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湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

4/1 排便周期の戦場をくぐって/書籍案内

2010-04-05 05:34:17 | 引きこもり
2010/04/01 記

あすなろ会のロッカーの場所が変わってOさんが、整理箱を入れた。ちょっとしたことで、活動が変わる。今回の定例会が良い方向への切換点になってくれればと願うばかりだ。

父が1泊のシュートステイを終えて、14時半に戻ってくるために、訪問も活動の下準備も出かけるわけに行かず、中途半端な時間に拘束されて、昼間がつぶれてしまう。せめて17時半ならば、午前中が活きる。14時半では、それもままならない。

だからあすなろ会のことは、オンライン情報を借用しながら「山谷を歩く」という、8日のガイド資料集を作っていた。「いろは会商店街」「城北労働・福祉センター」「玉姫公園」は最低立ち寄りたい。山谷の一部でしかないが、資料集を作ってみると結構いろいろな情報を得ることができる。ざっと拾って詳細はEさんにバトンタッチする。その作業を早朝からやっていた。

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父は約束の14時半より20分早く帰ってきてしまった。全く融通の利かない話で、早ければいいというものではない。階段を上げるために、ヘルパーさんが到着するのが14時20分からだったので、14時10分では玄関先に父を車椅子に乗せておかなくてはならない。大したことではないように見えるが、父は帰宅後すぐに排泄をする。糞尿がでれば父はじっとしていない。玄関先が糞尿まみれの戦場になるのだ。この辺の事情が、新しい事業所には通じない。契約では14時半であり、20分早いというのは、ずれ幅が大きすぎると抗議した。送迎担当らしい熟年男性は、不服な表情をあらわにし、次の用が詰まっているように腕時計を見始めた。

他の事業所の送迎はふたりであり、5分前後の時間幅で受け渡しをしてくれる。ところが彼は、ヘルパー引継ぎを知らなかった。つまりただ送り届けることが自分の役割と考えていた。「来るのが14時20分なら、10分位なら待ちましょう」というのだった。ヘルパーさんに引き継ぐという約束の契約違反であるという私の主張は、首を縦に振らなかった。介護サービスの質が低いと感じた瞬間だった。

父は車内で10分ほど待ち、到着した階段介助のヘルパーさん到着と同時に車から降ろされ、彼を通じて口座証明書を手渡すことも、聞いていないと「断って」帰って行った。結局証明書は郵送することにしたのだが、同じ事業所の中でも連携ができていなかった。ある病院系の特養で類似の行き違いがあったとき、先方のケアマネさんが、こちらが連絡したわけでもないのに、担当者と即日謝りにきた。この差は何なのだろう。

父は見慣れた階段介助のヘルパーさんに迎えられた。そのとき父は「いつものところだから、心配しなくても大丈夫だ」と語り、私とヘルパーさんを驚かせた。父には新しいホームも常用しているホームも区別が無いのだ。目の前の老女の食事請求の金切り声も、父の陰部に突然手を突っ込んで、おしめの確認をしたヘルパーも、父は覚えていない。人通りの多い通路の真ん中に、契約終了後父を諌めに行ったとき、そのまま通路に放置されていたことも、父には分かっていない。

日誌には、父は静かで優等生であったとかかれていた。個室に入れば歩き回る。そんな父が優等生であるはずがないのだ。私はこの事業所再利用を考えてしまった。

父を2階に上げようとしたとき、異変が起こった。いつもと同じように手すりとヘルパーさんに捕まったが、両足がわらってしまう。ぶるぶると振動し、萎えてしまうのだった。ヘルパーさんに、排泄のサインかもしれないと警告し、崩れてしまう父を無理に立たせず、崩れたところで転倒を避けることを第一として、手すり側に父を押し付けて、「立ったまま」休ませることにした。一度座ってしまうとなかなか立てないだけでなく、疲れて横たわってしまうからだった。この辺の按配は経験的なもの。相談して、段上の室内入口に椅子を用意した。階段から通路はU字に折れている。「し」の字に移動したところに移動したところに椅子を置いて休ませた。ところが排泄ではなかった。

椅子から歩行器に移動させ、父をベッドまでたどり付かせたが、ベッドを下げてもベッドに移れないのだった。結局介護者ふたりで父を持ち上げてベッドに横たわらせた。ひとりでは体重70kg台の萎えた父を移動するのは出来ない業だった。

原因は日誌を見て想像が付いた。いつもやったことがない体操をホームの退所前にやっていたのだった。

ベッドに戻った父は、軽いいびきをかきながら尿を漏らし始め、へルパーさんは時間延長せざるをえなくなった。今交換した紙パンツを父は寝惚けながら強引に降ろし始め、ベッドの上で放物線の排尿をしてくれた。シーツから衣服まで、全部交換しなおしとなった。しかしこれは前触れに過ぎなかった。

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夕食を持っていったとき、父はベッド上で頭の位置が上下逆になっていた。利き手の調子が悪いとき、ベッドに上るときに父は尻の回転が逆になり、体位が上下逆になる、ベッド上では自力で尻の半回転ができない。一度ベッドから降りないと向きが変えられない。

この体位で腹が痛いとうめきだした。便が出たいのだ。父は奥のベッド柵を投げ出して、反対側に降りようとした。そこは押入れと30cmもはなれていない隙間であり、落ちたらベッドを動かさないと父を引き出せない危険箇所だった。この父の異常で、夜の巡回は日送りとなった。枕をむしって投げつけ、花瓶が割れた。TVが倒れそうになり、父の頭の位置を逆にするために、父を抱えようとしたが持ち上がらなかった。ベッドは前傾姿勢で被介護者を抱える。母に毛布を指示し父に巻きつけ背負い投げをかけるように、父を背中に持ち上げた。目の前が真っ暗になった。

こうして父は向きを替えたが。このとき私を補助するつもりで母が父の尻を持ち上げていた。これがいけなかった。母がその夜、肩から下が外れそうに痛いと言い出した。父は便が出たいのでベッドを抜け出しては、ベッド下に落下を繰返した。ふたり分の介護の夜となった。

非常時は訪問看護の看護師さんを呼ぶことになっていた。ところが携帯が切れている。勿論、事務所は留守番電話が出るだけだった。残りの選択肢は救急車である。しかし、父は便が出たいと暴れている、母は肩が痛いでは、救急車にはあてはまらないではないか。

タクシーを呼んだ。痛みを訴える母を父のベッドサイドの見張りに立たせ、私はジャスコの薬局が閉まる直前に、飛び込んで湿布薬と痛み止めを買い込んで、再びタクシーで帰宅した。母には声はかけても、父が落ちても手を出さないこと。すぐに私に電話連絡することと確認していたが、ふたりとも帰宅時、寝息をたてていた。ほっとすると同時に、翌日は対策を打たなければならなかった。

母の肩の脱臼が起きていないかを確認し、湿布し買ってきたテープを使ってテーピングした。昔、私は鍾乳洞探査に同行していた。私は荷物のように竪穴の上げ下ろしをしてもらっていたので、ちっともロッククライマーではないが、彼らの非常時の手当ての見よう見まねは出来た。こんなところで活きてこようとは思いもしなかった。勿論下手である。

母は嫌がったが、薬と併用することで眠ることが出来た。しかし父は夜通し4回落下を繰り返し、便との格闘は翌日まで続いた。一睡も出来なかった。

すぐに対応できるように、夜間傾聴用の携帯を持って、サブPCと書籍、手洗い用のバケツに水を入れて、父の寝室の隅に陣取った。ものすごい大便の匂いが充満するが、それは屁。全く詰まって便はかけらも出ない。

翌朝、母が様子を見に上ってきた。おにぎりをつくってくれたのだが、とても食う気になれなかった。

翌朝は10時から訪問介護が入っていた。階段介助をしてくれたKさんが入ってくれたが、この時間帯、母は行きつけの近所のクリニックに肩の調子を見てもらいに出かけていた。テーピングは、きつすぎで押さえるところが間違っていると叱られたらしい。堪忍。

母がいないこの時間に、父が爆発した。便である。ラーメンどんぶり2~3杯もの量の硬い便がベッド上をのたくった。痔が切れて血だらけとなった。これがいけなかった。痔の清拭、薬塗布は医療行為で、介護ヘルパーはやってはいけないのだった。

薬はもらってあったが、私は結局眠ることができず、下着だけになって、暴れる父を押さえ込み、尻の下に作業シーツを挟み込んだ。便が体中に拡がらないようかき集めていった。この部分はヘルパーさんとの共同作業、清拭からはヘルパーさんは父の身体をベッド脇に押さえつける役割となり、清拭し薬を塗ったその直後にまた出残りの血便がでるという、忍耐を要求される作業が続いた。

母がクリニックから帰ってきたとき、すでに訪問介護のヘルパーさんは、すでに入院を勧めて帰ったあとだった。激戦は一応収まり、父は寝息を立てていた。しかし、私は14時から日送りしていた訪問が控えていた。

相模線で乗継ぎ、小田急相模原へ。

携帯が鳴った。母からだった。父がここの小学校の校長を呼べとわめき出したという。父は田舎出である。昔の地域の権力者は、軍人・警察署長・消防署長に学校長・村長・医者という面々である。父は面目をなくすと、権力者を引き合いに出し始める。父権の好きな宗教も権力志向の結果だと思う。またかと思いながら情けなさをかみ締めている。最悪である。郷里の小学校長と自分は同級生というのが父の自慢だった。終戦後、父は高度な専門職についた。しかしなぜか、子どもの頃の権力者が好きなのである。回復の証拠と母に伝え、部屋を高めに暖めて眠らせろと指示し電話を切った。情けない指標である。

ビッグイシューの切換日だったので、サポセンに寄って、事務処理。父の医師に連絡を取り、帰りに医院に寄った。感染症をふせぐために、クラビットを処方してもらった。夕食の買い物を駅南口で済ませバスに乗ったとき、私は若松町のたい焼き屋さんの前まで意識が無かった。立っていたのだから呆れる。荷物を持って眠っている私に席を譲らない乗客にも呆れた。

母に荷物を渡し、とにかく眠った。床にくの字になって爆睡した。

片手の母が冷凍ものの夕食を作っている音で目覚めたが、なんと21時に近かった。父は山盛りの食事を食べ終えていた。

《入手した書籍から》
●「精神障害者の働きたいをかなえる~福祉・企業・行政によるコラボレーション」(コープとうきょう・JHC板橋会)
●「街角のセーフティネット」

夜間傾聴:□□君(仮名)
     橋本2君(仮名・途中で堪忍)

(校正2回目済み)

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3/31小谷の特養訪問/湘南あすなろ会の定例会で<書きこみ遅れすみません

2010-04-04 12:22:38 | 引きこもり
2010/03/31 記

父のホーム入所先を拡げるために、テスト入所を始めた。今回は、小谷(こやと)にある、某特養に父が1泊する。その車に同乗して施設の様子を見学しながら、今回の利用契約をしてきた。

小谷は原付に乗っていた頃、御所見に抜ける道沿いに通過したことがあっただけだから、もう10年もここを通っていなかった。ところが事務所が一軒改装された以外、通りに変化が無いように見えるのは、逆に驚きでもあった。バス停に寒川町のコミュニティバスの停留所が出来ていたが。とにかく不便。1時間に1本のバスと、寒川循環が1時間に2本ほどのところなので、実際は車がないと通いにくい。今回もホームに父を預けての帰りは、コミュニティバス40分待ち、茅ヶ崎駅行が15分待ちの状態で、バスは5分遅れて終点「小谷」で折り返して20分待たされて乗車したという具合。

ホームの車で施設まで移動は約30分。岡田交差点の混雑を避けるために路地を抜けていくので、土地勘のない父には、どこを走っているかわからなかっただろう。父は持ち込みの車椅子に乗せられて、食堂の入口で待機させられた。このとき膝がふれあいそうな体面状態で70代の女性が大声を出した。金切り声である。

「まだ朝ご飯たべてないよぉ!」

父の右隣の80代(?)の男性は人通りの中、この大声を浴びながら、上を向いてぐっすりと眠っていた。腰の曲がった80代の白髪の老女が父の背後をうろうろと歩き回り、その度に父の車椅子の取っ手をいじるので、父はものすごい形相となった。あと数分で爆発するだろう。その直前に看護師が体調チェックに入ったのは幸いだった。

父は以前他のホームの4人部屋で、入室して15分も立たないうちに、同室の男性と口論を起こした。その経験をホーム職員に伝えてあった関係で、父は個室に誘導された。その場では黙っていたが、私は介護体験が否応無く長く関わってきた関係で、何事かあった部屋はすぐに分かるのだ。トイレにかかったカーテンの金具や、手すりのカバーの割れなど、ここは開所6~7年目の施設だが、部屋や通路に、他の施設よりむき出しの「歴戦」の跡を見てしまった。

父は見慣れない職員に戸惑っていた。父を諭して父を預け、私は1階の面談室で今回の利用契約を交わしていた。私もつまらない記入ミスを重ねていた。私もよく見えていないこともあるが、書式が練れていないのだ。

訂正印だらけのほうの契約書は私の控えに、間違わずに済んだ方が、正副2通の正の側として事業所側にと分けられているので、平然としている職員の顔を見てしまった。そう、確定申告のときの税務署員の態度と同質の顔である。

食堂と2階を一巡させてもらったが、明らかに今までのホームと様子が違っていた。全体の間取りが小さいこともあるが、利用者が地元の農家・園芸業関連の家の方が圧倒的と思われた。今までのところは、半分が地元自営業、半分が給与所得の家庭の方というような混在したところが多かった。ここは長く滞在しているとじわりと見えにくい形で深い問題になってくるところだ。地元の方は若いときからお互いを知っている。ところがその経験の前提がないものには、話の省略されている部分が見えなかったり、仲間とよそ者という壁ができたりと、確かに特養では際立ちにくい話ではあるが、なんとなく仲間はずれという疎外感が生まれてくる。それは普段の共通の話題の差にもなってくる。一本松のなんとかちゃんを父は知らないからだ。

トイレのカーテンの開く方向ひとつにも意味が込められている。おそらくそのひとつは固定側が壊れたのだろう、反対側が固定されていた。半身麻痺のある方は開ける方向に融通が利かない。半身をひねって開閉すれば不安定になる。だから入所者の方に応じるのなら、それは緻密な仕掛けを準備した職員さんの優れた配慮なのだが、むしろ固定側の傷みが原因のようだった。

ポータブルトイレの周辺にはティシュペーパーを置かないとか、職員用であっても室内トイレにはスリッパを置かないとかいう経験的な配慮が見学時の判断の基準になる。職員の熟練と目利きを判断できるからだ。ひとは自由に行動しているようで、実は背後に自由を支えている人為環境が隠れている。

ティッシュペーパーは繊維が長い。ポータブルトイレの汚物をトイレに流すとき、管を詰まらせるもととなる。トイレットペーパーのロール紙や、掃除用には、見た目がわるいが昔の浅草紙(新聞古紙再生紙)がいい。

またスリッパは、利用者さんがベッド下まで履いたまま出てくる可能性がある。次にベッドから出るときに、つま先位置が逆になっていたり、効き側と反対向きに置いてある混乱も手伝って、滑って事故につながりやすいのだ。

これらは介護職の経験と技能の中に埋め込まれている。人間関係の緩衝材的な関与もそうだが、私への接待は非常に親切ではあったが、表立たない部分に不安を感じつつ玄関を出た。帰りに寒川に立ち寄れれば、寒川神社が経営する老健に寄ってくるつもりだったが、コミュニティバスが40分待ちではと諦めた。

タクシーの通らないバスの終点で、20分、なぜ畑の脇に何箇所も飲料の自動販売機があるのかと、余計なことを考えながら環境保護活動の偏りをつぶやいていた。何のことは無い、ただ突っ立っている奇妙な孤立感を紛らわしていたのだ。

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この日、時間のゆとりを使ってジャスコで買い物を済ませ、湘南あすなろ会の定例会前に山谷の資料集と、ビデオ「輝く未来へ」解説のジョブコーチ宛ての要請状を書き上げたかった。

ところが再びサポチガのPC本体の問題が足をひっぱってしまった。ワードにウェブブラウザから画面コピーをしようとしたり、画像編集しながら、ウェブ画面を検索しようとすると、ハングアップまではいかないが、200kB程度の画像でさえ、ダウンロードに5分もかかる。本体メモリーが全く増設されていないのだ。デスクトップの1台を除いて、貸し出し用PCは全く実用にならない。予測が甘かった。結局、山谷の説明用地図資料一枚仕上げて終わってしまった。サポセンはプリントアウトと印刷、帳合以外は役に立たない。困ったものだ。

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湘南あすなろ会定例会出席者は、Tさん、Eさん、支援者のOさんと私の四人。

今回の話は、あすなろ会の存在意義を再確立するためにも、ビッグイシュー販売の活動を軸にしながらも、地元野宿者の方への関わりや、活動のネットを確立していくことも含めて、行政懇談会を企画しようという話になった。

前回、Tさんが欠席していたので、始めは事務的な確認。

そこから、この間の販売をめぐるトラブルについて、フリートーク。ビッグイシューが当人の経済的自立を目指しているが、本当に必要な活動は別にあり、それが生活支援であるという論が、本当に対立して論じられる話なのかということになった。私たちは昨年の秋の終わりから、緊急連絡先ガイド(路上脱出ガイド)作りを提唱していながら、現在に至っているその展開力の弱さは何なのだろうかと話が出たが、本来やるべきところで当事者のバネが効いていない現状がある。病気の同僚の病院の付き添いや、生活保護申請への付き添いなどの生活支援は、逆に支援者の現状からは、なかなか活動拡張できない。しかしそれも、段階を踏んで活動力を膨らませていく以外に方法が無い。その間は各自の活動としてやってもらう以外はないが、やれることもあると次のことを提案した。

1)緊急連絡カード作りと配布
   茅ヶ崎は定住者が多い。しかし、不況下新参者も出てきているので、湘南を見据えて、基本的な情報をカード化して配布していく。(前々回は、識字率が低いという指摘があったので、カードガイド者も掲載。)

2)8日東京の関係者見学交流会実施
   東京ボラセン立ち寄りから、山谷見学へ(雨天中止)

3)茅ヶ崎市新設課、生活支援課との懇談会企画実施(ネット第二弾企画へ)
   共通提案>カード作り

4)生活支援課へのご挨拶>MLにて

5)便り4月号>見学会報告&懇談会提案

私は活動の混乱や、会員対立には会の明確な見通しが霞んでくるときに際立つと思っている。だからその骨格的な部分を押さえることを心がけている。やっと次への解決の兆しが生まれつつあるように思う。

この会議で以下の新聞記事情報を提供した。読んでいる方が少なかったようなので以下にしめす。URL閉鎖していませんように。

共同通信の配信分は閉じていた。自治体関係課に依頼して、目視で年明けに人数を確認していた。その結果が出たのだ。この数字が実態を表しているのかどうかは怪しい。ここには派遣切りや、ネットカフェ・簡易宿泊所などで取り合えず野宿をまぬがれている方は反映していない。野宿・野営者の通過調査である。各記事、それぞれコメントを載せている。視点差が面白いのだが、著作権もあるので、URL喪失した記事は載せられないので御容赦を。

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●「ホームレス、全国で1万3000人=減少幅は過去最大-厚労省調査」
●「全国のホームレス、2600人減も1万3124人 厚労省の10年1月調査」
●「県内ホームレス確認数は1814人、前年比10人増/神奈川」



夜間傾聴:□□君(仮名・こちらから)


(校正1回目済み)

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まりもさんへ/春期講習が終わり…/山谷を歩いてきました 3/30

2010-04-02 08:08:31 | 引きこもり
まりもさん、お久しぶりです。憂鬱ブログ見てくださったんですか、ありがとうございます。

さて、私のところへ問い合わせしてくださった方は、実はお名前や連絡先も伺っていないのです。呆れたと思われるのが当然とは思いますが、引きこもりの方や、広汎性発達障がい関連の方への活動は、自分の手がけてきた活動を休止して続けてきた若松町ショップから中途で降りた関係もあって、又浦島さん状態というか、木阿弥に魂を入れる活動から再出発する状態に戻っています。

ここに従来の不登校・引きこもり者支援活動を期待した方がいらしても、今、作ろうとしている活動が直感的に目的が見える活動ではないので、期待に応えることは無理です。ましてや、この活動が自分から作っていくことが要求されるので、これから活動を手伝おうとする方には重すぎると思います。

そんなことで、せっかくお尋ねいただいたのに、きっと面食らったと思いましたが、よりすっきりとフリースクールを作ろうとしている方などの方が合っていると思い、仲介をサポセンにお願いする形で、案内させてもらいました。

私の活動は境界線に立つ横断的な交流活動です。ここを立ち上げるのは結局は私がやらなければならないのです。動き出せば、そのあとに当事者活動(本人活動)が立ち上げればいいと思っています。

一昨日も、実は年何回か問い合わせてくださっている方から、問い合わせの連絡がありました。若松町ショップのたい焼き屋さんをご存じなかったので、まずお客さんとして覗いてみてはいかがと紹介しました。

ところが昨日、たい焼き屋さんの隣の小箱ショップのMさんの話を伺ったところ、たい焼き屋さんへの採用問い合わせが殺到していて、困っているとのこと。事実、私がサポセンで目にした光景も、そんな方のひとりのお母さんが、熱心に仲介を頼んでいる場面でした。これは私も紹介をまちがえたかなと迷っているところです。私に連絡を下さった方も、私の活動になかなかあてはまりません。

親御さんが仲介に入っての話ですが、「わーく」画像放送の方は、取材が対人交渉があるので苦手ということと、親御さんともども、活動自身のイメージが湧かないということが二の足を踏む理由でした。画像放送&就労関連コメント誌の両方とも、活動の中にはいろいろな仕事があるのですが、この方も編集部が動き出さないと、役割を掴む事が難しそうです。

このように、仕事も支援活動も、参加を求めてくる方には、「まずそのものを見せてよ」というところがあります。「参加して慣らしていって」というところが次にあります。この両者とも、これから立ち上げの活動には、互いに条件不足となります。だからご指摘の件、確かに気持ち動くところですが、実際は、障がいや、教育、地域コミュニティ、放送技術等に関心のある、かつ他の活動経験のある方の合流からしか始まってこないのです、無念ですが。

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2010/03/31 記

私の担当分の春期講習が終わった。今年は大きなトラブルが少なかったかわりに、訪問時の空転が目立った。この方は普段私の担当ではない東京寄りの地域の方なので、サポートの引継ぎがこじれている。夜間訪問の際、私の場合は、帰路の終バスが出てしまうという通勤事情。 しかし、交通事情のみなので、内容のもつれではない分、調整は楽とも言える。

講習期間中は、講習や訪問の合間に、積み将棋というか地雷のような父の呼び出し、その地雷を踏まないように、冷や汗をかいていた。

しかしそうとは言え30日は、講習前、ある講演会に顔を出していた。それは言語聴覚士の方の講演会だった。講師は軽度発達障がい系の当事者でもあり、自己検証の形で、療育効果をたどりなおすというテーマだった。主催が民間障がい者就労支援コンサルタント会社のものだったので、当たりはずれがあるかなと思って出かけたが、みごとにはずれだった。

自分の親御さんの子育ての方針とエピソード、現在のご夫妻の様子の紹介などが雑談思い出話風に話されただけ。

参加者は皆若く、スーツ姿で同系色(ブルー&グレー)で十名ほど、年齢も揃っている。これは「桜」さんかなと思いつつ、私を入れて残りの3名ほどの年配者のうち1名もどうやら常連さんか関係者という具合で、私のジョブコーチ的な講演者探しの裏目的は全く的外れに終わったのだった。

講演者が言語聴覚士なので、Q&A時の質問に臨床心理士の立場を求めるのはどうかと思ったのだが、その方の講演内容の思い出話が、親御さんによる生活習慣付けとして、スケジュール管理や、生活空間の整理整頓などが徹底されていたという生活全般だったことから、職種の枠をはずして問いかけたのだった。

しかし、講演内容は軽度発達障がいを意識した方法ではなく、「療育」という以上、治療課題を持った意識的な活動があり、その検証であるはず。子育て一般の昔話では検証にならないのだ。だからテーマと講演内容が違っているのだ。

しかも「躾(しつけ)」という子育ての方法が、ある一定の生活水準を前提にした安定環境からの提言に終始しており、ゆとりの無い家庭環境の者には、上位環境にある自己表現に過ぎないという意味で、抑圧的だった。特定の社会階層から、付き合いが出たことが無いような発言の無自覚さを感じるので、質問が言語聴覚士の範囲外だが、そこを婉曲に質問した。

例えば私が以前巡回した家庭は、親御さんが互いに連れ子の形で再婚し、彼の生活環境は、年齢の離れた幼い子が部屋を走り回り、要介護2の祖母がTVを抱えて、耳の遠い分大きな音をたてて隣部屋にいた。2LDK5人の生活環境だった。これは私の訪問先では特殊な例ではない。

この環境で整理整頓とかスケジュール行動をという子育て指導が、如何に的外れで難しいことであるかを、彼を担当した心理カウンセラー達は、今回の講師と同じように生活を想像できなかった。

彼の苛立ちと家庭脱出を強く感じさせる諸問題は、単純にピュアな発達障がいの特性と思春期像から説明されていた。

彼の問題は、学校では子育ての失敗として語られた。彼の取りつく間すら与えない「常識」に満ちたこれらの語り口、レッテル貼り風の語りは、家庭訪問して家族と話をしてみれば、如何に非現実的なものであるかは一目瞭然だというのに。

当事者が苦渋に満ちたアピールをしているときにさえ、安定標準型家族モデルに語りを照らし合せようとするカウンセラー。ここに社会階層の抑圧支配を私は感じている。当事者との連携は、例え彼がいまだ非行や暴力から脱していなくても、彼本人の現実からしか始まらないことは、それこそ臨床の出発点だろう。

彼の脳裏、心理現象の歪みに原因を収束させる人間関係と社会環境回避の言説も、その背後には、当たり前・普通の家族像の基準という支配が潜んでいる。

会場アンケートに、「今後の連絡は、いらない」という方にチェック印を入れて「鴨」にされないうちに会場を去った。

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帰りに訪問までにまだ時間があったので、三ノ輪に出た。8日の湘南あすなろ会の「あうん」「舫(もやい)こもれび荘」の見学交流会の下見のつもりだった。

今回は明治通り沿いに山谷のドヤ街まで歩いた。泪橋(なみだばし)まで徒歩15分の道のりだった。

「あうん」訪問が15時から、「舫」訪問が19時からで、間があった。当初、まずは「舫」のある飯田橋に出て、駅ビルの東京ボラセン訪問や夕食で、間を埋めるつもりでいたのだが、忙しいが、夕方の山谷散策と夕食ですごした方が、実があるだろうという判断だった。

しかし、夕食の時間と飯田橋までの移動時間を取り去ると、それほど時間は残っていなかった。泪橋の手前、日本堤一・二丁目辺りあたりから見ていくことにした。

三ノ輪駅から歩くと、始めは町工場と零細企業の古い事務所が続いているが、裏通りが段々変わっていく。スナックやバー、立ち飲み酒屋がちらほらと見え出し、馬刺しの店が見えてくる。昔の記憶をたどって「いろは会商店会」のアーケードを見つけた。とにかくひとがうろついていた印象があった。しかし二十年も立って、ここにきてみるとシャッター通りにまばらにホームレスの路上の酒宴と、古い自転車が目立つ。ここは山谷の生活の顔。簡易宿泊所の密集する地域に隣接した山谷のロビーのひとつでもある。

私は日が暮れないうちに千束方向に脱線した。旧吉原の赤線地帯、まだ店を開けたばかりの歓楽街を抜けた。左右あらゆるところから、客引きに声をかけられる。私が見たかったのは、危ない裏通り。しかし昔のように食べ物でつながったホームレスの物乞いの姿はない。見逃してしまいそうな吉原大門の見返り柳の近くで縄跳びをしている女の子ふたりが、もうもうと煙草の煙の塊になっているホームレスの中年男性とふざけていて、それを通りの反対側から婆さまが腕組みして、微笑を浮かべて見守っている。山谷の日雇い労働者やホームレスは手ぶらだ。簡易宿泊所や、路上の根城に荷物は置いてある。定住者なのだ。

日本堤署の出動準備に慌しいパトカーは、歓楽街や商店会入口に、これ見よがしに路上停車して街を威圧する。その交代時間、これからが本番の時間。東浅草二丁目の交差点の向こうに玉姫公園があるが、ここで左折して南千住駅方向に歩き出した。ここから「城北労働・福祉センター」に立ち寄り、そのまま泪橋交差点を渡って南千住駅に出た。今回は玉姫公園、清川方向は時間切れで回れなかったが、当日は玉姫公園に立ち寄る。山谷マンモス交番を見るかはわからないが、ざっと一角を見て回れるだろう。この地区は江戸時代の溜、と重なっている。その歴史の目からは皮革産業の町工場や南千住の延命寺などを見て論議してもいいが、今回はざっと寄せ場山谷を感じ取ればいいと思っている。

南千住から上野乗換えで秋葉原に出て、総武線で飯田橋に出れば、周遊切符ならただだと、交通費勘定しながら、今回の巡回を終えた。


夜間傾聴:******君(仮名)
     大和君(仮名・初、今回のみ、中学生)


P.S. 画像は「泪橋交差点」「皮革サンダル業労組を撮ろうとしたら注意された>説明して企画に賛同を得た」


(校正2回目済み)
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