祭」の翌日、靖国神社に参拝をしたわけです。個人で参拝したということです。
天皇の大日本国帝国憲法第一章に基づく統治統帥、国家主権者としての位置である統治権。これはマッカーサーに奪われています。連合国に占領されているわけですから、これはありません。それから軍の統帥権も陸海空はなくなって、やがて12月3日に解散命令が出るわけですから、これもなくなる運命にある。統帥権も奪われている。敗北して占領されているわけですから。でも、靖国祭祀権だけは残っているんですよ。
明治維新以降、天皇のために命を落とした者たちを英霊にして、神にして祭るという、かつては長州藩にあった招魂──魂を招くという儀式を国家儀礼として、天皇のために命を失った者をそのようにする、というふうにして招魂社と名付けられたのが、靖国神社です。
そして天皇のために、ずっと遡って一番がんばって命を張ったのは誰かというのは、探してみてもあまりいないわけです。だいだい命を張ったのは、武士ですから。でも武士は鎌倉幕府から自分の政権を持っていますから。天皇制の考え方からいくと、家来が勝手に政権を持っているのは間違いですよね。家来が統帥権を持っていますから。だから武家政治というのは認められない。これが軍人勅諭の基本的な考えです。天皇のために命投げ出した、最初の偉い奴というのは楠木正成くらいしかいないのです。だから、明治政府が楠木正成を祭った湊川神社を別格官幣社にし、そのあと、それに連動させて靖国神社を別格官幣社にして、そこに祭られている人たちは神々なんだということにしたのです。
「秋の例大祭」というのがいつ作られたかというと、これは日露戦争、日本が日英同盟を結んで、初めて欧米列強の中心である大英帝国のお墨付きで宣戦布告をすることを認められて行った戦争で、ポーツマス講和条約を結んだのも──国民は反対しましたけれども──9月でした。だから、春の例大祭だけだと日露戦争で死んだ死者たちを全部祭ることができないから、ポーツマス講和条約を結んで直ちに日露戦争の戦死者をみんな英霊にしてしまいましょう、ということで「秋の例大祭」が設けられたんです。これが11月です。
その「秋の例大祭」の翌日、昭和天皇裕仁は靖国神社に行って、これで15年戦争の最後の段階の太平洋戦争で死んだ全ての死者たちが、英霊になった。このことによって昭和天皇裕仁は、全ての戦争犠牲者の、天皇制を支持している戦争犠牲者の遺族を味方につけることができたのです。
 これがまさに、戦後日本を支配している大きな精神的な支えです。靖国神社に祭られた以上、私のお父さんやお爺さんや夫や兄や弟は悪いことをしているわけではない。この靖国神社と、かつての侵略戦争を美化したいという信条は、連動しているわけです。
ここに常に灯を供給していくというのが中曽根康弘や、意識的に行われている閣僚の靖国参拝です。それを今回も安倍政権は、やってのけているわけです。
つまり侵略戦争を美化するということと、9条を変えるということと、自衛隊を海外に出す、しかもアメリカの要求で。この問題が全部一緒になって出てきたのが1990年の湾岸戦争以降。そして93年の総選挙で自民党単独政権がつぶれるまでの政治過程です。このように最大の問題になったわけです。
(つづく)

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