湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

7/2 所属の論理の境界に立つこと

2016-07-03 05:39:44 | 地震津波災害ボランティア

2016/07/02 記
-------------
橋本からの帰り、サポセンに寄る。「わーくNo.065」の配布。ビッグイシュー誌配達。金曜災害ミニカフェ7月分ポスター掲示依頼。

古いサポチガの会員と出会い、話す。驚くほどに、災害ボランティア活動について、経過が伝わっていない。既に5年余、何も変わっていない。もし首都直下型地震があったとき、東・南海トラフ地震の余波があったとき、被災下の茅ヶ崎では、社協・ボラセンは、外部支援団体の受け入れの結節点となる。市民と行政の仲介者に立つ。そのとき、サポセンは「市民自治推進課」の管轄下なので、何もせずに休業するのか。全く在来NPOのネットワークをボラセンに委ねて、休眠するのか。そういう論議が全く出てこない。語れども宙に消えて行く。

土日は新顔の担当者が窓口にいて、経過を知らない。いまさらと思いつつ、飲み込んでセンターを出た。

-------

母の友人が千葉の某村落に移住している。10年ほど前に、事情があって茅ヶ崎の土地を売って移り住んだ。鬱陶しい人間関係に疲れて、田舎でのんびりしたかったとのこと。100人たらずの小さな集落で、落花生と野菜畑が広がっているという。

その方が、茅ヶ崎に菩提寺があるとのことで、数年前から、時々茅ヶ崎に出没するようになった。その際、我が家に連絡があり、話をしていくのだが、「田舎暮らしがのんびり」などとんでもないと語って帰る。村落の大半が同じ寺の檀家にあたり、遠い血縁じゃないのかなと、某宗教団体の名前を聞かされた。

知らない人の結婚式・葬儀・病気見舞い・出産祝、小中学校行事支援、驚くことに有名大学入学祝まで、集落の自治会の回覧板がまわってきて、寄付を要求されるという。毎月「結(yui)」があり、公民館に行こうと迎えが来るという。初めはその宗教団体に入らないときは、「よそ者」として、口も利いてもらえなかったとか。10年余経っているが,事ある度に「よそ者だから」といわれ、週に一度はなんらかの冠婚葬祭に巻き込まれており、茅ヶ崎にでかければ、何日にでかけたかを村落の全員が知っていて、趣味で余生を過ごすことも、来客で中断することも多いのだという。「田舎でのんびり」っていうのは嘘だと、この方は愚痴って帰る。

問題は、この村落の絆の内側にいる方には、この絆を当たり前のこととして感じており、その所属の論理で自由を語る。こういうことは、私には地縁・血縁だけではないと感じる。所属の論理は、組織や会社にも潜んでいる。公共性の強い組織にしても、組織の論理は語るが自分が消える。その物陰に個人の意思が潜んでいる。しかし眼差しは絆集団を遵守することしか考えない。それが政党の純潔の論理に結びついたり、プロ・スポーツのファンの身勝手の論理に結びつけば、いじめの土壌と紙一重だと思う。

引きこもりや、障がいの話が地方からなかなか聞こえてこないのは、このご近所の恥の論理に押さえ込まれていることが多い。個人に特別な事情が生じたりすると、負の力が包み込んでしまう。

ローカルな方と会話したとき、こういうことに気がついたことはないか。「『○○ちゃん』が、娘さんが帰って来て、おみやげおすそ分けしてくれたのよ」というような話方だ。「○○ちゃん」を私は知らない。

私は実況中継型の語りというのだが、私の知らない相手との会話を主語なしで、ことこまかに再現する語りだ。あなたは追憶の中に見えることを語っているが、私はそっちのけ。あたかも登場人物は、知っているのが当たり前のように語るが、私にはよそ事でしかないという頭が痛くなる語りだ。オノマトペだらけだし、ΔΔ屋の角は急だからといわれても、ΔΔ屋自身をしらない。

実はこの語りは、前述の村落共同体のなかに、常に相手はわかっているものという前提があって、話のサーフィンをやっている。所属するものは、その境界が見えていない。

この方は同化の道を選び、こけつつ忍耐の彼方に理解の出口がひろがっていると信じている。今の私のように、視野が危機にさらされている者が、天文フアンから星を指差されても、美しさの同意を求められても困るだろう。同化の道が歩めるだろうか。ことによりけりだと思うのだが。

この方が昨日から茅ヶ崎に泊まっており、今日、その方と会ってきた。茅ヶ崎駅南口駅前の濱田屋さんが狭くなったと驚いていた。母が現れるまでのつなぎ役をやっていたのだが、天涯孤独。死んだら茅ヶ崎の菩提寺の墓、支えられないから、永代供養してもらおうかな、でも、お金が無いし…と、告白された。

話を聴いていて、私は全然別のことを考えていた。看護師さんとか、ソーシャルワーカーさんというような、その仕事自体が公共性を持っている方は、その職業を全うすることで、社会参加できる。被災者支援活動を考えたとき、一介の個人として出来事に直面することができるのだろうか。職業の立場でことをなすとしたら、職業業務範囲外の内容の活動に参加するとが、思いつくだろうか。組織の論理である。私のような社会活動フリークのような立場との接点は、範囲が膨らむとき、つながっていけるのだろうかと考えた。

私は言葉の意味を奪われた者の側に寄り添う者だ。味方とはいわない。うーんと相手のバッグに目をやっていると、

「聴いてる?」

とお叱りを得た。この言葉の隙間に、私は立ち尽くしている。


夜間傾聴>ふたり

(校正1回目済み)

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする