2010/04/01 記
あすなろ会のロッカーの場所が変わってOさんが、整理箱を入れた。ちょっとしたことで、活動が変わる。今回の定例会が良い方向への切換点になってくれればと願うばかりだ。
父が1泊のシュートステイを終えて、14時半に戻ってくるために、訪問も活動の下準備も出かけるわけに行かず、中途半端な時間に拘束されて、昼間がつぶれてしまう。せめて17時半ならば、午前中が活きる。14時半では、それもままならない。
だからあすなろ会のことは、オンライン情報を借用しながら「山谷を歩く」という、8日のガイド資料集を作っていた。「いろは会商店街」「城北労働・福祉センター」「玉姫公園」は最低立ち寄りたい。山谷の一部でしかないが、資料集を作ってみると結構いろいろな情報を得ることができる。ざっと拾って詳細はEさんにバトンタッチする。その作業を早朝からやっていた。
------
父は約束の14時半より20分早く帰ってきてしまった。全く融通の利かない話で、早ければいいというものではない。階段を上げるために、ヘルパーさんが到着するのが14時20分からだったので、14時10分では玄関先に父を車椅子に乗せておかなくてはならない。大したことではないように見えるが、父は帰宅後すぐに排泄をする。糞尿がでれば父はじっとしていない。玄関先が糞尿まみれの戦場になるのだ。この辺の事情が、新しい事業所には通じない。契約では14時半であり、20分早いというのは、ずれ幅が大きすぎると抗議した。送迎担当らしい熟年男性は、不服な表情をあらわにし、次の用が詰まっているように腕時計を見始めた。
他の事業所の送迎はふたりであり、5分前後の時間幅で受け渡しをしてくれる。ところが彼は、ヘルパー引継ぎを知らなかった。つまりただ送り届けることが自分の役割と考えていた。「来るのが14時20分なら、10分位なら待ちましょう」というのだった。ヘルパーさんに引き継ぐという約束の契約違反であるという私の主張は、首を縦に振らなかった。介護サービスの質が低いと感じた瞬間だった。
父は車内で10分ほど待ち、到着した階段介助のヘルパーさん到着と同時に車から降ろされ、彼を通じて口座証明書を手渡すことも、聞いていないと「断って」帰って行った。結局証明書は郵送することにしたのだが、同じ事業所の中でも連携ができていなかった。ある病院系の特養で類似の行き違いがあったとき、先方のケアマネさんが、こちらが連絡したわけでもないのに、担当者と即日謝りにきた。この差は何なのだろう。
父は見慣れた階段介助のヘルパーさんに迎えられた。そのとき父は「いつものところだから、心配しなくても大丈夫だ」と語り、私とヘルパーさんを驚かせた。父には新しいホームも常用しているホームも区別が無いのだ。目の前の老女の食事請求の金切り声も、父の陰部に突然手を突っ込んで、おしめの確認をしたヘルパーも、父は覚えていない。人通りの多い通路の真ん中に、契約終了後父を諌めに行ったとき、そのまま通路に放置されていたことも、父には分かっていない。
日誌には、父は静かで優等生であったとかかれていた。個室に入れば歩き回る。そんな父が優等生であるはずがないのだ。私はこの事業所再利用を考えてしまった。
父を2階に上げようとしたとき、異変が起こった。いつもと同じように手すりとヘルパーさんに捕まったが、両足がわらってしまう。ぶるぶると振動し、萎えてしまうのだった。ヘルパーさんに、排泄のサインかもしれないと警告し、崩れてしまう父を無理に立たせず、崩れたところで転倒を避けることを第一として、手すり側に父を押し付けて、「立ったまま」休ませることにした。一度座ってしまうとなかなか立てないだけでなく、疲れて横たわってしまうからだった。この辺の按配は経験的なもの。相談して、段上の室内入口に椅子を用意した。階段から通路はU字に折れている。「し」の字に移動したところに移動したところに椅子を置いて休ませた。ところが排泄ではなかった。
椅子から歩行器に移動させ、父をベッドまでたどり付かせたが、ベッドを下げてもベッドに移れないのだった。結局介護者ふたりで父を持ち上げてベッドに横たわらせた。ひとりでは体重70kg台の萎えた父を移動するのは出来ない業だった。
原因は日誌を見て想像が付いた。いつもやったことがない体操をホームの退所前にやっていたのだった。
ベッドに戻った父は、軽いいびきをかきながら尿を漏らし始め、へルパーさんは時間延長せざるをえなくなった。今交換した紙パンツを父は寝惚けながら強引に降ろし始め、ベッドの上で放物線の排尿をしてくれた。シーツから衣服まで、全部交換しなおしとなった。しかしこれは前触れに過ぎなかった。
-----
夕食を持っていったとき、父はベッド上で頭の位置が上下逆になっていた。利き手の調子が悪いとき、ベッドに上るときに父は尻の回転が逆になり、体位が上下逆になる、ベッド上では自力で尻の半回転ができない。一度ベッドから降りないと向きが変えられない。
この体位で腹が痛いとうめきだした。便が出たいのだ。父は奥のベッド柵を投げ出して、反対側に降りようとした。そこは押入れと30cmもはなれていない隙間であり、落ちたらベッドを動かさないと父を引き出せない危険箇所だった。この父の異常で、夜の巡回は日送りとなった。枕をむしって投げつけ、花瓶が割れた。TVが倒れそうになり、父の頭の位置を逆にするために、父を抱えようとしたが持ち上がらなかった。ベッドは前傾姿勢で被介護者を抱える。母に毛布を指示し父に巻きつけ背負い投げをかけるように、父を背中に持ち上げた。目の前が真っ暗になった。
こうして父は向きを替えたが。このとき私を補助するつもりで母が父の尻を持ち上げていた。これがいけなかった。母がその夜、肩から下が外れそうに痛いと言い出した。父は便が出たいのでベッドを抜け出しては、ベッド下に落下を繰返した。ふたり分の介護の夜となった。
非常時は訪問看護の看護師さんを呼ぶことになっていた。ところが携帯が切れている。勿論、事務所は留守番電話が出るだけだった。残りの選択肢は救急車である。しかし、父は便が出たいと暴れている、母は肩が痛いでは、救急車にはあてはまらないではないか。
タクシーを呼んだ。痛みを訴える母を父のベッドサイドの見張りに立たせ、私はジャスコの薬局が閉まる直前に、飛び込んで湿布薬と痛み止めを買い込んで、再びタクシーで帰宅した。母には声はかけても、父が落ちても手を出さないこと。すぐに私に電話連絡することと確認していたが、ふたりとも帰宅時、寝息をたてていた。ほっとすると同時に、翌日は対策を打たなければならなかった。
母の肩の脱臼が起きていないかを確認し、湿布し買ってきたテープを使ってテーピングした。昔、私は鍾乳洞探査に同行していた。私は荷物のように竪穴の上げ下ろしをしてもらっていたので、ちっともロッククライマーではないが、彼らの非常時の手当ての見よう見まねは出来た。こんなところで活きてこようとは思いもしなかった。勿論下手である。
母は嫌がったが、薬と併用することで眠ることが出来た。しかし父は夜通し4回落下を繰り返し、便との格闘は翌日まで続いた。一睡も出来なかった。
すぐに対応できるように、夜間傾聴用の携帯を持って、サブPCと書籍、手洗い用のバケツに水を入れて、父の寝室の隅に陣取った。ものすごい大便の匂いが充満するが、それは屁。全く詰まって便はかけらも出ない。
翌朝、母が様子を見に上ってきた。おにぎりをつくってくれたのだが、とても食う気になれなかった。
翌朝は10時から訪問介護が入っていた。階段介助をしてくれたKさんが入ってくれたが、この時間帯、母は行きつけの近所のクリニックに肩の調子を見てもらいに出かけていた。テーピングは、きつすぎで押さえるところが間違っていると叱られたらしい。堪忍。
母がいないこの時間に、父が爆発した。便である。ラーメンどんぶり2~3杯もの量の硬い便がベッド上をのたくった。痔が切れて血だらけとなった。これがいけなかった。痔の清拭、薬塗布は医療行為で、介護ヘルパーはやってはいけないのだった。
薬はもらってあったが、私は結局眠ることができず、下着だけになって、暴れる父を押さえ込み、尻の下に作業シーツを挟み込んだ。便が体中に拡がらないようかき集めていった。この部分はヘルパーさんとの共同作業、清拭からはヘルパーさんは父の身体をベッド脇に押さえつける役割となり、清拭し薬を塗ったその直後にまた出残りの血便がでるという、忍耐を要求される作業が続いた。
母がクリニックから帰ってきたとき、すでに訪問介護のヘルパーさんは、すでに入院を勧めて帰ったあとだった。激戦は一応収まり、父は寝息を立てていた。しかし、私は14時から日送りしていた訪問が控えていた。
相模線で乗継ぎ、小田急相模原へ。
携帯が鳴った。母からだった。父がここの小学校の校長を呼べとわめき出したという。父は田舎出である。昔の地域の権力者は、軍人・警察署長・消防署長に学校長・村長・医者という面々である。父は面目をなくすと、権力者を引き合いに出し始める。父権の好きな宗教も権力志向の結果だと思う。またかと思いながら情けなさをかみ締めている。最悪である。郷里の小学校長と自分は同級生というのが父の自慢だった。終戦後、父は高度な専門職についた。しかしなぜか、子どもの頃の権力者が好きなのである。回復の証拠と母に伝え、部屋を高めに暖めて眠らせろと指示し電話を切った。情けない指標である。
ビッグイシューの切換日だったので、サポセンに寄って、事務処理。父の医師に連絡を取り、帰りに医院に寄った。感染症をふせぐために、クラビットを処方してもらった。夕食の買い物を駅南口で済ませバスに乗ったとき、私は若松町のたい焼き屋さんの前まで意識が無かった。立っていたのだから呆れる。荷物を持って眠っている私に席を譲らない乗客にも呆れた。
母に荷物を渡し、とにかく眠った。床にくの字になって爆睡した。
片手の母が冷凍ものの夕食を作っている音で目覚めたが、なんと21時に近かった。父は山盛りの食事を食べ終えていた。
《入手した書籍から》
●「精神障害者の働きたいをかなえる~福祉・企業・行政によるコラボレーション」(コープとうきょう・JHC板橋会)
●「街角のセーフティネット」
夜間傾聴:□□君(仮名)
橋本2君(仮名・途中で堪忍)
(校正2回目済み)
あすなろ会のロッカーの場所が変わってOさんが、整理箱を入れた。ちょっとしたことで、活動が変わる。今回の定例会が良い方向への切換点になってくれればと願うばかりだ。
父が1泊のシュートステイを終えて、14時半に戻ってくるために、訪問も活動の下準備も出かけるわけに行かず、中途半端な時間に拘束されて、昼間がつぶれてしまう。せめて17時半ならば、午前中が活きる。14時半では、それもままならない。
だからあすなろ会のことは、オンライン情報を借用しながら「山谷を歩く」という、8日のガイド資料集を作っていた。「いろは会商店街」「城北労働・福祉センター」「玉姫公園」は最低立ち寄りたい。山谷の一部でしかないが、資料集を作ってみると結構いろいろな情報を得ることができる。ざっと拾って詳細はEさんにバトンタッチする。その作業を早朝からやっていた。
------
父は約束の14時半より20分早く帰ってきてしまった。全く融通の利かない話で、早ければいいというものではない。階段を上げるために、ヘルパーさんが到着するのが14時20分からだったので、14時10分では玄関先に父を車椅子に乗せておかなくてはならない。大したことではないように見えるが、父は帰宅後すぐに排泄をする。糞尿がでれば父はじっとしていない。玄関先が糞尿まみれの戦場になるのだ。この辺の事情が、新しい事業所には通じない。契約では14時半であり、20分早いというのは、ずれ幅が大きすぎると抗議した。送迎担当らしい熟年男性は、不服な表情をあらわにし、次の用が詰まっているように腕時計を見始めた。
他の事業所の送迎はふたりであり、5分前後の時間幅で受け渡しをしてくれる。ところが彼は、ヘルパー引継ぎを知らなかった。つまりただ送り届けることが自分の役割と考えていた。「来るのが14時20分なら、10分位なら待ちましょう」というのだった。ヘルパーさんに引き継ぐという約束の契約違反であるという私の主張は、首を縦に振らなかった。介護サービスの質が低いと感じた瞬間だった。
父は車内で10分ほど待ち、到着した階段介助のヘルパーさん到着と同時に車から降ろされ、彼を通じて口座証明書を手渡すことも、聞いていないと「断って」帰って行った。結局証明書は郵送することにしたのだが、同じ事業所の中でも連携ができていなかった。ある病院系の特養で類似の行き違いがあったとき、先方のケアマネさんが、こちらが連絡したわけでもないのに、担当者と即日謝りにきた。この差は何なのだろう。
父は見慣れた階段介助のヘルパーさんに迎えられた。そのとき父は「いつものところだから、心配しなくても大丈夫だ」と語り、私とヘルパーさんを驚かせた。父には新しいホームも常用しているホームも区別が無いのだ。目の前の老女の食事請求の金切り声も、父の陰部に突然手を突っ込んで、おしめの確認をしたヘルパーも、父は覚えていない。人通りの多い通路の真ん中に、契約終了後父を諌めに行ったとき、そのまま通路に放置されていたことも、父には分かっていない。
日誌には、父は静かで優等生であったとかかれていた。個室に入れば歩き回る。そんな父が優等生であるはずがないのだ。私はこの事業所再利用を考えてしまった。
父を2階に上げようとしたとき、異変が起こった。いつもと同じように手すりとヘルパーさんに捕まったが、両足がわらってしまう。ぶるぶると振動し、萎えてしまうのだった。ヘルパーさんに、排泄のサインかもしれないと警告し、崩れてしまう父を無理に立たせず、崩れたところで転倒を避けることを第一として、手すり側に父を押し付けて、「立ったまま」休ませることにした。一度座ってしまうとなかなか立てないだけでなく、疲れて横たわってしまうからだった。この辺の按配は経験的なもの。相談して、段上の室内入口に椅子を用意した。階段から通路はU字に折れている。「し」の字に移動したところに移動したところに椅子を置いて休ませた。ところが排泄ではなかった。
椅子から歩行器に移動させ、父をベッドまでたどり付かせたが、ベッドを下げてもベッドに移れないのだった。結局介護者ふたりで父を持ち上げてベッドに横たわらせた。ひとりでは体重70kg台の萎えた父を移動するのは出来ない業だった。
原因は日誌を見て想像が付いた。いつもやったことがない体操をホームの退所前にやっていたのだった。
ベッドに戻った父は、軽いいびきをかきながら尿を漏らし始め、へルパーさんは時間延長せざるをえなくなった。今交換した紙パンツを父は寝惚けながら強引に降ろし始め、ベッドの上で放物線の排尿をしてくれた。シーツから衣服まで、全部交換しなおしとなった。しかしこれは前触れに過ぎなかった。
-----
夕食を持っていったとき、父はベッド上で頭の位置が上下逆になっていた。利き手の調子が悪いとき、ベッドに上るときに父は尻の回転が逆になり、体位が上下逆になる、ベッド上では自力で尻の半回転ができない。一度ベッドから降りないと向きが変えられない。
この体位で腹が痛いとうめきだした。便が出たいのだ。父は奥のベッド柵を投げ出して、反対側に降りようとした。そこは押入れと30cmもはなれていない隙間であり、落ちたらベッドを動かさないと父を引き出せない危険箇所だった。この父の異常で、夜の巡回は日送りとなった。枕をむしって投げつけ、花瓶が割れた。TVが倒れそうになり、父の頭の位置を逆にするために、父を抱えようとしたが持ち上がらなかった。ベッドは前傾姿勢で被介護者を抱える。母に毛布を指示し父に巻きつけ背負い投げをかけるように、父を背中に持ち上げた。目の前が真っ暗になった。
こうして父は向きを替えたが。このとき私を補助するつもりで母が父の尻を持ち上げていた。これがいけなかった。母がその夜、肩から下が外れそうに痛いと言い出した。父は便が出たいのでベッドを抜け出しては、ベッド下に落下を繰返した。ふたり分の介護の夜となった。
非常時は訪問看護の看護師さんを呼ぶことになっていた。ところが携帯が切れている。勿論、事務所は留守番電話が出るだけだった。残りの選択肢は救急車である。しかし、父は便が出たいと暴れている、母は肩が痛いでは、救急車にはあてはまらないではないか。
タクシーを呼んだ。痛みを訴える母を父のベッドサイドの見張りに立たせ、私はジャスコの薬局が閉まる直前に、飛び込んで湿布薬と痛み止めを買い込んで、再びタクシーで帰宅した。母には声はかけても、父が落ちても手を出さないこと。すぐに私に電話連絡することと確認していたが、ふたりとも帰宅時、寝息をたてていた。ほっとすると同時に、翌日は対策を打たなければならなかった。
母の肩の脱臼が起きていないかを確認し、湿布し買ってきたテープを使ってテーピングした。昔、私は鍾乳洞探査に同行していた。私は荷物のように竪穴の上げ下ろしをしてもらっていたので、ちっともロッククライマーではないが、彼らの非常時の手当ての見よう見まねは出来た。こんなところで活きてこようとは思いもしなかった。勿論下手である。
母は嫌がったが、薬と併用することで眠ることが出来た。しかし父は夜通し4回落下を繰り返し、便との格闘は翌日まで続いた。一睡も出来なかった。
すぐに対応できるように、夜間傾聴用の携帯を持って、サブPCと書籍、手洗い用のバケツに水を入れて、父の寝室の隅に陣取った。ものすごい大便の匂いが充満するが、それは屁。全く詰まって便はかけらも出ない。
翌朝、母が様子を見に上ってきた。おにぎりをつくってくれたのだが、とても食う気になれなかった。
翌朝は10時から訪問介護が入っていた。階段介助をしてくれたKさんが入ってくれたが、この時間帯、母は行きつけの近所のクリニックに肩の調子を見てもらいに出かけていた。テーピングは、きつすぎで押さえるところが間違っていると叱られたらしい。堪忍。
母がいないこの時間に、父が爆発した。便である。ラーメンどんぶり2~3杯もの量の硬い便がベッド上をのたくった。痔が切れて血だらけとなった。これがいけなかった。痔の清拭、薬塗布は医療行為で、介護ヘルパーはやってはいけないのだった。
薬はもらってあったが、私は結局眠ることができず、下着だけになって、暴れる父を押さえ込み、尻の下に作業シーツを挟み込んだ。便が体中に拡がらないようかき集めていった。この部分はヘルパーさんとの共同作業、清拭からはヘルパーさんは父の身体をベッド脇に押さえつける役割となり、清拭し薬を塗ったその直後にまた出残りの血便がでるという、忍耐を要求される作業が続いた。
母がクリニックから帰ってきたとき、すでに訪問介護のヘルパーさんは、すでに入院を勧めて帰ったあとだった。激戦は一応収まり、父は寝息を立てていた。しかし、私は14時から日送りしていた訪問が控えていた。
相模線で乗継ぎ、小田急相模原へ。
携帯が鳴った。母からだった。父がここの小学校の校長を呼べとわめき出したという。父は田舎出である。昔の地域の権力者は、軍人・警察署長・消防署長に学校長・村長・医者という面々である。父は面目をなくすと、権力者を引き合いに出し始める。父権の好きな宗教も権力志向の結果だと思う。またかと思いながら情けなさをかみ締めている。最悪である。郷里の小学校長と自分は同級生というのが父の自慢だった。終戦後、父は高度な専門職についた。しかしなぜか、子どもの頃の権力者が好きなのである。回復の証拠と母に伝え、部屋を高めに暖めて眠らせろと指示し電話を切った。情けない指標である。
ビッグイシューの切換日だったので、サポセンに寄って、事務処理。父の医師に連絡を取り、帰りに医院に寄った。感染症をふせぐために、クラビットを処方してもらった。夕食の買い物を駅南口で済ませバスに乗ったとき、私は若松町のたい焼き屋さんの前まで意識が無かった。立っていたのだから呆れる。荷物を持って眠っている私に席を譲らない乗客にも呆れた。
母に荷物を渡し、とにかく眠った。床にくの字になって爆睡した。
片手の母が冷凍ものの夕食を作っている音で目覚めたが、なんと21時に近かった。父は山盛りの食事を食べ終えていた。
《入手した書籍から》
●「精神障害者の働きたいをかなえる~福祉・企業・行政によるコラボレーション」(コープとうきょう・JHC板橋会)
●「街角のセーフティネット」
夜間傾聴:□□君(仮名)
橋本2君(仮名・途中で堪忍)
(校正2回目済み)