湘南オンラインフレネ日誌

フリースクール湘南オンラインフレネ学習的就労支援活動・災害ボランティアの実践を書き溜めていきます。

11/6 通じない言葉と被災体験のこと

2015-11-07 05:30:28 | 地震津波災害ボランティア

2015/11/06 記
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昔、私達、フリースクール系私塾の主催者の教材研究会は、毎月集まっては、経験交流をしていた。1990年代、私は介護との両立の困難がある中、自主企画の事件から、続ける気力を失い複数講師のいる塾を閉じ、他塾の講師や進学予備校の学習カウンセラーをしながら、細々と中高生らと塾活動を維持していた;そのころ、阪神・淡路大震災が起き、私は支援活動の企画を湘南にできることを考えさせることによって、自主判断の流儀を残して完全に塾を閉じるつもりでいたため、教材研出席も疎かになっていた。

教材研の世代は私よりも上の方が多かった。いわゆる団塊の世代。その方々を中心に半数を超える方が亡くなっていたのだ。親しくしていただいた方の奥様に、遅ればせのお悔やみをメールで伝えていた。生前のことにふれたた為、奥様の要請によって教材研やら打ち上げの飲み会など、長いメールのやりとりとなっていた。深夜、書いているうちに、とてつもない闇を覗き込んでいるような喪失感が追いかけてきた。

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私はミニFMをやっていた頃の子と、奇妙な場で再会していた。それは、サポセンの地域ミニコミの会合などだった。今は社会人の年齢だから「子」と呼ぶのは失礼だ。「**君」としておこう。以前に2回、会いたくないところで会っていた。座間の今はシアトルにいるA子の孤独と向かい合い、アジア系国際人の家系を認めぬクラスメートからのいじめに、自分は何人なのかと、むきになり、登校に自分を追い込んでいた。引きこもりのすすめを説いて、登校を休むようすすめた私に、A子は熱いお茶をぶつけ、私はびしょぬれになって相模線で帰宅した。その途中、彼女を追い込んだ境遇に泣いていた。二回目は、激しい自傷行動に親御さんから助けを求められ、知り合いのPSWさん仲介で、某精神科に彼を避難させたとき、親御さんを支える私を、睨みつけた彼の眼差しがのしかかっていた。相模線で崩壊していく彼の姿に泣いていた私を、**君が再び見たのだった。彼はアルコール依存症を起こしていた。ただこういう若い子と負の淵をくぐっているときの顔を見せたくはなかった。どう説明しようが、**君に届く言葉が見当たらない、そういう場面だった。

ひとは特異な経験をしているとき、常識という壁が見えてしまう。ありえない標準に身を曝して身なりをあわせようとしている姿に自己嫌悪する自分がいる。そういう「語れない・繋がりが見えない」シビアな子たちと私は対話してきた。

こんな事例がある。戦地から難民としてアメリカにたどりついた子が、アメリア・アレナスの美術批評授業の際、ゴッホの星月夜を見て「これは空爆だ」と語って周囲の子たちの失笑をかった話を聞いた。教師は「君はユニークだね」と笑ったという。彼は孤立した。通じない言葉を山ほど胸に抱える第一歩がそこに始まっていた。

こういう空転は、大災害を生き抜いてきたひとたちの胸の中にある。発災後避難所生活を続ける子たちに、ボランティアが接して感じたことは、こぼれそうな水をたたえたガラス器のような感触だった。大変な親を見て、我慢を積み上げている姿だった。しかし、その空転と孤立感は大人にバトンタッチされている。家族とつみあげてきた人生が清算の憂き目にあり、せっかく仮設住宅の暮らしの中に、生み出してきたご近所さんの絆も災害公営住宅入居等によって、取り残されていく寂しさは、突然現れた巡回相談員や、よそ者ボランティアにも語れない。さあ話なさいといっても、つうじるはずもない。いじめがあれば、アンケート調査を平然とやれる教員の無責任さに似た、響く相手の不在が原因だ。

こうした長い空転を抱えてきた阪神・淡路大震災の先行事例を知りたいと思うのだ。都市型災害被災下の単身高齢者や障がい者の生き残った者たちの> 自分は何人なのかと、QOLをあげる方策をどうたてたらいいか。だからこそ中間支援者の想像力がとわれている。

夜間傾聴>ひとり

(校正1回目済み)

 

コメント
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